そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

ちょっとだけ再開 おさしづにお伺い

4/7青年会例会に支部長、副支部長が共に不在で、ボクが代理で中心となって行われる事に。




勿論一番最後のお話も指名されてしまった。(終席と言える程の事では有りません)


何を話そうか…

次にこんな機会が有ったら「この話」ってのが有ったけど、それは毎月発行している当布教所の月刊誌の投稿ページに載せてしまった。

何より最近の緩みきった心では、何も話が思いつかない。


そう思ってる時に26日、ご本部(天理教教会本部)に行かせて頂く事になった。

おぢばでもう一度心引き締めようと喜んで行かせて頂いた。


神殿でおつとめをして、教祖殿に座り、深く深く頭を下げた…と、言うよりうなだれた


申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
これからは心入れ替えて…て、言えない。

反省してはお詫びし、反省してはお詫び・・・・・・何度繰り返す気か。




ただただ申し訳ないばかりで頭を上げる事の出来なかった時、ふと、ひとつの思いが胸をよぎった


(「折角話すんだから、カッコ悪い話はしたくないな」という思いが俺には有ったんだな)

話す事が何も無いとか言いながら、実は本当に無いわけでは無かったんです。

ただ、こんな話をすると自分がカッコ悪くなるから、折角思いついた話をいつの間にか自分でどこかへ隠してしまっていた。


そうか、こんな心が有ったんだ。この心がいけなかった。

それならもう、どれだけカッコ悪い話でもいい!「所詮藤太郎」「結局藤太郎」と言われようと、神様の話をしっかり伝えられる話にしよう!

自分はどんな風に思われてもいい、神様にお喜び頂ける話をボクに教えて下さい!


そう教祖にお願いして帰り、すぐに話を考えたところ、スラスラと思い付く。

これはやっぱり親神様や教祖が教えて下さっているんだと、本当に思えた。

ただ、それでも何度か心が緩みそうになります。

そんな時は神殿に座って、心を集中させます。


そんなある時、ふと「今神様が何か教えて下さるのではないか?おさしづを開いいた方がいいのでは?」という思いが頭をよぎった。

おさしづを開いたところ




 

これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。

 

とのおさしづが




ビックリした!
 

確かに軽くしていた。考えてみれば話の中に埋め合わせのようにおさしづを入れていたように思う。






そんなこんなで何とかお話は完成しました。




いざ当日の夕方になってふと思った。

今まで青年会例会を単に月例行事だと軽くしていたが、青年会として大切な行事の筈だが、この日に支部長、副支部長ともに不在とは、何か節を迎えているのではないか。神様の大きな思惑が有るのではないか。

そう考えながら女鳴物の準備をしていたら胡弓の糸が切れてしまった。


うわぁ…




自分は特に大きな節目なのかも…

先案じはいけないと分かっていながらもやはり不安を感じざるを得ない…

あの時のあれがいけなかったのか?ここがいけなかったのか?これからどうやって通るべきなのか?


そんな思いが交錯していたその時、またまたふと神様が何かを教えて下さる気がした

神殿に座り、おさしづを開く。その時のおさしづ




 

 

さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\尋ねる処は、余儀無く尋ねるであろ。まあ一つどういう事にも何よの事もどういうもので、こういう事になると思う。思うやない。どんな事も、こんな事も、世上にも同じ事、中に一つ、まあ危ない処も遁れるは、年々の道理で遁れる。どけな辺所な所、もう危ない所でも、残りて来るは頼りた理である。又、わき/\の処、内々何故であろうと思う。思うやない。必ず思うやない。どんな難しい中でも、抜けて救かる処、聞き分けにゃならん。何でこういう事になると必ず思わず、よう聞き分け。道というは、世上は同じ一つ通りて居る。頼りありても分からん。こんな事と思う。思うやない/\。どんな事あろうが、この心理に皆一つの理なら、明らかなる処に成る程に。案じな/\。安心して居よ/\。どんな事あろうが、こんな事あろうが、道の上ならどんな事あろうが、理が残る。末代の理、この理聞き分け。一代と思たら長いようで短い。短いようで長い。この道の一つの理、なか/\艱難通らして暮れた者もある。これも名残れば末代の理。あちらの書物、こちらの書物に届く理残る。留まる理治まったる。こんな事と思うやない。これだけ、丈夫な心持ってくれるがよい。

 






おお…

そうか、安心してていいのか… 

余計な人間思案は要らなかったんだ

細かく詳しくは分からないけど、ものすごく有難いおさしづに心がスッとしました。


しかし、その時に思ったのが

ボクの場合親父がおさしづを本気で研究しているからこそおさしづにお伺いする事を知った。

もしこれがなかったらおさしづなんて見向きもしなかっただろう…

そうなったらあれがダメなのか、これがダメなのか、案じの心ばかりで、ドンドン神様のお心から離れていってたのだろう。


分からないながらもおさしづを勉強してきて良かった。

親父は人から「ちょっと気が狂ってる」とか「頭おかしい」とか言われた時期も有ったけど、それでも人の顔色など見向きもせず、真っ直ぐに神様を見つめ、おさしづの研究を続けて来てくれたからこそ今のボクが有る。

どんな時もおさしづに従いたいと思えるボクがいる。

そして今では親父の書いたおさしづの解釈した文章を求めて読んでくれる人がいる!

ある人は…

両親を亡くし、自殺まで考えていたが、それを読んだら本当に心が楽になり、地獄から天国に来たように今は幸せな気持ちでいられると言う


またある人は…

読んでいたら神様の有難い親心に涙が止まらなかったと言う




かつて親父の事を「気が狂っている」と言っていた人も今ではそれを真剣に読んでいる。




自分だけではおさしづの大切さなど気付きもしなかっただろう。

親父には感謝してもしきれない!

そして、これからも、どんな時も神様のおさしづに従いたいと思います。


おふでさき・みかぐらうた・おさしづ

このブログ出てくる天理教用語が全く分からない方の為に、自分なりに用語の説明を書いておきました。

飽くまで参考程度に見てください。






『おふでさき・みかぐらうた・おさしづ』


天理教の三つの原典です。神様が教祖の口や筆を通して教えて下さるお言葉。

おふでさき

教祖が13年間を掛けて執筆した、1711首の歌による書物。教祖の直筆による親神様の教えを五・八・五・八・八で記したもの。

みかぐらうた

「おつとめ、よろづよ八首、一下り~十二下り」まであり、これに「ておどり」と「かぐら(和楽器の演奏)」が付けられている。

おさしづ

「おふでさき」「みかぐらうた」が教祖の直筆に対し、「おさしづ」は教祖、または本席様の口を通して仰せになった親神様のお言葉を、側にいた書取人が速記したもの。

お道

このブログ出てくる天理教用語が全く分からない方の為に、自分なりに用語の説明を書いておきました。
飽くまで参考程度に見てください。




『お道』


一言で言えば天理教の信仰の事です。

「お道に付かせて頂き」(天理教の信仰をするようになったこと)

「お道の人」(天理教の信者)

「お道を聞いていて」とか「お道がある」など


たんのう

このブログ出てくる天理教用語が全く分からない方の為に、自分なりに用語の説明を書いておきました。
飽くまで参考程度に見てください。




『たんのう』

常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに喜び勇んで明るくくらすのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。 (天理教教典より)

親神様は人間を真から救けるために、一時的な苦労を与えて下さいます。その苦労に対してたんのうの心を使わせて頂く事が肝心だと教えて頂きます。

たんのうとは辞書で調べると「満足すること」とあります。どんなことが起きても全ては親神様の思惑と悟り、満足たんのうの心で受け取る事が大切であり、また、辛い事や苦しい事も十分に味わい満足する心と教えて頂きます。




世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。 (天理教教典より)

     

人は何事も無く通れる事が何よりのご守護と思いがちで、身上や事情にお手入れを頂くとお救け頂きたいと願います。しかし、おさしづではこのように教えて下さいます。

身上不足ありてどうもたんのうは出け難くい/\。為すいんねん多いか少ないか、皆めん/\内々にある。今日もよい/\と言えば、たんのう出ける。悪い中にたんのう治められん。道理と言う。成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。
(明治三十年七月十四日) 


                    

不自由の処たんのうするはたんのう、徳をつむという、うけとるという、これ一つきゝわけにゃならん 
(明治二十八年三月六日)


身上、事情の悪いところを喜んで通る事は簡単に出来ることではありませんが、その中を何事も親神様の思惑と悟り、たんのうする事が誠真実であり、前生因縁のさんげとなります。また、それが徳積みになると教えて頂きます。神様にお喜び頂く理が、徳に代わるとのお教えから考えますと、たんのうの心は神様がお喜び下さる心であると思わせて頂きます。

たんのうの反対の心が不足であると思わせて頂きます。

不足思えば皆不足になるで。
(明治二十三年五月十三日)


とのお言葉通り、成ってくる事に対して不足の心では、返ってくるのも不足になってしまいます。



「成つて来るのが天の理」と仰せ下さいます。

どんな身上、事情の悩みも、すべて親神様がその人の心の成人を促すための、思し召しであり、深い親心です。成ってきた事全て受け取り、神様にもたれて通らせて頂く心を神様は喜んで下さり、誠真実であり、それが前生因縁のさんげとなります。




天理教用語(飽くまで参考程度に)

このブログ出てくる天理教用語が全く分からない方の為に、自分なりに用語の説明を書いておきました。
飽くまで参考程度に見てください。


おふでさき・みかぐらうた・おさしづ
おぢば
お道
救ける
団参
たんのう
出直す
布教所
身上





『おふでさき・みかぐらうた・おさしづ』

天理教の三つの原典です。神様が教祖の口や筆を通して教えて下さるお言葉。

おふでさき

教祖が13年間を掛けて執筆した、1711首の歌による書物。教祖の直筆による親神様の教えを五・七・五・七・七で記したもの。

みかぐらうた

「おつとめ、よろづよ八首、一下り~十二下り」まであり、これに「ておどり」と「かぐら(和楽器の演奏)」が付けられている。

おさしづ

「おふでさき」「みかぐらうた」が教祖の直筆に対し、「おさしづ」は教祖、または本席様の口を通して仰せになった親神様のお言葉を、側にいた書取人が速記したもの。





『おぢば』

天理教教会本部が有る奈良県天理市は、親神様が人間を宿し込み下さった地であり、我々人間の故郷であります。それを「おぢば」と言います。

そしてその一帯を「親里」と呼ばれています。


(以下、ようぼくハンドブックより)

人々の心が澄み切って、親神様の思召通りの「ようきづとめ」を勤める時、この台に、天から甘露(天の与え)が授けられます。

これを頂くと、人は皆、病まず、死なず、弱らずに、百十五歳の定命を保ち、この世は陽気ぐらしの世界となると教えられています。

また、かんろだいは、人間の創造と成人の理を表して形造られています。






『お道』

一言で言えば天理教の信仰の事です。

「お道に付かせて頂き」(天理教の信仰をするようになったこと)

「お道の人」(天理教の信者)

「お道を聞いていて」とか「お道がある」など


『救ける』


「すくける」ではありません。

天理教では「たすける」を「救ける」と書きます。それは一時的に痛みや憂いを取り除く「助ける」ではなく、苦しみを見せて頂いているその人の心を真から「救ける」のだと教えて頂きます。


『団参』

団体で天理教教会本部へ参拝させて頂く事。教祖の年祭や四月十八日の教祖誕生祭、春の学生おぢばがえり、夏の子供おぢばがえり、婦人会総会や青年会総会等は全国の教会から参拝に来る。海外からも参拝者がある。

通常は教会や布教所など個々で行われる。


『たんのう』

常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに喜び勇んで明るくくらすのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。 (天理教教典より)


親神様は人間を真から救けるために、一時的な苦労を与えて下さいます。その苦労に対してたんのうの心を使わせて頂く事が肝心だと教えて頂きます。

たんのうとは辞書で調べると「満足すること」とあります。どんなことが起きても全ては親神様の思惑と悟り、満足たんのうの心で受け取る事が大切であり、また、辛い事や苦しい事も十分に味わい満足する心と教えて頂きます。




世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。 (天理教教典より)

     
人は何事も無く通れる事が何よりのご守護と思いがちで、身上や事情にお手入れを頂くとお救け頂きたいと願います。しかし、おさしづではこのように教えて下さいます。

身上不足ありてどうもたんのうは出け難くい/\。為すいんねん多いか少ないか、皆めん/\内々にある。今日もよい/\と言えば、たんのう出ける。悪い中にたんのう治められん。道理と言う。成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。
(明治三十年七月十四日) 


                    
不自由の処たんのうするはたんのう、徳をつむという、うけとるという、これ一つきゝわけにゃならん 
(明治二十八年三月六日)



身上、事情の悪いところを喜んで通る事は簡単に出来ることではありませんが、その中を何事も親神様の思惑と悟り、たんのうする事が誠真実であり、前生因縁のさんげとなります。また、それが徳積みになると教えて頂きます。神様にお喜び頂く理が、徳に代わるとのお教えから考えますと、たんのうの心は神様がお喜び下さる心であると思わせて頂きます。

たんのうの反対の心が不足であると思わせて頂きます。

不足思えば皆不足になるで。
(明治二十三年五月十三日)



とのお言葉通り、成ってくる事に対して不足の心では、返ってくるのも不足になってしまいます。



「成つて来るのが天の理」と仰せ下さいます。

どんな身上、事情の悩みも、すべて親神様がその人の心の成人を促すための、思し召しであり、深い親心です。成ってきた事全て受け取り、神様にもたれて通らせて頂く心を神様は喜んで下さり、誠真実であり、それが前生因縁のさんげとなります。


『出直す』

天理教では他界する事を「出直し」と言います。そしてまた再びこの世に生を受けます。
教祖はこの[出直し」を着物に例え『古い着物をぬいで新しい着物に着替えるようなもの』と
教えて下さいます。





『布教所』


天理教奈良県天理市に「教会本部」が有り、その教会本部の直下に「大教会」が有り、大教会に所属する『分教会』。そして分教会がいくつもの「布教所」を持っています。
教会の他に、各都道府県に教務支庁もあります。





『身上』

身上と言う言葉には二つの意味が有ります。
一つは人間の身体の事。天理教では我々の身体は神様からの借り物と教えられています。

その証拠として、我々は例えば食事の時、ご飯を噛んで飲み込むまでは自分で出来ますが、飲み込んだ後、胃で解かしたり、腸で栄養を摂取して・・・など、自分で出来る人は居ません。
産んでくれた親だって子供の体がどうなっているか、知っている人など一人もいません。

人間が寝ていたって体はちゃんと機能してくれています。それはなぜか

総ては神様が朝から晩まで、休むことなく働いて下さっているからです。

そして、その身上を、病などで患う事を「身上」や「身上になる」「身上を患う」などと言います。

それは悪い事ではなく、人間を真からたすける為の神様の手引きです。
身上を経る事で、心得違いを気付かせて頂けるのです。

また、人間は世界一列をたすけたいと思し召し下さる神様に対し、沢山の残念な思いを
させています。
残念があるうちは真からたすかる事は出来ません。

身上など、一時的な苦しみを与えて下さる事で、その残念を取り除いて下さるとも教えて
頂きます。

.

しばらくお休みします。

最近記事を書くのに自分に考えで書くようになって来た。

調子がいい時は頭に自然と文章が浮かんで来て、スラスラと書けた。
神様がボクに書かせて下さったいたんだと実感する。

ところが、最近は自分で考えて記事を書いている。



それがまず一つ。

今一つは、おさしづの勉強をさせて頂くのに、支障が出てきた事。
ブログの記事を書く事で、おさしづを勉強させて頂く時間が減っている現状。
と、正直に言いますと、ココログのつぶやき機能が面白くて、そっちに気を取られる事が増えて来た事。

雑念入りまくりでした。


色々考えあってやった事ですが、集中力の無い自分の性格を考慮に対し、考慮が足りなかったかも…



以前にも某ゲームサイトで沢山の友達を作って、はまりすぎた事が有りまして。



以上、二つの理由を理由に一度休ませて頂いた方がよろしいかと、おさしづに訪ねさせて頂きました。



パソコンに明治20年~40年のおさしづが入っていて、神殿で神様にお伺いのお願いをさせて頂き、パソコンに年代別に入っているおさしづのフォルダの中から、何気なく明治29年のフォルダを開く。
そして適当にスクロールしてピタリと止めた所のおさしづがこれでした。







さあ/\尋ぬる事情/\、尋ねにゃなろうまい/\。存命々々と言うであろう。存命でありゃこそ日々働きという。働き一つありゃこそ又一つ道という。存命一つとんと計り難ない道なれど、又日々世界映す事情聞き分け。尋ね掛けば諭す。どんな事も諭さにゃならん。まあ今日はこれで治めて置け。又後々十分話伝えるによって。








びっくりしました。
まさかドンピシャでこのおさしづが来るとは…


一番最初に始めた時も







何かの処、たすけ一条、勇める処話を伝え。








と、これも本を何気無く開いたページでした。




どんな事でもおさしづにお訊ねすれば必ず神様が答えを見せて下さいます。



分からなくても、自分の考えでは、人間ですので間違いは必ず有ります。
どんな時でも神様の思いを求めて通らせて頂けば、必ず神様に連れて通って頂ける。


と言う事を実感させて頂きました。



また後々十分話を伝えて下さるとの事ですので、神様より、教えて頂く事が有れば、その時はまたここに来て、記事を書かせて頂きます。



それまでさよならです。

長い間ご愛読(誰もしてない!)有難う御座いました。m(_ _)m



東京へ行って来ました -青年会総会-

東京某大教会にて某日、青年会総会が有りまして、参加させて頂きました。


自分、愛知の人間でして、現地に9時集合ですので、何と出発は朝の3時だって…

冗談言うよね~
でも冗談じゃないらしいよ~




結局起きたのが精々踏ん張って2時10分!
起きたのか、寝てないのか、どっちだ?


ボクらは住み込みなんで、その時間でいけるけど、中には「今日は寝てないよ。」って人も

んで、野郎9人、女の子4人、運転手2人、計15人でマイクロバスに乗って出発しました。



道中、突然「ババ抜きやろうぜ!」とか言いだす男が。

バカな!
と思ったけど、以外と出来てしまう…




ボクら野郎共がバカ騒ぎする中もバスは進み、途中2回の休憩を挟み、今年2度目の東京(今年の3月にも自分含む4人、布教所の代表として行っていました。)




今回は委員長さんから「折角の東京だから、ちょっとくらい観光でもどうか」と言うお言葉を頂きましたので、(現在我が布教所は所長不在で、実質のトップは委員長さんです)
話し合った結果、帰りは「お台場」へと行かせて頂く事に。


そしてバスは東京へと踏み入り、目的地の大教会へと到着しました。









おつとめ~十二下り。式典、記念講話と言う内容。

おつとめ~十二下りの間、朝二時起きだった事もあり、周りを見ると半数近くの人が胡座で首を垂れて眠りに入っていた。(ボクもそのうちの一人です。)


そして式典が始まり、大教会長さんのお話を聞かせて頂きました。

話の中に教祖の御逸話が有りました。
それはこう言うお話です。





その日は土砂降りの雨の日で、教祖はそばの人に、小さな茶碗と大きな樽を用意し、庭に置くようにと言われた。
当然、小さな茶碗はすぐに雨水でいっぱいになり、溢れ出したが、大きな樽はまだまだ雨水が沢山入る様だった。
それを見て教祖はそばの人に「お前さん達これを見てどう思う?」と聞かれた。

どう答えればいいか分からず、返事に困っていると、教祖は「天の与えは誰にでも平等。しかし受け取る側の心が小さな茶碗のようだったら、この様にすぐに溢れてしまう。樽のような大きな心なら、沢山のお与えが頂ける。」と話された。




と言うお話でした。
そして話は続きます。
「今日、この青年会総会に皆さんは喜び勇んで参加してくれた事でしょう。
しかし、中には『青年会があるから、行けと言われたから仕方なく』と言う方もいるかも知れない。
沢山の[天のお与え]を頂けるか、少し頂いて溢れてしまうかは受け取る側の心次第です。」


とお話をして下さいました。







このお言葉はボクの心にガツンッ!と大きな音を立てて響きました。
何せたった今、おつとめの最中まで寝ていたのですから…


折角の総会なんで、一生懸命勤めさせて頂こう。
昨日の夜までは心の表面でそう思っていたのに、いざ当日になってみると、眠さに負けて胡坐で首を垂れて寝ていて、もういつの間にか心はお台場へと到着してしまっていました。

遠路はるばる東京まで来て参加させて頂いたのに、小さな心で勤め、ほんの少しだけのお与えを頂いて帰ってしまっては勿体ない。

小さな茶碗はまさに自分の事でした。



今度からこう言う機会を頂いた時は、一つも漏らす事無く[お与え]を頂いて帰れるよう、一生懸命に勤めさせて頂きたい。




そう反省し…ながらも終わってみるとやはり心は「お台場」でした。








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さてさて、さっきから「お台場、お台場」五月蠅いようですが、あえてお台場ごり押し攻めしましょう。


バスは「芸能人芸能人」とやかましい田舎連中を乗せて、豊島区から港区へと移動します。

かつて仕事でフジテレビに行った事のある兄が「芸能人に会う事はまず無い!」と言っているのにも関わらず、まだ「芸能人と遭遇するかもぉぉぉ!」とか騒ぐ(ボクを含む)バカ連中!


田舎では見られない建物の数々。

スカイツリー両国国技館、東京拘置所
テレビでしか見た事ない建物にテンションだだ上がり!



もうシマイには白バイ見ただけで「うぉい!あれ愛知県警じゃねえぞ!警視庁だぞ!」

とか、「クロネコヤマトだ!さすが東京だな!」とか…


もう何でもいいからとりあえず騒いどけぇ!(ノ≧∀≦)ノ





そして到着したよ、フジテレビ!!

一番の目当てはスタジオ!
インターネットで調べたところ、フジテレビではスタジオが見られて、運が良ければ撮影中を見れるかも、との事。


意気揚揚と見に行ったけど・・・・・・・・・
全部カーテンが閉まってた






その後、野郎共と女の子達で別れてホンの少しの自由時間。
野郎共の目的は、フジテレビの近くにある、屋内型遊園地「ジョイポリス


仕事でフジテレビに行っていたと言う兄貴が、そこで「サスケ」が出来ると言う。

混むのでは無いかと一人が聞くが、どうやら見物者が多くて、恥ずかしくて皆やらないらしい。
でも俺達はやる!
絶対やる!


と意気込んで行ってみたが、去年の10月で終了したとの事。

残念!





とにかく中に入って見る。
入場料は500円。

時間があまりないのでフリーパスは勿体ない。



…が、更に残念な事に、どのアトラクションも人がいっぱいで、結局何もやらずに外へ出る事に。
田舎モン9人で何しに来たのか…


結局チケットを500円で買っただけで終わってしまったorz









Odaibafujiterebi
フジテレビ前。テレビでよく見る






007
レインボーブリッジ。封鎖はされていなかった(当たり前)





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スカイツリー。近くで見ると凄い。






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500円で買ったジョイポリスのチケット。





帰りのバスでは運転手さんが声高に「ほら、皇居だぞ!」とか、「東京タワーだー!」とか、「都庁があるぞ!」とか教えてくれるけど、皆もう行きのテンションは無く、ただただ静かにして欲しかったww



善いタネと悪いタネの処理方法で変わる幸せな生き方

 人間は、心一つは我がの理と許されてくらすうちに、善き種もまけば、悪しき種もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。天理教教典より)



世間一般にも因果応報と言う言葉が有ります。

 

いい事、いい心遣いをすれば、巡り巡っていい事が起きて来る。
悪い事、悪い心遣いをすれば、悪い事が起きて来る。

 

これを天理教では「種」と教えられます。

 



人間は普段から何気なく善い種、悪い種をまいています。

それは必ず我が身に返って来ます。
それが種と言う物です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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先日、東京の某大教会にて青年会総会が有りまして、参加させて頂きました。

 

この詳細は後日、『青年会総会in東京』
とでも題して書き込みたいと存じております。…が、

 

 



その前に、その日聞かせて頂いたお話の中で、なるほどと納得し、実に感動した一部分を紹介させて頂きたいと思います。

 

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それは「種」のお話です。

 

 

普通、作物を作る時、種をまいて、土を被せます。
そして芽が出て、花が咲き、実が生ります。

もし土を被せず、太陽にさらしてしまえば、枯れて芽が出なくなってしまいます。

 

 

 

 

人と言うのは良い事は他人に自慢したくなります。

 

悪い事、悪い部分と言うのは隠したいものですね。

 

 




                 Cocolog_oekaki_2011_09_25_22_00

 





土を被せず、人目にさらした(太陽にさらされた)良い事、いい行いは枯れてしまい、芽が出なくなります。芽が出ないから、折角種をまいても実が生りません。

 

そして、土をかけて隠してしまった悪い事はしっかりと芽が出て、花が咲き、実が生ります。

 

後になって不幸な出来事が起きて「なんでこんな事になるんだ!」と怒ったって、全て自分の行いと心遣いが原因ですから誰にも文句は言えません。

 

 



それを嘆いて、運命を呪ってみたって、またそれは悪い種として自分に返ってきます。

 

起きてきた事に不平不満を言わず、満足たんのうの心を治める事で神様は懺悔として受け取って下さいます。

 

 

 

 

 



逆に悪い行いや悪い心遣いは人にさらし、笑われて、そしられる事で種は枯れて消えてしまいます。

 

良い事は土を被せてそっとしておきましょう。いつか大輪の花を咲かせてくれます。いつか素晴らしい実を生らせてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてもう一つ。

 

 

 

人と話をする時は、その人が喜んでくれる話し方をする事で自分が「人を喜ばせた」と言う種になります。

人から嫌な事を言われても、怒らず、喜びの心で聞く事で、その人に「人に嫌な思いをさせた」と言う種をまかせずに済みます。





と言う話も有りました。



 

 

人から何かを言われると、「おめぇに言われる筋合いねえよ!」と内心で思います。するとその人は「人に嫌な思いをさせた」と言う種をまいてしまいます。

 

まいた種は勿論その人に返って来ます。

 

「ざまぁ見ろ!」と思うでしょうが、それではまた悪い種が繰り返されてしまいます。
自分も嫌な気持ちを使っただけは悪い種として芽生えてきます。

 

もし自分が怒らずに、「イヤ、こんな事を言われるのも過去に自分でまいた種なんだ」と、治めていれば、その人は悪い種をまかずに済みます。
でもそれは自分が治めたのだから、まかずに済んだのです。
「人救けたら(たすけたら)我が身救かる(たすかる)」と教えて頂きますので、それは善い種として必ず自分に返って来ます。

 

更に言えば、言われた事を喜んで受け取れば、その人は人を喜ばせた事になり、その人に善い種をまかせた事になります。
それは更に善い種となって、自分にも返って来ます。

 

 

 

 

 

 

 

と言うお話でした。

 

…まぁ、理屈じゃ分かっていても、やっぱりカチンと来ますけどね。

 

 

 

 

 

それでも神様を信じて出来ないながらも努力させて頂けば、神様は受け取って下さいます。
そして手を引いて下さいます。

 

 

 

 

 

その心を忘れず、いつもそんな気持ちで過せたら、きっと幸せなんだろうなと思いました。













←──→○←──→○←──→○←──→○←──→○←──→







ところで!



話はガラッっと変りますが、先日ある方が、ボクの駄ブログにいつも適当に描いてUPしている絵を、評価して下さいまして、調子に乗りやすいボクは、やはり調子に乗って、いつもちょっと空いた時間に描いている落書きを今日はUPしてしまいたいと思います。




電話番をいつも交替でしているのですが、使わなくなったメモ用紙などに適当に描いてる落書きがありまして、捨てようとすると「折角良い絵が勿体ない」と言う人がいるので何枚かとってあるんですが(早速自慢してます…今日のブログの内容なんだったっけなぁ)



それをワザワザ写真に撮ってしまいました。









003

金村高男さん(51)と三年前に飼い始めたにも関わらず、まだ名前を付けてもらってない犬と、何故か奥さんを怖がるメイドの山田さん



002
金村産婦人科医院の院長富代さん、高男さんの奥さん。長男の安男君(ニート)は父になついている犬が恐い。

004
ある日の新聞の別冊にバレリーナが載っていたんで、それを描いた。顔は遊び心ですw



001

斜暮惣右衛門(シャクレ ソウエモン)さん。あごのしゃくれがチャームポイントだと本人は言う。しゃくれっぷりばかり気にしているので、「しゃくれ惣右衛門」の異名が付けられたが、以外にも本名と全く一緒だった事に、本人が一番ビックリしている。

















はい。かなり話が脱線してしまいましたので、今日はこれにて…

 

神様の思いを求めて


毎日分からないながらもおさしづを読ませて頂く。
(よく脱線するけど)

 

 

本当に分からない…読んでてさっぱり。









父が毎日おさしづの研究をしている。

 

毎朝3時に起きておさしづを読み、昼は御飯を食べずにおさしづを読む。

 

 

ほとんど自分のことなんかやる暇ないし、やらない。

 

 

風呂と食事だけ。テレビもほとんど見ない。

 

 

ボクが学生の頃の父はあんなにテレビが好きで、中日ドラゴンズが好きだったのに、おさしづを読み始めてからは、本当に見なくなった。

 

酒も煙草もきっぱり辞めておさしづに没頭している。

 

毎日おさしづとにらみ合い。

 

 

 

 

 

 

その父が言っていた。

 

おさしづの中で分からない言葉はおさしづで調べる。

 

 

 

 

 

「なんのこっちゃ!」って思うけど…






 

         Cocolog_oekaki_2011_09_22_13_56      

 

 

 

 

 

例えばおさしづに『神一条』と言う言葉が出て来る。

 

人間的に知恵だけで考えれば意味だけは理解出来るかも知れないが、神様のお心にある『神一条』とはどんな意味を示すのか?

 

 

 

知恵や学問だけでは分からない。

 

 

 

そこで『神一条』と言う言葉が出て来るおさしづを一つに纏めて読ませて頂く。


 

すると父曰く、『神一条』の意味がよく解るそうです。












そう聞いて色々と調べてみるも…やっぱり分らん!





でもボクの場合、分らないと思って投げ出すからダメなんですね。
同じく弟がおさしづの中に出て来る『誠』という言葉の意味を調べていて、朧げながらにも分かって来た事を教えてくれた。










ここはああで、ここはこうで…とか。







 

 

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すごいなぁ。俺全然わっかんね~


俺はそう言う理解力がないもんで…やっぱり駄目だな。







って言ったら、弟が

「俺も分らんかった」って










以前に彼は自由自在(じゅうようじざい)と言う言葉を調べていた。


確かにあの時は「分からん」と言っていた。






しかし、分からないながらも読み終わってみると、何となく頭に入っている、「こう言う事なのか」と自然に浮かんで来る。


と、弟は言う。








確かに、考えてみれば頭が良ければ出来る道じゃないし、頭が悪ければ出来る道でも無い。


おさしづに




深き何でも十分の学をし、十分の学を治めよう。智者学者あっても何にも治まらせんで。













とあります。







分からなくても、低い心で必死に神様の思いを求める。

その心を神様は受け取って下さるのではないでしょうか。







木の根っこの話を父から聞いた事がある。



木の根っこは水を求めて、下へ下へと根を伸ばす。






お道も一緒で、低い低い心でただ我武者羅に、ハングリーに神様の思いを求めるのだ
…と。







また、人の体は食事で栄養を摂り、体が丈夫になる。

心は神様のお話を聞かせて頂いて心が強くなる。

…とも。







ボクなんかは弱~い弱~い人間心でして、神様のお言葉はこうだけど、実行する事が出来ない。

人間心にいつも負けてしまう。





しかし、毎日神様のお話をお聞きして、「なるほど」と納得し、心に治める。

それが心に栄養となって、強くなるそうです。

 

そう言えば以前のボクは神様のお言葉を勉強しようとか全く考えていなかった。
…が、今は(時々脱線しながらも)何とか神様の思いに近付きたいと言う意識になって来た。

 

ちょっとしたきっかけなんですよね。

 
 
ちょっとの心の向きを神様が大きな力で支えて下さると、父が教えてくれた。

 

 

だからやっぱり分らなくともおさしづを勉強し、神様の思いを求める事が大切な事だと思います。