そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

早起きは・・・

 

ブログネタ: 早起きしてやっていること、やりたいことを教えて!参加数



散歩!




人よりちょっとだけ早く起きて、一人朝の道を歩く…昼間では見られない、それはとても爽やかな景色。

清々しくていいよね~……きっと(ボクはやってませんけどね)








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冗談はさておき…




天理教教祖、中山みき様の教え、「朝起き、正直、働き」

この「朝起き」
勘違いされやすいんですが、ただ朝早く起きればいいという訳ではないようです。
ボクもそう思っていたんですが…



教祖("おやさま"と言います)のこんなお言葉が有ります。



「朝早く起きて人さん起こすのと、起こされるのでは、大きく徳、不徳に分かれるで。」


それは朝、ただ単に「人を起こして廻れ!」









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と、いう意味では無く、朝起きて人の為に何かをさせて頂く事が大きな徳積みになると言う意味だと聞かせて頂きます。



そして、徳積みと言えば教祖のお言葉に
「徳を積ませて貰おうという心はいかんで。」

と有ります。



最初は「何故!?」と思いましたが「徳を積む」では自分の為だからです。
「我が心は人の為」

人の為に、という心が徳を積む心なのです。



なので、話を纏めると、朝起きて人の為に何かをさせて頂くのが「朝起き」の徳になる。
(あれ?さっきと言ってる事変わってねぇな…)





分かりやすく言いますと…


昼は働く時間です。その時間に働くのは当然であって、
「俺って真っ昼間から働いてるんだぜ!すげえだろ!?」

と言われても…ですよね。



逆に朝、夜明け前は、まだ寝ていて良い時間です。要するに「自分の為の時間」なんです。
その時間に人の為に何かをさせて頂くって…それこそ素晴らしい事ですよね。



その心を神様は受け取って下さいます。
そして大きな徳になるのだ、と教えて頂きました。








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天理教信者さんへ




これはボクが勉強させて頂き、教えて頂いた事の中でかなり重要な事だと思わせて頂いた事です。とても熱心におさしづの研究をされている方から教えて頂きました。

その方は「その時がもうすぐそこまで迫っている」と言われます。

また、同じくおさしづの研究をしている別の方が、「もう時間がない」と仰っていたそうです。それは知り合いの人ではなく私の知人がネットでそう警告しているのを見つけたと教えてくれました。

二人とも勿論打ち合わせたわけでも無く、おさしづを研究している二人、顔も知らない者同士が同じ事を言っています。
本当に通るに通れない日が迫っているんだと思います。


その方に教えて頂いた事をこの場で伝えたいと思います。

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このは「本道」が始まる前の、まだ「仮の道」と教えて頂きます。



仮の道とは「夜明け前」の道

今この世界はまだ神様の御守護がはっきりと目に見えてはいません。
お話を聞かせて頂いて「なるほど」と思っても、それが本当に間違いないか?と問われても神様から直接聞いたわけでもないので、それは分かりません。

また、違う事だ、いけない事だと教えて貰った事をやってみたって、すぐに天罰があるというわけでもない。


神様のお働きが目に見えない、真っ暗な、夜明け前の道です。




今は何をしていても通れます。
酷い言い方をすれば、犯罪を犯した人が悠々自適に暮らせたり、真面目ないい人が病気で倒れたり…




しかし、いずれその時が来て、本道が始まれば夜が明けて、神様のお働きがはっきりと見える日が来ます。


泥棒をしようとすると、手が動かなくなったり…
男女が色情の間違いをするとくっついたまま離れなくなったり…



誰もが神様の存在を知り、はっきりと見える「昼間の道」となります。

昼間になってから徳積みをしようとしても遅いそうです。




今、信仰に付いている我々は、世界だすけを思し召し下さる親神様の手足となって働かせて頂かなければならないと思います。

この「世界だすけ」の日が来て、世間の人と一緒になって倒れていてはいけません。



何をしていても通れる今、どういう心でいるか、神様は見て下さっているそうです。

そして本道が始まるとそれまでの心が末代まで治まるそうです。


はっきりと見えてから「一生懸命やります!」と言ったって通りません。
まだ、何をしていても通れる今、神様のお心を求めなければ



夜明け前の、この「仮の道」である今のうちに、「本道が始まった時に、一人でも多くの人を救けられるように、神様の思いを求めよう」「どうすれば神様の思いに近づけるか、勉強をさせて頂こう」

そういう心で、神様のお心を求めるのは「朝起き」と同じ心と教えて頂きました。





教祖が
「苦労したくても苦労出来ない日が来るで。今のうちにしっかり苦労させてもらいなはれや」

と仰られたそうです。
苦労出来ないって、なんて素晴らしいんだ!と、思うでしょうが、そうでは有りません。




今しっかり道の為に苦労させて頂き、道に尽くさせて頂く。それを末代まで神様はお受け取り下さいます。そして本道が始まったら、今までそれぞれが尽し、果たした真実は末代まで失う事の無い天の与え「たすけの理」に代わると教えて頂きました。


それを見て、今からでも苦労させて頂きたいと言っても苦労出来ず、たすけの理は頂けないのだそうです。



教祖はそれを教えて下さったのだと思います。
ただ苦労しない日が来る、と言うだけの意味なら、「今のうちにしっかり苦労させてもらいなはれ」と言う言葉にはならないのでは無いかと思います。


今出来ること。
それは朝、夜明け前に起きて、いつか来る世界だすけの為にしっかりとお道の勉強をさせて頂き、しっかり神様のお心を求める事だという事です。


この世は全ておさしづ通りに治まる道だそうです。
どんな事でも、分らなくてもおさしづに尋ねる事が大事だと教えて頂きました






自分を許さない心

前に、「最近お道の心が抜けてしまった」と話した事がありますが、やっぱりちょっとした気の弛みが原因でしょうね…


かのご高名な愛町分教会初代会長「関根豊松先生」はこう仰られたそうです。


「私は決して自分を許さなかった。」
これ位はいいだろう。その心から心の弛みが生じ、そこから因縁に負ける心へと発展していってしまう。




ボクはゲームが好きで、漫画が好きで、歴史の本が好きで、SF小説が好きで、絵を描くのが好きで、買い食いが好きで、ネットの友達との会話が好きで…



お道の勉強をして、感動して、少しばかりにもお道の心になろうと志しても、
「まぁ、ちょこっとだけ息抜き。」

とか言って漫画を読む…





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最初はそれでいい。
しかし、そこから段々お道が抜けて、なんかすっかり漫画に夢中になって、
「これじゃいか~ん!!」

とか言って、さてさてまたお道の勉強しよっか…とか言ったって、全く心に入って来ません。


なんとな~~く窮屈……



因縁に負けた心と言うのは、お道の話を聞くと窮屈に感じるそうです。









なんか窮屈なもんで…勉強する気がすっかり失せて…


「夜、夜やるから」夜になって「中途半端にやっても仕方ない、今日はいいから、明日から徹底的に…」明日の朝になって「ちょっとその前に…」で昼になって…

「はぁ、俺はもう駄目だ…こんな程度の人間なんだ…」とか言ってヘコむ。


(俺ってホント典型的なダメ人間だな…)







そんな事の繰り返しです。






自分を許さない心。

難しい…




でもこれは厳しいとかじゃない。
かつて永平寺の修行僧の日常をネットで見た事がある。

永平寺の機構と一日の生活



厳しい世界
これに比べて自分は…宗教は違えど「信仰する」と言うことは同じ。
とても同じ信仰者とは思えない


もうそろそろ「自分を許さない」と言うのを真剣に考えてみようと思った。




漫画も、ゲームも、好きな本も、買い食いも…


「これ位は」とかはやめて、とりあえず一ヶ月を目標に「自分を許さない生活」を始めてみようと思ってます。





人生最大の御守護 ―後編―

大変長らくお待たせしました(誰も待ってないとは思うけど)

やっとの思いで後編が完成いたしました。


―前篇― はこちら

―中編― はこちら

とある事情から治療を中断。
それ以来、少しづつ大人へと変化していた体も元通り。見た目は背の高い中学生。

二十歳を過ぎても初対面の人から「そこのボク!」とか言われるし…

(実話です(-ω-`;)



『なんで自分はこんな体なんだろう』とか、嘆いた回数も数知れず。



まぁ治療を受けても背が思うように伸びず、太るだけの人もいると聞くと、背が伸びただけでも十分幸せなんでしょうけど、理屈じゃ分かっていてもやっぱり辛かったです。
あの頃は…



しかし、お道のお話を聞かせて頂く度に心境に変化が表れました。




とある女性が居まして、その方は心臓病を患っているそうでして、ある日その方のお話を聞かせて頂きました。



「心臓病があったからこの素晴らしいお道の信仰が出来ました。病気も無く、何も困った事がなければここまで真剣に信仰させて頂こうとは思わなかったでしょう。どれ程お話を聞いても、上の空で聞いていた事でしょう。この心臓病は私の一生の宝です。」




教祖(おやさま)の時代に足の患いを救けて頂いたある女性が、少し手が震えて気になるので教祖の前に手を差し出して

「手に息をかけて頂きとうございます。」
と申し上げると教祖は

「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで。」

と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。
この時以来、手の震えは少しも苦にならなくなった。

と聞かせて頂きます。



お道の先輩が「病気は前生(前世)因縁のさんげをすれば治るよ」と教えてくれた事が有りました。



ボクはてっきり神殿に座っておつとめをして前生のお詫びをする事だと勘違いしていましたが、おさしづを勉強させて頂きますと、






いんねんのさんげえ(懺悔)は、たんのうより無い。








と聞かせて頂きます。
どんな事も神様の御守護と喜ばせて頂く心を神様は受け取って下さると教えて頂きます。




身上の患いを嘆いてばかりいたボクでしたが、それ以来自分なりに喜んで通らせて頂こうと決心。

少し考え方を変えると本当に気持ちが楽になりました。


自分にどんな因縁が有るのか、前生どんな事をして来たのか。

前編で書いたように、友人の母親が自殺するのを見てショックを受けたのが原因でこの病気に掛ったと聞かされ、そこから考えると、恐らく前生に人を自殺に追い込んだか、相応の理由も無く人の命を奪ったか…




いずれにしろロクな事をやってないのでしょう。

人を相当苦しめた魂だと思います。


そうでもなければ、たまたま遊びに行った日に友人の母親が自殺して、たまたまボクだけがその瞬間を目撃してしまうなんて、あり得ません!




そう言う悪い因縁を、身上で果たせて頂けるのだからよく考えたら有難い事なんです。


そうして喜んで通らせて頂いていたある日の事、膝が痛くて階段の上り下りが困難になってしまいました。

話せば長くなるのですが、その膝痛から巡りに巡って…なんと!!







治療再開となったのです。(今では膝の痛みはスッキリよくなりました)








約2週間の検査入院を経て週に3回、自己注射の治療をしている現在に至るわけですが

Photo
(自分で腹に注射する。
普通にやればそれ程痛くはないんだけど…打つ瞬間に
ちょっとでも躊躇すると、とんでもなく痛い!!)









入院の前の検査で

 

 

医師から驚きの一言が!!






「藤太郎さん、今までいつ死んでてもおかしく無かったですね…」















  ガ━━━━━(゚Д゚;)━━━━━ン!!!!




              ∑(゚□゚;)ガーン(。□。;)ガーン(;゚□゚)ガーン!!










ちょ~~っと、びっくりしました!




       







え~~~と~~~~、



詳しい内容は覚えて無いのですが、コルチゾールとか言うものが有りまして、それがボクは極端に少なかったらしく、ほんのちょっとした高熱で死に至る可能性もある程の数値だったそうです。



確かにちょっと風邪をひくとメッチャンコだるくて、いつも1週間から1週間半は寝込んでいました。

病院行くにも大騒ぎで、フラフラになって誰かに車で乗せてって貰ってました。



小さい頃から体が弱かったから、自分はこんなモンかと思ってましたが…その数値が原因だったんですねぇ。


医師から「この薬だけは絶対に飲んで下さい」
と頂いた薬を飲み始めてからは徐々に効果が目に見えて来て、実に数年ぶりに風邪をひいても寝込まない日を迎える事が出来ました。





二次成長の治療も再開し、今これまた徐々に体に変化が表れています。








ふと、考えた事が有ります。
もし自分がこの病気を患っていなくて、因縁通りだったらどんな人生だったか。

普通に考えても何事も無く通れる身ではありません。


こうして身上に代えて因縁を果たせて下さるのだから、もしこの病気が無く、健康体だったら最終的にはさらに苦しい思いをしていたのでしょう。



医者の先生が言った言葉
「今までいつ死んでてもおかしく無かったですね」

これはもしかしたら、ただ医者の言葉と言うだけでなく、『ボクが因縁通りだったらどうなっていたのか』を、医者の口を通して神様が教えてくださった言葉なのかも知れない。

「今までいつ死んでてもおかしく無かったですね」
それが病気なり、事故なり、




自分の因縁通りならとっくに他界していたかも知れないところを、身上の患いで因縁を果たせて頂ける。
それはものすごい御守護であり、この病気こそがボクの『人生最大の御守護』なのかも知れません。


この御守護に感謝し、これからはどんな事があっても全ては神様にもたれ、神様にお任せして、たんのうの心で通らせて頂きたい(つもり)です。




お久しぶりです。ブログ再開…かも

子供おぢばがえりが終わって、色々記事書こうと思ってたけど、何か忙しかったり休みを貰ったりですっかりブログ離れしてしまいました。


しかもお道の心まで最近は離してしまっていて…
もう一度しっかり心を入れ直したいと思ってます。


休みの日に家に帰った時、父親が僕の顔を見た時あまり良い印象を受けなかったとか。
僕がすっかり気が抜けていたのを、顔見ただけで見抜かれてしまったようです。


今日は久しぶりのブログなので、挨拶だけ…と言うのも短すぎるので、「修行」についてのおさしづを紹介してお別れしたいと思います。





さあ/\尋ねる処、身上一寸の事情、どういう事である。案じる。たゞ一つ修行という、深きという。これからどうでも思う。日々の処治まり難ない。それよりの事情計り出す。日々どうでも思う、大抵何も一寸修行という。修行の理は分かりて居る。身上の事情あっては出来難ない。速やかになる。暫くの処これどうであろ。深き何でも十分の学をし、十分の学を治めよう。智者学者あっても何にも治まらせんで。一つの理を始め掛け、日々暮させたい。思う道もう暫く。日々の理、事情より治まる理が無きという理を治めてくれるよう。







それでは








今年の夏も

 

ブログネタ: この夏、旅に出るとしたらどこへ行く?参加数

 

天理教の夏と言えば、もう!

これしか有りませんよ!!!!

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そう!

 

天理教こどもおぢばがえりです。

 

毎年30万前後の参加者集まる夏の1大イベントですよ。

我が布教所でも、今年も一泊二日で参加します。

 

こどもおぢばがえりとは、7月26日から8月4日まで毎年行われるイベントです。

 

天理教の信仰の無い家でも気軽に参加出来るので、一度考えてみて下さい。

 

 

うちの布教所も以前は100人ちょい参加していたのですが、最近は子供が減って、今年はたったの30人…

 

100人居た頃は何となく活気が有って、僕ら引率者側も、一人もけが人や迷子の子どもを出しては成らないと、全力で引率出来るよう気合が入ってたんですが、

やっぱり人数が少ないと何となく気合が入らないなぁ…

 

 

まあ、沢山参加者を集める事が目的ではなく、参加してくれる人、一人一人が、満足して帰って頂く事が目的ですので、子供達には楽しんで貰えるよう、今年も全力で頑張ります。

 

 

 

詳細はこちら

 

 

天理市内に色んなイベント会場が点在していて、毎年子供達には喜んで参加して貰ってます。

メインはやっぱり「おやさとパレード」です!

残念ながらパレードの写真は有りません。

パレードの前には高校生のお兄さん方が出し物をやってくれます。
見て下さい、楽しそうな子供達を

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会場には所々に「教祖との三つの約束」と書かれてあります。

◎生きる喜びを味わいます

◎物を大切にします

◎仲良く助け合います

子供達にはおぢばでの二日間を通してこの三つの約束を学んで貰いたいです。

 

 

 





ここで、ちょっと感動エピソードを

 

 



毎年、信者さんの子供だけでなく、その友達にも気軽に参加して貰っています。
常連の子供もいて、僕らにも完全に慣れ親しんでくれてます

勿論初参加の子もいます

とある信者さんの長男R君。今現在高校1年生のR君が、小学校6年生だった時の話。

R君の友達はいつも元気いっぱいな(平たく言うとやんちゃな)子達ばかり、元気でいい子ばかりなんですが、正直元気すぎて手を焼く事も。

まあ、男の子だからそれぐらい元気があってもいいですけどね。
そのうちの一人が、その年初参加でした。

その子も例外では無く、それはそれは元気な子で、二日間を通して、楽しく遊んでくれてました。
二日間が終わり、数日後R君の母親からこんな話を聞きました。

その男の子の母親がR君の母親に言った事。

 

「うちの子がこの間のおぢばがえりから帰って来てから、行儀よくなった。今までは何でも散らかしっぱなしだったのに、遊んだあと部屋の片付けをするようになったし、ご飯を食べたあとも、自分で食器を台所まで片付けてくれるようになった。

一体どんな躾をしてくれたんですか?」

 

と、お礼の言葉を貰ったとか…

とんでもない!僕らはそんな立派な事は何も教えていません。

教祖が「この屋敷に帰って来たら一人とて喜ばずには帰さん。」と仰って下さいした。

きっと二日間を通して教祖の膝元で過ごさせて頂き、教祖の息をかけて頂いたのでしょう。

教祖との三つの約束がいつの間にか心に届いていたのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 






さて、ではここでちょっと我が布教所の団旗を紹介します。

団旗とはこどもおぢばがえりの最中、その団体の目印になる物。子供達ははぐれないようにこの団旗について行きます。

(勿論周りの大人達も子供がはぐれないよう、細心の注意を払ってます。)



 

普通の団旗は布などに団体名が書いてあるだけですが、

 



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我が布教所は数年前から実に奇抜な団旗を使用しておりまして、現地でも目立った事目立った事ww



遠くからでも指を指される目立ちよう。

 




初代団旗「ジャージマン」(写真無し)
白いおっさんジャージを人の人の形にしたもの。

 



二代目「甚平さん」(写真無し)
甚平を同じく人の形に

 

 

 



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三代目「マジサマー」
この年、放映されていたマジレンジャーに因んで

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マジサマーは女の子にモテモテ

 

 





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四代目「いつお君」
この年の教祖120年祭に因んで

 

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手首が…いつお君、大丈夫?(・∀・;)

 

 

 





五代目マックス元気ロボ
こちらは過去最高の作品なんで、後日の紹介とします。





六代目「マジサマ子ちゃん」(写真無し)
マジサマーの妹と言う設定。今まで男ばかりだったので、たまには女の子を!

と言う意見だったのですが、まるで美少女フィギュアでも抱えてるようで…

傍から見てた人、ひいたかも(・ω・`ili)

 





去年からは(今までに比べると)普通なカンジです。

 

 

 







と、言うわけで今年もおぢばがえりの季節です。

 




気を付けて行って来ますε=ε=ヾ( ´=∀=)ノ


ゴミ拾いでも心得違い

とある布教所に住み込みで修行中です。修行なんで何曜日休みとか有りません…基本は盆と正月に一泊二日、あとはGWなどに休みを一日、二日貰えるのですが、あれは数年前の盆休みを貰った朝の事でした。



父が朝の神殿掃除に来ていたので帰りは一緒に乗せてもらうことに…



父は道中突然車を止めて「ゴミを拾う」と言い出す。
なるほど噂には聞いていた。いつも朝の神殿掃除の行き帰りに道端に落ちているゴミ拾いをする…と。

車の後部座席には、ちゃんと分別して捨てられるよう3種類のゴミ袋
はは~ん、準備万端なわけね。



俺もやろ~っと、って感じで2,3分。
父も仕事が有るので長時間出来ませんが、そこそこ綺麗にしまして…

さあ帰ろうかとまた車に乗り込んだ拍子に、ボクが一言発する。




「何故人はこんな所にゴミを捨てるんだろう…一体どんな神経してるんだろう?」





(ああ、いい事した…)と調子に乗ってたボク。
人の愚かな行いについて語る親子。なんてかっこいい…

しかぁし!
父の返事は意外なものでした。





「そんな事を思っちゃいかん。」





ありゃりゃ( ̄ー ̄;)ゞ

てっきり「そうだなぁ」とか言ってくれるかと思っていたボク。



でもそれは間違っていました。





父曰く

誰かがゴミをほかって行く、勿論いい事ではない。
そのゴミを見てまた次の誰かが不快な思いをすれば、ゴミをほかった人はその分、因縁を積んだ事になる。

ボクらがゴミ拾いをさせて頂く。

「誰かがゴミをほかってくれたお陰でこうして今日もゴミ拾いが出来る。」
「今日もゴミが落ちているお陰で神様の御用が出来る。」

そうして喜んで、ゴミをほかった人に感謝して拾う事で、ゴミをほかった人は、僕らを喜ばせた事になる。


人を喜ばせた分、その人は徳を積む。

本来なら因縁を積むところを、逆に徳積みに変える事が出来る。

因縁を積まずに(僅かながらも)徳を積めたのだからその人を救けた事になる。


そして「人救けたら我が身救かる」
のお言葉通り、自分も救けて頂ける。

 

なるほど
そして、それはゴミ拾いだけでなく、色んな場面でも言えることだなと思った。



教祖が
[人間は嫌なものを見ると、すぐに嫌やなあと思い、嫌な事を聞くと、すぐに嫌やなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。嫌なものを見、嫌なものを見せられた時、嫌やなあと思う前に、ああ見えて良かった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。嫌な事を聞いた時も同じ事、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由(じゅうよう)の守護が頂ける道になるのやで。](省略)


また
[どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで]

と教えて下さいました




例えゴミ拾いや、人の為になる事でも、不平不満やグチの心でやっていては返って来るのも喜べない出来事ばかり。
逆にほんの些細な事でも喜んでやらせて頂けば、また喜びとなって返って来る。


喜びは喜びとして、この世を巡り、循環する。
不足の心は不足として循環する。



どんな事も心次第、折角なら神様に喜んで頂ける心でやらせて頂かなければ…
それを父に教えて頂いた、あの日の出来事でした。








この父の言葉が今に生かされているかどうかは…恥ずかしいから内緒である。





天理教被害

天理教被害の掲示板を見ました。
ちょっとショックです。

天理教被害掲示板

「病気になるのは心遣いが悪いから」とか「お金をお供えすればよくなる」
こんな事を平気で言う布教師が居て、皆さんを随分苦しめているようです。

同じ天理教を信仰する者として恥ずかしく思い、同時に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
なんの責任力もない私ですが、心よりお詫び申し上げます。

ただ、一つご理解頂きたいのは、それはその布教師が悪いのであって、天理教が悪いのではないと言う事。

私の知っている(尊敬出来る)布教師がこう言いました。
「昔の(天理教の)本部員は、汽車に乗る金も無く、歩いて、ボロボロになって本部に辿り着いた人に手を差し伸べて、寄り添って行った。最近は高級な外車に乗って、綺麗なスーツを着ているお偉いさんに寄り添っていく。本部員の質が落ちた。」

心遣いが悪いから病気になるだの、お金をお供えしろだの、天理教はそんな程度の低い教えではありません。

http://fuji-taro-1976.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-9fa4.html

教祖「中山みき」は警察に投獄され、他の宗教者より乱暴、狼藉を受けて、それでも神の道を貫きました。

一説によると青竹で叩かれた事もあり、傍で見ていた信者がショックで倒れた事もあるそうです。

一人の信者が教祖に言いました「何故、警察にバチを当てないのですか?」と
しかし、世界一列を救けるのが天理教です。
教祖は自分を叩いた警察官ですら救けたいのです。

教祖のお通り下さった道は大変な苦労の道でした。

最後の最後までなんの得も無い道です。

天理教は反対運動を受け、世間から迫害される度に大きくなりました。
妄想や金儲けの手段ならとっくに終わっていたでしょう。


今は仮の道だと教えられます。

天理教の教えからかけ離れ、勝手な事をやっていても今は通れます。
そんな程度の低い布教師も一時的に置いてあると教えて貰いました。
私の身近にもそんな人がいました。
自分の都合のいいように教えをかえていました。
自分の都合の悪い信者を出入り禁止にしたり、金持ちを優遇したり…

先月中旬に出直しましたが、最期は相当苦しんだようです。

仮の道から本道が始まった時に、今現在、天理教の教えを食い物にしている人たちはすぐに掃除される事でしょう。
仮の道である今現在、立場は弱くとも、ただ神を信じて教祖の道を目指している者と、勝手な道を通っている者と、その末は…
その答えを見せられる日は必ず来ます。

布教師の質が落ちた現在、皆様にはご迷惑をお掛けして申し訳ありませんが、
ひどい布教師ばかりではありません。尊敬出来る立派な布教師も居ます。
天理教の教えが悪いのではないと言う事、それだけはご理解下さい。

最後に、私は教養の足りない人間です。注意して書いたつもりですが、まとまりが悪く、拙い文章で有ったこと、
また、気分を害する文章がありましたらお許し下さい。






☆追記☆
この記事に沢山のコメントを頂き、有難う御座います。

今の天理教組織にご不満を持つ方々に知って頂きたい事を記事にしました。 是非ご一読下さい。
記事へ


☆もう一つ追記☆
コメントを読ませて頂くとどなたも「ああした方がいい」「これはよくない」「こうするべきだ」との意見を多々お聞きします。
ボク自身も以前は困った事や納得出来ない事に対し、自分の意志と力でどうにかしようとしていました。
しかし、(偉そうな言い方かもしれませんが)ボクは父の影響でおさしづを読ませて頂き、上っ面ばかりにも触れさせて頂く事で、また、父からも多く教えて貰う事で、その考えは間違いで有ると感じるようになりました

成ってくるのが天の理と教えて下さいます。
自分の考えでは無く、神様に凭れきって、ただ成ってきた事に対し、たんのうの心で通らせて頂く事が肝心だと思います。
お寄せ下さったコメントに対し、おさしづや父から教えられた事から思案させて頂いた自分のコメントをまとめました。
参考程度にこちらも読んで頂ければ幸いです。





たんのう

このブログで天理教用語を出しますので、用語が全く分からない方の為に、自分なりに用語の説明を書いておきました。
飽くまで参考程度に見てください。
また自分なりに気付いた事が有れば書き直します



『たんのう』

親神様は人間を真から救けるために、一時的な苦労を与えて下さいます。
その苦労に対してたんのうの心を使わせて頂く事が肝心だと教えて頂きます。

たんのうを辞書で調べると「満足すること」とあります。


「たんのう」とはよく味わい、満足することだと父は教えてくれました。

世間一般で「堪能」というと「中華料理を堪能する」「温泉旅行を堪能する」などと使うと思います。

 

中華料理を少し食べて「あんまし好きじゃないんだよな。」と言って不満のまま終わったら「中華料理を堪能した」とは言いません。

 

美味しい中華料理をよく味わい、心ゆくまでしっかり食べて、味も量も十分に満足したなら、堪能したと言えます。

 

温泉に入って「ぬるいしお湯汚えし、最悪」と言って帰ったら「温泉旅行を堪能した」とは言えません。

 

良い湯にしっかり浸かって、しっかり楽しむことが出来たなら堪能したと言えるでしょう。

 

 

 

それと同じことだと思います。

 

天理教でたんのうと言えば、とにかく喜べばいいと勘違いされがち…と、言うより私は以前、そう勘違いしておりました。

 

しかし、辛いものを無理に喜べということではありません。

 

辛いものは辛い。苦しいものは苦しい。

でもその苦しみをしっかりと味わい、これも救けていただく為の神様のご守護だ。これで良いんだ。結構なんだと感謝して十分に満足すること。

 

時には不足してしまう時も有りましょうが、そこで不足したままで終わるか、思い改め「いや、これで良いんだ。結構だ。」と感謝して心の向きを変えるのかは、大きな違いだと思います。

その心を神様がお受け取りくださり、救けていただけるのだと教えていただいております。

 

 

また、おさしづに

ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。

 

不自由の処たんのうするはたんのう。徳を積むという。受け取るという。

 

いんねんという、いんねん一つの理は、たんのうより外に受け取る理は無い。よう聞き分け。しっかり一つたんのうの理を治めてくれ/\。

 

と、教えていただきます。

ならん中、不自由の中をたんのうするのは簡単なことではありませんが、その中をたんのうすることが、前生因縁のさんげ(懺悔)であり、徳を積むものであり、それ以外に受け取っていただく理は無いとまでお聞かせいただきます。

 

 

 

 



天理教被害の掲示板を見ますと、「病気になるのは心遣いが悪いから」とか「お金をお供えすればよくなる」と脅されると言う批判を目にします。

そんな事を言う布教師が実際にいるのでしょうが、そんな人は相手にしなくていいです!

天理教はそんな程度の低い教えではありません。


総ては人間を真から救けたいと思し召し下さる神様のご守護です。
世間にも試練という言葉が有りますが、苦しみも悲しみも乗り越えてこそ、人は育ちます。

辛いからと言ってクヨクヨするのは、神様の試練を否定する行為だと思います。
苦しみも、悲しみも、よく味わい、堪能する事が救かる道だと思います。

「人生最大のご守護 後編」がまだ書けない

人生最大のご守護 前編

人生最大のご守護 中編


残すところ後編だけとなったこのシリーズですが、現在に至るまでの心境とか、思い出せなくて…てこずってます(T_T)


以前「通りすがりの信仰者」さんから続きを待ってくれていると、折角コメントを頂いたのに、文章がまとまらなくて…もう通りすがりの信仰者さんも待っててくれてないかも(T_T)

もう誰も待ってないかも知れないけど、一応「まだ書けてない」と言う報告です。

 

 

知らなかった

ブログネタ: 体によいもの、何か食べてる?参加数

納豆と味噌汁くらいか…

思いつくのは。



納豆は嫌いと言う人がいますが、子供の頃から当然のように毎朝テーブルに並んでいたので、なんの抵抗もなく食べれます。


あれは忘れもしない25歳のとき、知人が納豆が嫌いと言うので、何故こんなおいしいものが?と聞くと、

「臭いから」

と言う。


ははは、おかしな事を言うな、とその時は思っていました。

納豆のどこが臭いんだ?と…



そうなんです。納豆が臭いなんて知らなかったんです(゚ω゚;A)








ところで!


食事には親神様の多大なるご守護があります。

人間の体は神様からの借り物と教えて頂きます。

自分の体なら心臓や血液など、自分で動かせますか?
例えば肝臓が悪ければ、良い肝臓を自分で造って取り替えればいいじゃないですか?
誰もそんな事は出来ない。
それは自分の体ではないからです。
総ては親神様からの借り物なのです。


話を食事に戻します。

ご飯を食べて、胃まで運んで、胃で溶かし、腸まで送って必要な栄養分をよく考えて摂取し、その栄養を体の必要なところまで送って・・・そうしながらも心臓を動かすことや、呼吸を忘れず、最後は食べたものを排泄物として体の外に出す。

それを自分で意識してやってる方は一人も居ません。

食べた後は休憩するのが一般的ですよね。
自分が休憩してたって体が勝手に処理してくれてます。

食べ物だってそうです。
野菜や米を、種をまいて世話をするのは農家の方ですが、種をまいただけでは野菜は出来ません。
親神様がご守護下さるからこそ、野菜は育ち、人間に必要な栄養分が出来るのです。


日夜を問わず、一秒も休まず、親神様が働いて下さるからこそ、我々人間は生きてゆけるのです。


神様からの借り物では無いとすれば、一体誰がこの体を動かしてくれているのか?
産んでくれた親だって、子供の体がどうなっているのか分かりません。

ここまで人間に都合よく世界が出来上がっているのは何故?
神様と言う存在しか説明が付きません。



体にいい物を食べれるのは親神様のご守護があってこそなのです。


有難いことですよね。