理のある限り神のさしづの理は変わらん。(中略)。何が間違う、こうが間違うと思う心が間違う。(中略)皆分からんで、日々苦労して居る。それはどうしたさかいにどう、こうしたさかいにどう、という理は無い。医者の手余り捨てもの救けるが、神のたすけという。
先日少々反省した出来事があり、その事をブログに書くべきか、おさしづ一日一言という本からおさしづにお伺いしたところ、教えてくださったのが、このおさしづでした。
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少しだけ余談になりますが、おさしづにお伺いするというのは、おさしづの本を手に持ち、神様にお伺いをして、適当にページを開くとそのおさしづからお答えを教えていただけます。
適当と言うと言葉は悪いですが、無心で何も考えずにランダムで開くという意味です。
おさしづにお伺いした時の記事がこちら
本に限らず、パソコンやスマホにおさしづが入っているのであれば、無心で選んだおさしづを開くという方法でもお答えをいただけます。
スマホやパソコンからおさしづを見たい時は、私はこちらをよく利用させていただいております。
また、アイフォンは分かりませんが、アンドロイドであれば「おさしづ」というアプリがグーグルプレイストアからダウンロード出来て、検索機能も使いやすく、とても便利です。
さて本題に戻ります。
最初にこのページを開いても、神様が何を教えようとしてくださっているのかは分かりませんでした。
いやまあ、正直言うとこれを書いている現段階でも理解出来ている自信は全く有りませんが…
その翌日、同じくおさしづ一日一言という本から、その日のおさしづを開きました。
その日のおさしづが
明治二十六年十月三十日
梅谷たか十四才身上願
皆めんめんに拵えるは、理を以て皆拵える。こうせんさかいにこうなる、どうせんさかいにどうなるという理は、こら無いで。
(一部抜粋)
と、前日にお伺いした時に開いたおさしづとよく似たおさしづ。
これはつまり最初に見せていただいたおさしづから今回のブログを書くように教えてくださったのではないでしょうか。
冒頭に書いた最初のおさしづの全文がこちらです。
明治二十九年五月一日
梅谷たね身上伺
さあ/\尋ねる処、さあ/\さしづは変わらん。さしづはいつとても変わらん。一度の諭に生涯の理まで諭してある。理のある限り神のさしづの理は変わらん。一人事情又事情変わるように皆思う。なれど、よう聞き分け。何が間違う、こうが間違うと思う心が間違う。さんげこれ一つよう聞き分け。これまで細い道、細い中から通り来たる処、それは案じる事は無い。又日々にたんのうもしては居る。案じる心は皆身上に、一時迫る処は余程大層やで。皆々それ/\治める中に、事情は余程大層やで。事情世上一つ事情以て、早く明るく運んで安心という。
押して、医者に掛ける事でありますや
さあ/\それは第一やで。前々からそれを皆諭して居る。それを分からんのや。皆分からんで、日々苦労して居る。それはどうしたさかいにどう、こうしたさかいにどう、という理は無い。医者の手余り捨てもの救けるが、神のたすけという。日々皆それ/\遠く所から寄り来る処、よう聞いて居るやろ。それをよう諭して置いて、日々という。これ一つ諭し置こう。
私がまだおさしづやおふでさきからお道の教えを学ぶということを知らず「理の親」や「先生」と呼ばれる立場の方から教えていただくことが全て正しいと信じて疑っていなかった頃から、ずっと疑問に思っていたことが有りました。
それが身上のおさとしです。
例えば風邪をひいたとしても
「不足すると風邪ひくよ」
とも教えられるし
「身惜しみの心(我が身を庇う心)を使うと風邪ひくよ」
とも教えられ、どちらが正しいのか、或いはどちらも正しいのか、理解が出来ません。
しかも、明確に不足した記憶が有るのに風邪をひかなかった時もあれば、これといって不足した記憶が無いのに風邪をひいた時もあります。
扁桃腺が腫れると
「ああだこうだと返答するからだよ」
と教えてもらったこともあれば
「返答せんからだ」
と教えてくれる人もいました。
同じ病気、同じ症状でも、人によっておさとしが違うのです。
また、癌についても
「ガンを漢字で書くと、やまいだれに品の山と書いて癌だから、欲を張って徳分以上の金や物を取り込んだから癌になるのだ」
と、とある先生が仰ったのですが、その数年後には
「頑固な人が癌になるんだ」
と、同じ先生でもおさとしが変わってしまうのです。
しかし、これは人間のおさとしだけでは有りません。
身上さとしのおさしづを拝読しましても、同じ症状でも同じおさしづが頂ける訳ではありません。
はっきりと明確におさとしいただけるのは、左が善の知らせ、右が悪の知らせである。ということだけであるように思います。
つまり、冒頭に書いたおさしづ
「何が間違う、こうが間違うと思う心が間違う。」
「それはどうしたさかいにどう、こうしたさかいにどう、という理は無い。」
というのが全てではないでしょうか。
以前、このブログに障害のある方からコメントを頂きました。
自分の障害について天理教の布教師から
「障害があるのは前世の因縁。人殺しをした。人を蹴った。色情因縁がある。」などと、様々なことを言われていたそうですが、これこそが間違いです。
「人を殺したからこうなった」「人を蹴ったからこうなった」などといった理は無いと神様はお教えくださいます。
全て人間が勝手に拵えてしまった理なのです。
人間誰もが、前生、前々生から山のような残念の理を積み重ねてしまっているのであり、誰もが身上事情によって苦労の道を通らせていただかねばなりません。
おさしづは宝より引用
(おさしづは宝とは、父が長年おさしづを研究して、読みやすく解釈したものです。)
何処まで行っても人間の思い通りに成らない真実誠の救け道の中を、定められた年限の間満足たんのう貫いて運び、神を喜ばせた誠の理によって結構な先々の理や徳が与えられる
どこまで行っても人間の思い通りにはならない不自由な中を、たんのうの心で通らせていただいた先に、末代まで治まる結構な理を与えて頂けるのであって、返答せんから扁桃腺が腫れるだとか、頑固だから癌になるというものではなく、いかなる身上や事情も、子供救けたい親神様の暖かい親心からなるご守護なのです。
で、あれば「何が間違っていたのか」ということを追求するのではなく
いんねんという、いんねん一つの理は、たんのうより外に受け取る理は無い。
と、お教えくださるとおり、何事もたんのうの心で通らせていただくことが肝心なのです。
更に言えば、身上の悩みとなった時に「神様を信じて病院に通うのを止めなさい」「薬を捨てなさい」と説かれる方もおられます。
私も幼い頃から身上によって病院通いでしたので、そのような事を言われた経験が有ります。
が、これも大きな間違いです。
冒頭のおさしづにも、「押して、医者に掛ける事でありますや」とのお伺いに対し
さあ/\それは第一やで。前々からそれを皆諭して居る。それを分からんのや。皆分からんで、日々苦労して居る。
と、お教えくださっております。
また別のおさしづにも
元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。
とお教えくださいます通り、医者や薬に掛かり、医者の手余りを救けてくださるというのが神様の教えなので、神様を信じるのであれば、尚更医者にも掛かり、薬も飲むべきなのです。
また、信仰の上で、身上や事情を見せていただいた時、理の親や、先生と呼ばれる立場の方にお伺いをされる方がいらっしゃいますが、分からないことを人間に聞いても分かりません。
先日ある先生がこのようなお話をして下さいました。
「教祖は神様のお言葉が直接聞こえ、その神様のお言葉に従ってお通りくださったのであり、それが我々が通るべきひながたの道である。神様のお言葉が直接聞こえない私達は、理の親や、教会の先生にお聞きしてそれに素直に従うしか手段が有りません。」
一字一句正しくこう話してくださったとは言えませんが、大体このようなお話でした。
確かに仰る通り、我々は教祖のひながたに倣い、神様に従って通らせていただかねばなりません。
しかし、理の親と呼ばれる方や、教会の先生に聞いても神様の本当の思し召しを教えてはいただけません。
もちろん、中には正しい事を教えてくださる先生もいらっしゃるかも知れませんが、人間の勝手な考えで、間違った事を言われる先生も、確かにいらっしゃいます。
先述の通り、先生に聞いても人間で勝手に理を拵えてしまうという前例が既に有るのですから、それが何よりの証拠です。
間違った先生に間違った事を教えられて、それに従っても間違った道にしか進めません。
では神様の思し召しを教えていただくにはどうすれば良いのか。
これも先述の通り、おさしづにお伺いするのです。
私は以前に、夜中に突然の歯痛に目が覚めたという出来事がありました。
あまりの強烈な痛さに、これはもしかしたら神様が私に何かを教えようとして下さっているのではないか。そう思い、パソコンからおさしづにお伺いをし、そのおさしづによって私の心得違いを教えていただいたことがありました。
おさしづにお伺いをすれば、必ずお答えを教えてくださいます。
おさしづにも
さしづを以て運べば自由という。(中略)さしづという事情を以て、さしづの理を受けてするなら、間違う事は無い。(中略)さしづを尋ねば、間違うようなさしづはせんで。
と教えていただいております。
おさしづにお伺いをし、おさしづに従うのであれば神様がお連れ通りくださるのですから、間違うことなど有りえません。
余計な人間考えを捨て、おさしづに従う心でお伺いをする。分からなければ何度でもお伺いをする。
おさしづにも
よう尋ねてくれた。再度尋ねてくれる処、受け取りて居る。
と、有りますように、分かるまでお尋ねする事を神様はお喜びくださいます。
仮にその時は分からなくとも、おさしづに従う心さえ有れば必ず神様がお導きくださいます。
しかし、そこに邪念が有っては、教えていただけるものも教えていただけません。
先述の「おさしづにお伺い」の記事にも書きましたように、埃の心や、自分の都合の良いように解釈しようとする心など、余計な人間心が混ざってしまうと分からなくなってしまいます。
木が水を求めて低く低く根を張るように、低い心で、どのようなおさしづを頂こうとも従う心でお伺いをすることが大切であると思います。
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