そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

急がしいてならん

明治二十一年四月十七日 夜九時
刻限

さあ/\一寸刻限話、何時どういう道に成ると分からん。急がしいてならん。さあさあ身拵え出けた。いつからや、何時や分からん。さあ多くの人が要る。あちらもこちらも手が何人要る。さあ十分の道運んである。言う処をやと備えを立てゝ置け。今度は珍し道やで。これまでふでさきにも付けてある。それを眺めて置け。ちゃんと身体を据えて置け。目配りせにゃならん。又それ/\へ一寸話もして置け。いつとは分からん。これまで秋を合図と言うてある。十分運び出来てある。こんな忙しい、世界も忙し年に、一度忙し刻限、皆それ/\へ合図立て合い、刻限それ/\へも伝えて教えて置け。

 

 

(以下、「おさしづは宝」より)

 

さあ/\一寸刻限話、何時どういう道に成ると分からん。急がしいてならん。さあさあ身拵え出けた。いつからや、何時や分からん。さあ多くの人が要る。あちらもこちらも手が何人要る。

 

(さあ/\今のこの道は、欲とほこりにまみれた.人間の仕業によって潰滅寸前まで追い込まれてしまった世界中を速やかと救ける為に、明らか鮮やかな世界救けの道〈本道〉を創め掛けるという事を知らす為の仮の道であるが、そんな世界を救ける為には、神の話を速やかに聞き分ける事が出来ない濁り心を一掃し、素直に神に付いて来るきれいな心だけを残して、末代までも神の思惑通りの道を連れて通すという神一条の道に改めるより他は無く、それを世界に承知させるには、それが事実である事を証明する為の善悪のひながたを多く拵えなければならないのやから、皆々の道に尽くした理を大きく受け取って皆末代の理に定めてしまわなければならないという一寸やそっとではない刻限話を軽くするなら、皆々の大切な先々の道が何時どういう道に成るとも分からんのやで。

今のこの短い仮の道の間に尽くし運んだ理によって、それぞれの末代の運命が定まってしまうというのやから、後で後悔しないように運ぼうとするなら、急がしいてならんという事に成る筈やで。

さあさあそれだけの理を速やかに聞き分けて神の思惑通りの道を十分に運ぶなら、しっかりとした身拵えが出けたという事になるのや。

今までの道に尽くした理によって、何もかも末代の理に定まってしまうのは何時からやと思うであろうが、たとえそれが容易に信じられないような事であったとしても、何処までも神を信じて神に付いて来るきれいな心だけを残して澄み切った神の世界を拵える為に、何時やら分からん事になって居るのやで。

さあ、多くの者をそのようなきれいな心に改める為には、多くの救け人衆が要るのや。

その日が来ればあちらもこちらも手が足らんという事に成るのであって、何もかも捨てて、命懸けで神の思惑通りの道を運ぼうとする真実誠の用木が何人も要るのやで。)

 

 

さあ十分の道運んである。言う処をやと備えを立てゝ置け。今度は珍し道やで。これまでふでさきにも付けてある。それを眺めて置け。ちゃんと身体を据えて置け。目配りせにゃならん。又それ/\へ一寸話もして置け。

 

(さあ皆々が運ぶべき十分の道は、五十年もの長い年限を掛けて教祖が運んであるやろ。

誰もが皆、長い年限の間に積み重ねて来た山のような残念の理〈長い年限の間、大難小難の理によって救けてやろうとされる親神様の守護を喜んで受け取る事が出来ず、親神様の思惑に背き続けて来た大きな親不孝の理であるから、その山のような悪因縁が働いて親神様の邪魔をし、私達人間の存在を脅かして居る〉をすっきりと払って貰う為のひながたの道を、自ら求めて運ぼうとしなければ救ける手立ては無く、誰も皆人として生き永らえる事は出来ないのであるが、それが出来ないと言うなら、元々からひながたの道は要らんものや、と、神が言おうとする処を素直に悟り取って、をやの後を慕わせて頂きたいと願い出て胸の掃除の道を運ばせて貰い、運命の分かれ道となるその日の為の、しっかりとした備えを立てゝ置けと言うのや。

今度創まる新しい神の道は、神の思惑から外れた者は誰も通れないという珍しい道やで。

その日が来れば明らか鮮やかな神一条の道に改めるという事は、これまでの処のふでさきにも付けてあるであろう。

何が何でも神に付いて行こうとする誠が無ければ、誰も皆人として生き永らえる事も出来ないという事が分かるなら、それをよく眺めて置け。

どんな中も守り通して貰えるような澄み切った真実を定めて、神の思惑通りの天然自然の道を連れて通して貰い、ちゃんとした身体を据えて置けと言うのや。

その為には、どんな事も神の思惑から外れないようと色々目配りもせにゃならんのやで。

又それ/\へも、この道は一寸やそっとではない心試しの道であって、末代迄も連れて通す事が出来るかどうかを表す為の、容赦無き振るい落としの道であるという話もして置け。)

 

 

いつとは分からん。これまで秋を合図と言うてある。十分運び出来てある。こんな忙しい、世界も忙し年に、一度忙し刻限、皆それ/\へ合図立て合い、刻限それ/\へも伝えて教えて置け。

(それだけの、のっぴきならない神一条の道が創まるのは何時とは分からんで。

これまでも、秋〈秋は実りの秋であり、神様が真実込めて育てて下さる道の台が、何もかも捨てて道の為世界の為に尽くさせて頂きたいと願い出た事によって、心通りの道を実現して下さる為の試練の道を与えて下さるが、その中を満足たんのう貫いた二十年の年限の治まりの理が比類なき誠の精神の実証となり、それを神様が受け取って下さって、心通りの世界救けの道を実現させるべく勇み出て下さる、という、世界中の善き心が待ちに待った理であるから、真の実りの秋となる〉を合図に創め掛けると言うてあるのや。

それだけの十分な運びが、あともう少しという処まで出来てあるのやで。

残りわずかな年限の間に皆々の末代の運命が定まってしまうと言うのであって、こんなにも忙しい時間限定〈刻限〉の道であるから、一分一秒を惜しんで神の思惑通りの道を運ばなければならないのではないかと皆々に問い掛け、世界にも同じような結構な道を通させてやる為の真実誠のひながたと成って尽くすべき時間は、もう幾らも残って居ないという忙しい年限に差し迫った事を自覚させようとして、二度と取り直す事の出来ない一度限りの忙しい刻限の理によって全てを明らかにしながら、皆々それ/\へも、合図立て合い〈実りの秋を合図に神様が世界救けの道を創め掛けて下さるが、その為の道具とする為に、生まれ変わり生まれ変わりをさせ、苦労艱難の中から育てゝ来られた二人の子供秀司、こかんの処から実らせて下さる〉によって治まる道であるという事を伝えると同時に、このような真実誠の刻限の理を軽くすれば、自分自身の末代の運命が何時どういう事になってしまうか分からんという事を皆々それ/\へも伝えてやり、油断をして神を軽くするような者が、末永く人として生きられるような道では無いという事もよく教えて置けと言うのや。)

 

                                    

 

 

 

現在、色々事情が有って、結局修養科へ行く以前に勤めていた会社へ復職することになり、そこで正社員として働かせていただいておりますが、それ以前に食品会社の工場で、2ヶ月だけ働いており、そこで右手中指と薬指の指先に生涯残るような大きな怪我をしてしまいました。

 

おさしづに

左善、右悪という理を諭してある。

 

というお言葉が有ります。

右は悪の知らせとお聞かせいただきます。

長い間、このブログも更新せず、お道の勉強もしない、かと言って布教所のご用をする訳でもない。

我が身かわいい埃の心から、お道をサボっておりました。

 

私ほどでは有りませんが、同じく軽くお道をサボっていた弟が、私が怪我をして半月ほどしたあたりで、やはり私ほどでは有りませんが、同じく右手中指と薬指の指先を軽く怪我してしまったそうです。

(実際には弟はサボってはいなかったそうです。私の聞き間違いでした。訂正します。)

 

世界救けの用木としてこのお道にお引き寄せいただいたからには、やはりお道無くしては通れないということを教えていただいたように思います。

 

そんな世界を救ける為には、神の話を速やかに聞き分ける事が出来ない濁り心を一掃し、素直に神に付いて来るきれいな心だけを残して、末代までも神の思惑通りの道を連れて通すという神一条の道に改めるより他は無く

 

埃の心が邪魔をして分かっていてもそれが出来ない日々が続いておりました。

常におさしづを拝読し、おさしづに従って通らせていただくことが肝要であると思います。

 

 

今のこの短い仮の道の間に尽くし運んだ理によって、それぞれの末代の運命が定まってしまうというのやから、後で後悔しないように運ぼうとするなら、急がしいてならんという事に成る筈やで。

 

今はまだ仮の道とお聞かせいただきます。

神様の教えに従って通っていても、私のようにお道をサボっていても、我が身勝手に通っていても、犯罪を犯していても、今は同じように通れてしまいますが、この仮の道の間の通り方で末代までの運命が決まってしまうと教えていただきます。で、あれば、このような通り方をしていては勿体ない。

後になって「もう少し頑張っていれば」と後悔してもどうしようもない訳ですから、後悔の無いようにお連れ通りいただくには、本当は1分1秒すらも惜しいのですが、これまでその時間を自分の趣味に使っていたのは本当に情けなく思います。

 

 

残りわずかな年限の間に皆々の末代の運命が定まってしまうと言うのであって、こんなにも忙しい時間限定〈刻限〉の道であるから、一分一秒を惜しんで神の思惑通りの道を運ばなければならないのではないかと皆々に問い掛け、世界にも同じような結構な道を通させてやる為の真実誠のひながたと成って尽くすべき時間は、もう幾らも残って居ない(中略)このような真実誠の刻限の理を軽くすれば、自分自身の末代の運命が何時どういう事になってしまうか分からんという事を皆々それ/\へも伝えてやり、油断をして神を軽くするような者が、末永く人として生きられるような道では無いという事もよく教えて置けと言うのや。

 

今の仮の道はいつまでも待っていては貰えない。

一人でも多くの人に神様の思惑通りの道を運んでいただく為には、普段からお道の勉強をして神様の思いを求め、このブログを書き続けることも私の役目の一つと勝手に愚考しております。

 

世界一列を救けるために天降ったとお教えくださる親神様の、世界救けの用木としてお役立ていただけるよう、そして末代までも結構にお連れ通りいただけるように、おさしづやおふでさきなどを通して神様の思いを求め、神様の思惑に従って通らせていただくことが大切であると思わせていただきます。

 

 

これは以前にも書いたことですが、こう聞くと、自分にはとても無理だと思ってしまう方もいらっしゃるかと思います。しかし、何も「何事も成し遂げ、何者にも屈しない」といった、壮大かつ強靭な精神力は必要無いように思います。

 

誰でも心一つで定められるような、澄み切った心の理の小さいものだと教えていただきます。

 人間にそこまでの力が無いことは神様もよく分かって下さっているとお聞きします。

おさしづを信じ、おさしづをよく心におさめ、何事もおさしづに従って通らせて頂きたい。その心を神様がお受け取り下さるように思います。

 

 

 

また、どのような艱難苦労の中もたんのうの心を神様は受け取って下さいます。