そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

人間の義理を病んで神の道を欠く

 

明治二十三年十月五日 夜十一時
刻限御話

 

さあ/\/\/\、どんな事/\、まあ/\どんな事や/\/\、どんな事やというや、どんだけ案ぜんならんや分かろまい。一条話たる処の聞き取り、どうぞ間違わぬよう、中々の理が何したんやら分かりゃせん。これだけ間違わんよう。悟りと言えば悟り、実際の理を諭し、難しいて/\ならん処であった。まあ一寸の理、一寸の心、一寸の掛かり掛け、これからの道というは暫くの処、暫くの道が難しい。どういう事が難しいと思う。難しいと思うは、人間と人間との義理が無くば暗闇とも言うやろう。人間の義理を病んで、神の道を欠くという。以前に諭したる。それが退かん事ではどうも難しい。たとえ後からでも、あの者はかほうという、神の道にはかほうという事はすっきり要らん。だん/\諭しても書き取っても、理を話さん事ではどんならん。人間の心、人間の道とは思われようまい。神が始めたのや。何処にこんな道があるか、こんな理があるか、こんなやしきがあるか。所々では親とも言わしてある。世界事情でも数々の理やあろうまい。一寸には世界事情皆んな義理を欠ける。書き取っても、書き取っただけで言えん事には、何ぼ口説話してもどうもならん。すっきり聞き分け。辺所々々の理は分かろまい。どうでも連れて通らにゃならん。一代と言えば二代も連れて通りた者もある。言うた通りの理が始まり見える。互い/\諭し合い、それ/\の理をすっきり治めて貰いたい。義理を病んで後の一つの話、それ/\言うまでのものなら義理は要らんもの。そこですっきり書き取って、何も彼も談じくれるがよい。

 

 

 

さあ/\/\/\、どんな事/\、まあ/\どんな事や/\/\、どんな事やというや、どんだけ案ぜんならんや分かろまい。

 

(さあ/\/\/\、これから創まる人間世界の大掃除というはどんな事/\であろう、まあ/\どんな事や/\/\、どんな事やというや、欲とほこりの心で濁り切った人間世界を改める為には、これから先は神の一列支配の世界に改めるより他は無いのやから、速やかに神の話を聞き分けて運ぶ事が出来なければ誰も皆人として生き永らえる事が出来なくなってしまうと言えば、どんだけ案ぜんならんや分かろまい。)

 

一条話たる処の聞き取り、どうぞ間違わぬよう、中々の理が何したんやら分かりゃせん。

 

(濁り切った人間心を捨て切って、何事も神の思惑どおりに運んでこそ結構な末代の理が治まるという一条の理を話たる処の聞き取りと、聞き取った後の運び方次第でそれぞれの末代の運命が定まってしまうと言うのだが、どうぞそこの処を間違わぬよう運んで貰いたいと言うのであって、そこを間違えて人間の理を第一に立てたまま運ぶなら、救けたいばかりの神の手は届かず、救けてやれない大きな残念の理を世界に知らす為の長い果たしの道を通らなければならない事に成るから、これまで道に尽くした中々の理が、何をしたんやら分かりゃせんように成ると言うのや。)

 

これだけ間違わんよう。

 

(どうぞこれだけの事を間違わんようと、頼み置くで。)

 

悟りと言えば悟り、実際の理を諭し、難しいて/\ならん処であった。

 

(悟りと言えば、心を鎮めて真実誠の神の思惑を思い浮かべる誠の理であるから、その心根を受け止って、分かるよう胸の内から実際の理を諭して居るが、又悟りという理は、自分の都合を捨てて神の思惑どおりに運ぼうとする誠の精神が定まって居なければ治まらない理であるから、難しいて/\ならんという処であったであろう。)

 

まあ一寸の理、一寸の心、一寸の掛かり掛け、これからの道というは暫くの処、暫くの道が難しい。

 

(まあほんの一寸の誠の理と、ほんの一寸の改まった心の理によって、ほんの一寸の掛かり掛けの道を通して居るのだが、これからの道というは、皆々が山のように積み上げた残念の理の果たしの道に変わるから、暫くの道が難しい事に成るのやで。)

 

どういう事が難しいと思う。

 

(どういう事が難しいと思うか。)

 

難しいと思うは、人間と人間との義理が無くば暗闇とも言うやろう。

 

(難しいと思うのは、これまでの人間世界の常識を改めなければならないという事であって、これまでは、人間と人間との義理が無くば暗闇とも言うて居たやろう。)

 

人間の義理を病んで、神の道を欠くという。

 

(そこの処が神の道の邪魔に成るのと言うであって、人間の義理を第一に立てれば神の理は立たず、人間の義理を病んで神の道を欠くという事に成るのや。)

 

以前に諭したる。

 

(人間の義理というものは、神の思惑を後回しにしてしまう第一の残念の理であるから、それがのかん事にはどうにもならないと以前にも諭したるであろう。)

 

それが退かん事ではどうも難しい。

 

(それが退かんような事では、何時まで経っても鮮やかな神の働きを見せる事が出来ないから、どうも難しい事に成ると言うのやで。)

 

たとえ後からでも、あの者はかほうという、神の道にはかほうという事はすっきり要らん。

 

(たとえ後からでもそれだけの理を聞き分けて神の思惑どおりの道を運び、真実誠の道の台と成るなら、あの者は道の為の家宝という事に成るであろうが、神の道には家宝というような事はすっきり要らんで。)

 

だん/\諭しても書き取っても、理を話さん事ではどんならん。

 

(家宝という飾りのようなものだけでは神は働けず、人の笑いやそしりに堪えながら神の思惑を話した誠が無ければ、その返しをしようとして神が働いてやる事は出来ないのやから、遠慮気兼ね無く理を話さん事ではどんならんと言うのや。)

 

人間の心、人間の道とは思われようまい。

 

(濁り切った人間の心を改める為に、真実誠の神の働きを引き出す為の道であって、人間の力で為せる道とは思われようまい。)

 

神が始めたのや。

 

(不安に思うかもしれないが、長い年限を掛けて道の実効性を十分に見定めた上で、神が始め掛けたのやで。)

 

何処にこんな道があるか、こんな理があるか、こんなやしきがあるか。

 

(他の何処にこんな道があると思うか、こんな理があると思うか、こんなやしきがあると思うか。)

 

所々では親とも言わしてある。

 

(これまでに神が付けた所々の道では、行き詰まってしまった人間世界を救けようとして創め掛ける、元の親の道とも言わしてあるのや。)

 

世界事情でも数々の理やあろうまい。

 

(世界事情でもこれから創まる真実誠の神の働きを知る者が居るのであって、それに背くようなものは数々の理やあろうまい。)

 

一寸には世界事情皆んな義理を欠ける。

 

(それだけの理が分かっていても、一寸には世界事情は治まらないが、それというのは、皆んな人間の理を第一に立てるばかりで、神の義理を欠ける事ばかりして居るからやで。)

 

書き取っても、書き取っただけで言えん事には、何ぼ口説話してもどうもならん。

 

(それだけの真実の理を書き取っても、書き取っただけでそれを人に言えん事には、その心根を受け取って、多くの者に伝わるよう神が働いてやる事が出来ないと、何ぼ口説いても話しても実践か出来ないからどうもならんと言うのや。)

 

すっきり聞き分け。

 

(全く道の理の分からない者に、明らか鮮やかな理の働く刻限話をうかつに話してはならないが、年限積んだ道の者にも遠慮気兼ねをして言えんという理は、神の働きの邪魔をする第一の理であるから、すっきりと片付けなければならない残念の理であると言う事情をよう聞き分けるよう。)

 

辺所々々の理は分かろまい。

 

(道の中心に居るような者でも遠慮気兼ねをして真実誠の神の思惑を伝える事が出来ず、その当りをうろうろして居るような残念な辺所々々の理は、どれだけ道の邪魔に成って居るか分かろまい。)

 

どうでも連れて通らにゃならん。

 

(それを改める為には、何ものにも屈する事無く、どうでもこうでも神の思惑どおりの道を運ぼうとする誠の者を連れて通らにゃならんのや。)

 

一代と言えば二代も連れて通りた者もある。

 

(それだけの理が一代で治まった道と言えば、それだけの理を治める為の苦しみの道を、二代も三代も連れて通りた者もあるのやで。)

 

言うた通りの理が始まり見える。

 

(神の言うた通りの理を速やかに実践する理が真実誠の救け道の始まりであって、年限が経てば、明らか鮮やかな神の働きが見えるように成ると言うのや。)

 

互い/\諭し合い、それ/\の理をすっきり治めて貰いたい。

 

(互い/\の諭し合いによって真実誠の神の働きを引き出し、明らか鮮やかな神の働きによって、それ/\の理をすっきりと治めて貰いたいのや。)

 

義理を病んで後の一つの話、それ/\言うまでのものなら義理は要らんもの。

 

(義理を病んで真実誠の神の働きを止めてしまうという後の一つの話も、それ/\が人間の義理を捨て切る事が出来ずに遠慮して小声で言うまでのものなら、神か表へ出て世界を救けられないのは明白であるから、そんな義理は要らんものだと言うのや。)

 

そこですっきり書き取って、何も彼も談じくれるがよい。

 

(そこでこれだけの事をすっきりと書き取って、何も彼も神様の思惑どおりに成るよう実践させて頂かなければならないと、皆々に談じてくれるが善いで。

 

 

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やはりと言うべきか、最近また少し気が緩み始め、毎日のお道の勉強をする時間も減ってしまい、ブログを書こうとパソコンに向かうも、ついYoutubeを見てしまい、なかなかブログの管理画面にたどり着けず、書くにしても何を書こうか思い浮かばないという情けない状況。

 

何を書かせていただくべきかとおさしづにお伺いしたところ、教えていただけたのがこのおさしづでした。

 

私は四人兄弟で、妹と弟は私と同じように…というか、私以上に真面目におさしづの勉強とブログをやっております。(右サイドバーのおすすめブログにリンク有り)

 

が、兄が居るのですが、兄はおさしづは読んでおりません。

おさしづに従って通らせていただくということも特に考えてはいないようです。

 

 

 

私は先日、兄におさしづの話をさせていただくべきかを迷っており、それをおさしづにお伺いしましたところ、しっかりとお話させていただくようにと教えていただきました。

 

祭典で会った時に話そうと思っていたのですが、自分を庇う心から、人目を気にしてしまい、なかなか話出せずにいましたところ、ちょっとした用事で後日会う予定が出来たのでその時に話そうということにしたのですが、それもまたほんの少し予定が変わったことにより、結局話せずに終わっていまいました。

 

その矢先のおさしづがこちらでした。

 

 

 

 

 

濁り切った人間心を捨て切って、何事も神の思惑どおりに運んでこそ結構な末代の理が治まるという一条の理を話たる処の聞き取りと、聞き取った後の運び方次第でそれぞれの末代の運命が定まってしまうと言うのだが、どうぞそこの処を間違わぬよう運んで貰いたい

 

今は仮の道と教えていただきます。

この仮の道の間の通り方で、末代までの運命が定まってしまうと聞かせていただきますので、間違うことのないよう、神様にお受け取りいただけるようしっかりと通らせていただかねばならないと思うわけですが、その為には自分の考えや、人から聞いた話に従っていたのでは正しい通り方は出来ません。

どこまでもおさしづに従って通らせていただかねばならないと教えていただいております。

 

 

 

そこを間違えて人間の理を第一に立てたまま運ぶなら、救けたいばかりの神の手は届かず、救けてやれない大きな残念の理を世界に知らす為の長い果たしの道を通らなければならない事に成るから、これまで道に尽くした中々の理が、何をしたんやら分かりゃせんように成ると言うのや。

 

しかし、おさしづに従って通らせていただくという通り方を知らず、理の親や先生と呼ばれる立場の方に従うのが正しい道と信じてしまっておられる方がお道の大多数をしめてしまっている現状です。

 

先生の教えに従い、自分や家族の為に信仰することが正しいと信じて教会や布教所の御用を一生懸命勤めておられていても神様に受け取っていただけるものは無く、今まで何をしていたのか分からないというようなことになってしまいます。

 

 

 

 

それを人に言えん事には、その心根を受け取って、多くの者に伝わるよう神が働いてやる事が出来ないと、何ぼ口説いても話しても実践か出来ないからどうもならん

 

年限積んだ道の者にも遠慮気兼ねをして言えんという理は、神の働きの邪魔をする第一の理であるから、すっきりと片付けなければならない残念の理であると言う事情をよう聞き分けるよう。

 

「全く道の理の分からない者に、明らか鮮やかな理の働く刻限話をうかつに話してはならない」とのお言葉から考えて、誰にでも手当たり次第に話せば良いという訳でもないのでしょうが、今回私はおさしづより神様にお伺いをし、お話をさせていただくようにと、間違いなく教えて頂きましたので、やはりおさしづの話をさせていただかねばならなかったのです。

しかし、結局言えずに終わってしまったという情けない結果となってしまいました。

 

 

ところがまた後日、ある用事で名古屋へ行くため電車に乗ったところ、なんとその電車に兄が居たのです。

なんとなく選んだ出発時刻の、なんとなく立ち止まったホームの乗り位置の、電車の扉が開いた先に座って居ました。物凄い偶然でした。

 

私はその日、修養科の同期と飲みに行くという予定だったので、車ではなく電車を選んだのですが、兄もまた同じく飲みに行く予定で電車に乗っていたようです。

 

これをチャンスと、おさしづの話をさせていただきました。

 

おさしづを読む気はないか、おさしづを読むことの大切さなど話ましたが、仕事で多忙のため、読むような時間は取れないというのが兄からの返事でした。

 

言うべきことは言えたと満足して話は終わりましたが、後で考え直すと、そこにはまだまだ遠慮の心が有りました。

 

本人にその気が無いのに無理に勧めることではないのでしょうが、それでも言うべき事が全て言えたかと言えば、そうでも有りませんでした。

 

 

 

 

 

人間の義理を第一に立てれば神の理は立たず、人間の義理を病んで神の道を欠くという事に成るのや。

 

自分が弟であり、相手が兄という立場上、最初に否定された段階で、それ以上続けることが出来ませんでした。

神様の理よりも、兄の顔を立ててしまっていたのです。

 

 

言うべきことを全て言えたところで結果が変わるとも思えませんが、それでも義理を病んで、遠慮してしまったことは事実であり、反省すべき点です。

 

 

 

 

 

人の笑いやそしりに堪えながら神の思惑を話した誠が無ければ、その返しをしようとして神が働いてやる事は出来ないのやから、遠慮気兼ね無く理を話さん事ではどんならんと言うのや。

 

「理の親を立てて通る」という間違った教えが蔓延してしまっているお道の現状から「おさしづに従って通る」という話をすれば、白い目で見られることも有りますが、かと言って、間違った教えを信じたまま通ってしまっていては、折角一生懸命に勤めていても何にもなりません。

 

「おさしづに従って通る」ことの大切さに気付かせていただいた者が、人間の立場にとらわれることなく、遠慮を捨ててお伝えさせていただかねばならないのだと思います。

 

 

 

 

道の中心に居るような者でも遠慮気兼ねをして真実誠の神の思惑を伝える事が出来ず、その当りをうろうろして居るような残念な辺所々々の理は、どれだけ道の邪魔に成って居るか分かろまい。

 

人間の義理を捨て切る事が出来ずに遠慮して小声で言うまでのものなら、神か表へ出て世界を救けられないのは明白であるから、そんな義理は要らんもの

 

遠慮気兼ねをして真実誠の神様の思惑を伝える事が出来ず、今回のように言うべきことも最後まで言えないまま終わってしまうようなことでは、道の邪魔になってしまうので、今一度考え改めねばならないように思います。

 

 

 

 

 

そこでこれだけの事をすっきりと書き取って、何も彼も神様の思惑どおりに成るよう実践させて頂かなければならないと、皆々に談じてくれるが善いで。

 

人間の埃の心に塗れ、欲望が支配する悲惨な世界を改め、神様の澄み切った一列支配の世界に改めていただく為には、我々道の者が教祖ひながたの道に倣い、自ら苦労を願い出て胸の掃除をしていただき、神様の思し召しに従って通らせていただき、その心を世界に映し出していただかねばなりません。

 

そのためにも、人間の理を第一に立てるような間違った教えを改められるよう、神様の思惑を、遠慮してしまうことのないよう、しっかりお伝えさせていただかねばならないと思います。

 

 

 

 

 

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