そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

苦労艱難を自ら求める

おさしづは宝(一部抜粋)

おさしづは宝とは、父が日々、神様の御心を進んで求め、おさしづを研究し、そのおさしづを解釈したものです。
今回はそんな「おさしづは宝」からの一部抜粋となります。

 

 明治三十一年七月十四日 夜
昨朝本席御身上御願い申し上げば、夜深に尋ね出よとの仰せに付願

よう事情聞き分けてくれ。長い間や。年限々々長い年限の間、艱難苦労という道は、毎夜々々話したる。
道の上から見れば、今日の日と言えば、何処からどんな事言おうが、皆世界に力がある。危ない怖わいという処、連れて通りたる。未だ一寸分からん。連れて帰る処も分からん。
(ようこの事情を聞き分けてくれ。たった一つの救けの理である処の、長い間の苦労艱難の道の話をするのやで。
結構な末代の理が治まる為には、真実誠の種を蒔く為の長い年限々々の苦しみの道と、蒔いた種を強く大きく育てる為の長い年限の間の修理肥やしの理が必要であるが、そんな苦しみの道の中を、理に守られながら安心安全に通り抜ける為には、教祖の後を慕って艱難苦労のひながたの道を通り抜けるより他は無いという真実誠の神一条の道の話は、毎夜々々話したるであろう。
道の上から見れば、誰もが皆、長い間神の思惑に沿えなかった親不孝の理〈恩を仇で返し続けた最大最悪の悪因縁〉の掃除をして結構な末代の理を治め、世界の道の台となって尽くす事が第一であるが、今日の日と言えば、誰も皆心次第の道を通して居るのやから、今一時の結構を捨てて道の為・世界の為に尽くそうとする真実の心が定まらなければ、何処からどんな事を言おうが、結構な天の救け道を通してやる事は出来ないのであり、結構な道を連れて通してやる事が出来ないから、皆それなりに世界を無難に通り抜けるだけの力があると言うのや。
道の為・世界の為に尽くそうとする真実の心を受け取って、その心を洗い清めて強く育てる為の、危ない怖わいという処を連れて通りたると言うのやで。
艱難苦労のひながたの道というは、自ら求める真実の心に応じて、心通りに神が連れて通す真実誠の神一条の道であるという事が、未だ一寸には分からんのや。
世界為・道の為に尽くす為には、一人先に立って胸の掃除の為の苦労艱難の道を通り抜け、さしづ通りの道を通り抜けて、長い間に積み重ねた残念の理を改め、結構な末代の理を治めて、受けた恩を立派に返してこそ人にも伝える事が出来るのであるが、そうして神の思惑通りの長い苦しみの道を通り抜けた者を、真実誠の神の道具として、元の屋敷へ連れて帰るという処も分からんであろう。)

(中略)

つとめ場所/\よう聞き分け。何やら分からん。つとめ場所は世の元という。世界今は皆んな耳に聞いて居る。この元小さいものやという。それから順序という。隠れ走り年限という。
(たとえそれが分からなくても、元のつとめ場所/\から世界中へ理を写し、有無を言わさず世界中を救け上げる為の、明らか鮮やかな鏡屋敷の理である事だけは、よう聞き分けなければならんで。
それとても、道の為・世界の為に尽くそうとする真実の心が無ければ、何が何やら分からん話であろう。
元のつとめ場所というは人間を創め出した世の元という。
この道は、濁り切った世界中を救ける為の元の道であるという事を、今は皆んな耳に聞いて知って居るであろう。
この元に成る真実の理は、人が驚くような大層なものでは無く、誰でも心一つで定められるような、澄み切った心の理の小さいものやと言うてある。
濁り切った人間思案を捨て切って道の為・世界の為に尽くそうとする真実さえ定まれば、真実誠の神一条の道が始まるのであり、定まった心を育てる為の天然自然順序の理が定まるというのや。
天然自然の順序の道は、濁り切った胸の掃除をして明らか鮮やかな天理を治め、結構な末代の理を治めて世界導く道の台と成る為に、人に笑われそしられながら、隠れ走りをする年限の道と言うのやで。)

(中略)

三十年以前あちらもこちらも草だらけ、破損ばかり。建家数えてみよ。皆仮家建ちに建て替え。今日は何処にも仮家々々、ほんに成程と言う。国々それ/\にも出来来たる。年限経つ経たず順序草生えの中からの理を聞き分けてくれ。口説き話という。杖柱という。一年二年三年という。
(三十年以前の道〈飯降伊蔵と眞之亮が出て来る前〉は、あちらもこちらも草だらけ、破損ばかりや。
三十年の苦労艱難の道によって出来て来た建屋〈今日の立派な天理教会〉を数えてみよ。
なれど、三十年の苦労艱難の道によってこれだけの道が出来た事を思えば、広くて大きな世界救けの本道を建設する為には、今は皆不自由第一の仮屋建ちに建て替えるのが本当であろう。
今日の道は未だ仮の道であって、何処にも仮屋々々を立てて尽くすのが誠の理であり、広くて大きな世界救けの道を完成させる為に不自由第一の仮屋の理で尽くし、人に笑われそしられながら満足たんのう治めてこそ真の誠、誠であればこそ、日々明らか鮮やかな理が働いて多くの者が寄り集まり、ほんに成程という事に成るのや。
そうして運んだなら、国々やそれ/\の所にも結構な道が出来来たると言うのや。
年限の理が経つ経たずの中から、苦労艱難の天然自然の順序の道を通り、草生えの中から立ち上がって来たという三十年の理をよう聞き分けてくれ。
それを伝えたい為の口説き話という。そうして真実尽くしてこそ、神の杖柱に成ると言うのや。
真実に聞き分けて運ぶなら、その中の真の苦労は、ただの一年二年三年というのやで。
真の心に誠さえ有れば、不自由しようと思っても不自由は出来やせんと言うて有るわい。)

誠の/\連れて通りた。一人順序の理があるわい。差し詰まりた日あるわい/\。あった時にはどうするか。古い事は差し措いて、人間という心蔓りて/\、それに付き添い、よう/\連れて通りた心察してみよ。順序になるかならんか。
(たった三年の苦労艱難の道で治まると言えば皆不思議に思うであろうが、五十年にも渡る真実誠の神一条の道/\を、連れて通りた教祖ひながたの道が有るであろう。
人間の力ではとても通り抜ける事の出来ない五十年の胸の掃除の道を、教祖の後を慕おうとする子供に写してやる為に、教祖が一人先に立って通り抜けたという順序の理が有るわい
誰も皆教祖の後を慕おうとしないから、扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうかと差し詰まりた日があるわい/\。
もうこれではどうにも成らんから、元の泥海に還さなければ成らんというような事があった時にはどうするか。
誰もが皆人として生き永らえる為の大事な古い事〈ひながたの道〉は差し措いて、勝手な人間の理ばかりを諭すから、一寸先も見えない人間心という暗がりの心がはびかりて/\しまい、止む無くそれに合わせて神が付き添いをし、よう/\の思いで連れて通りて来たという残念な心を察してみよ。
こんな事で、真実誠の順序の道に成るか成らんかよう思案してみよ。)

(中略)

一日々々見え来る/\。楽しんで居る/\。楽しみの元というは小さいもの。もう年が明けたらや、さあ年が明いたらやと言うて、十年連れて通りたる。
(世界中の兄弟に理を写して頂く為に、一人先に立ってひながた通りの道を運ぼうとするなら、一日々々と鮮やかな理の働きが見えて来る/\のや。
速やかに聞き分けて神の思惑通りの道を運んでこそ真実誠の道の台と成るのであって、先々は結構な末代の道を楽しんで居る/\という事に成るのやで。
先々の楽しみの理の元というは、誰もが驚くような大きなものでは無く、人に笑われるような小さいものや。
澄み切った真実を定めて尽くしたとしても、結構な先々の理が見えるのはもう少し先で
あり、年限の理が明けたらや、さあ年が明いたら神が働くのやと言うて、十年の苦しみの道を連れて通りたるのや。)

(中略)

本席の事情で御座りますか
さあ/\中には一つの理も分かる。又中には一つの理もあろ。一段二段三段、一二三、これまでちょい/\話したる。一二三話し掛けた/\。
(さあ/\多くの中には一つの理〈この道は世界救けの為の真実誠の神一条の道であり、世界の為に尽くすより他に結構という理は無いという一つの理〉の働きも分かる者も有る。又理を聞き分けて長い年限尽くす中には、何もかも捨てて道の為・世界の為に尽くし切った一つの理もあろ。一段二段三段の道であり、一二三の順序の道であると、これまでちょい/\話したる。
一は神を信じて世界の為に尽くそうとする誠の心の定まりの理であり、二は定まった誠の心を育てる為の天然自然順序の理の定まりの理であり、三はその中を満足たんのうして通り抜けてこそ結構な先々の理が治まって世界救けの為の真実誠の道の台と成って尽くす事が出来るという事であり、それだけの事を一二三の理を以て話し掛けた/\のや。)

 

 

道の為・世界の為に尽くそうとする真実の心を受け取って、その心を洗い清めて強く育てる為の、危ない怖わいという処を連れて通りたると言うのやで。
艱難苦労のひながたの道というは、自ら求める真実の心に応じて、心通りに神が連れて通す真実誠の神一条の道である

この部分を読んだ時「苦労を自ら求めることで神様にお連れ通り頂けるのだ。」そう思い、家の神様の部屋に座り、お願いをしました。

「どのような苦労も、たんのうの心で通れるよう、ささやかながら努力をさせて頂きます。どうかお連れ通り下さい。」

その矢先、布教所祭典の帰りの交通事故でした。

信号に全く気が付かずに交差点に進入してしまい、相手の車に衝突してしまいました。

相手の方は軽い怪我ではありますが、全治一週間でした。

 

100%こちらの過失なので、それを神様のご守護とは自分では言いにくいところでは有りますが、父は、因縁どおりであればもっと大きな事故をしていたかもしれない。それを形ばかりの事故で済ませて頂けたのだと教えてくれました。

 

 

今、世界ではコロナウイルスが世界中で蔓延しています。父は、これからもっと恐ろしい事が起きてくる。コロナウイルスはまだそよ風のようなものだと言いました。

 もうこれからは、自分の為の信仰や、人間の理を第一に立てるような信仰では通れなくなります。

人間心を捨てて、無条件で神様に従うようでなければ、お連れ通り頂く事が出来なくなってしまいます。

 

 そう聞くと、自分にはとても無理だと思ってしまう方もいらっしゃるかと思います。しかし、何も「何事も成し遂げ、何者にも屈しない」といった、壮大かつ強靭な精神力は必要無いように思います。

 

 この元に成る真実の理は、人が驚くような大層なものでは無く、誰でも心一つで定められるような、澄み切った心の理の小さいものやと言うてある。

 人間にそこまでの力が無いことは神様もよく分かって下さっているとお聞きしたことがあります。

おさしづを信じ、おさしづをよく心におさめ、何事もおさしづに従って通らせて頂きたい。その心を神様がお受け取り下さるように思います。

 

七分三分の理が有ります。

 人間の考えや知恵、力で「これだけの事をしよう。」としても、それは神様ではなく、やはり人間の考えです。例え七分の事をしても、神様は三分にしか受け取って下さいません。

神様のお心を求め、神様に凭れ、神様に従って通らせて頂こう。そこには余分な人間考えは有りません。そのたった三分の心を神様が七分に受け取って頂けると教えて頂きます。

 

また、どのような艱難苦労の中もたんのうの心を神様は受け取って下さいます。

布教所住み込み時代。住み込みの者(以下、入り込み者)が大変苦しんでいた時期が、数年有りました。
先代所長さん父娘の、とてもお道とは言えない、自分勝手で滅茶苦茶な振る舞いに悩まされておりました。ボクも毎日が嫌で嫌で仕方が有りませんでした。しかし、そんなある時に気がついたのです。

教祖ひながたの苦労の道を通させて頂かねばならないとは思うが、誰も苦労は嫌だ。しかし、何も自分の考えで苦労しようとせずとも、今の現状は神様が我々に与えて下さった、ささやかながらも苦労であり、たったこれだけの事をたんのうの心で通れば、どれだけ神様が受け取ってくださることか分からない。そう思ったら嬉しくて嬉しくて仕方が有りませんでした。

 今までは所長父娘しか目に映らなかったのが、それからは神様が目に映るようでした。

 他の入り込み者に「俺は今の状況を喜んでいる」というと、半分冗談で「Mなんじゃない?」などと言われましたが、Mでは有りません。ボクだって辛いという感情は有ります。でもこれが神様が与えて下さった苦労であるなら、その苦しみをよく味わい満足するのがたんのうだと教えて頂きます。

例え辛くても、上っ面だけでも口先だけでも「ああ、有り難い。」と言っていると、本当に有難く思えてくるのです。

 

神様のお心を求め、神様に凭れ、どのような中もたんのうの心で通させて頂く。たったそれだけで神様に受け取って頂けるように思います。

 

一は神を信じて世界の為に尽くそうとする誠の心の定まりの理であり、二は定まった誠の心を育てる為の天然自然順序の理の定まりの理であり、三はその中を満足たんのうして通り抜けてこそ結構な先々の理が治まって世界救けの為の真実誠の道の台と成って尽くす事が出来るという事であり、それだけの事を一二三の理を以て話し掛けた/\のや

そうして通らせて頂こうと心を定めれば、神様が我々の心を育ててくださいます。時には大変な苦労も有るかと思います。その中を満足たんのうして通らせて頂くことで、世界救けの為にお役立て頂けるようになる。そうして末代まで結構な理が治まると教えて頂きます。

 

真実に聞き分けて運ぶなら、その中の真の苦労は、ただの一年二年三年というのやで。
真の心に誠さえ有れば、不自由しようと思っても不自由は出来やせんと言うて有るわい

そうして通らせて頂けば、その中の苦労は三年だけだと教えて頂きます。

 

 

 

今回、どのような苦労もさせて頂きたいとお願いさせて頂きましたが、それがこの事故だけで終わりなのか、まだまだこれから大変な事が起きてくるのか。それは分かりません。

それでも、その中をたんのうの心を忘れず通れるように、努力させて頂きたいと思います。