そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

人は何故に苦労するのか。天然自然順序の理とは何かを考える。

今回の記事には個人の見解が多めに含まれております。

間違ったことを勝手にほざいている可能性がいつも以上にありますので、参考程度に読んでいただければ幸いです。

 

 

人は何故苦労するのか?

皆人それぞれ、辛いこと、苦しいことを、身上や事情にて経験していることと思います。

 

しかし、この神様は苦しめよう困らせようとの神様ではないとお聞かせいただきます。

おふでさきに

 

にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる

 

救ける模様ばかりを思っている

救けることばかりを考えてくださっているとお聞かせいただきます。

 

では、なぜ辛いこと、苦しいことが有るのか。

 

それを考えた時、最終的には「神様が人間を救けたいと思し召してくださっているからではないか」という結論に私は辿り着きます。

 

 

 

お道の信者であれば誰もが聞いたことがある話。

親神様はこの世をお造りくだされた時、人間を造り、皆が互いに立て合い、助け合いながら明るく陽気に暮らす様を見て共に楽しもうとの思し召しから我々人間をお造りくだされたと聞かせていただいております。

 

その時に「心一つが我が理」であるとお定めくださいました。

我々の身体も、服やお金、食べ物飲み物、家や土地など、生きていくのに必要なものは全て神様からの借り物ですが、心だけは我のもの。

 

心だけは自分のものなので、自由に使ってよいとお定めくださったのです。

 

しかし、自由を約束されたのを良いことに、人は人を憎しみ、恨み、我さえ良くばの我が身思案や、有るが上にもなんぼでもといった欲望により、奪い合い、傷つけ合い、時には殺し合い、戦争を起こすなどと、陽気ぐらしを見て共に楽しもうと思し召しくだされた親神様にはとてもお喜びいただけない、残念な心ばかりを使ってしまいました。

 

 

人間の心や行いは「種」として残ります。

良い心遣いや行いから蒔かれた良い種も、悪い心遣いや行いから蒔かれた悪い種も、いずれ自分に返ってきます。

 

それを「因縁」と教えていただきます。

 

 

悪い因縁が返ってくるので、相応の苦しみを受けることになりますが、自分の因縁からなるそんな不都合すらも人のせいにして、また更に人を恨み、憎しみ、そうして我々は埃の心と残念の理(親神様のお心に背き続けてきた親不孝の理)を山のように積み重ねてきてしまった訳です。

 

 

本当は神様は、我が子である人間に余計な苦労はさせたくない。今直ぐ人間を幸せにしてあげたい。

 

そう思し召しくださっているのですが、何せ山のように積み重ねてしまった因縁があります。ただでさえ、これを「まあ、いっか」で許してしまう訳にはいかないのに、もっと厄介なのが、その因縁の量も種類も人それぞれ、多種多様なのです。

 

全ての人間を平等にご守護くださるのが親神様です。

 

 

物凄く簡単に例えるなら、お金を盗んだ人が二人居ます。

でも、ただお金を盗んだだけではなく、一万円盗んだ人も居れば、十万円盗んだ人も居るのです。

 

これを「まあ、いっか」で許してしまうと、十万円盗んだ人が九万円も得してしまいます。それでは平等になりません。盗んだもん勝ちになってしまうのです。

 

 

仮に百歩譲って盗んだ一万円分はチャラにして許すとしても、十万円盗んだ人の、この九万円はチャラにすることは出来ません。

 

その九万円分の因縁が有るからこそ、我々人間は苦労で返さねばならないのです。

 

 

 

しかし、これは例えで九万円と言いましたが、実際にはそれどころでは有りません。

 

 

 

 

少し自分の心を省みてみましょう。

今までに神様にお喜びいただけない心遣いや行いをしたことが、誰にでも有るのではないでしょうか?

 

埃の心を使い、不足をしたり嘘をついたり、人と喧嘩したり人を嫌ったり…

 

私は全部当てはまります(自信満々)

 

 

 

今世だけでも思い出しきれないほど積み重ねて来たのに、前生、前々生、更にまたその前生と、魂が存在し始めたその時から悪い因縁を、気が遠くなるほど積み重ねてきてしまったのです。

 

 

それをお返ししようと思ったら、本来であればきっと地獄のような日々を永遠のように歩み続けなければなりません。

 

 

 

それもただ通れば良いのでは有りません。

おさしづに、たんのうは前生因縁のさんげ(懺悔)と教えてくださいます。

また

 

いんねんという、いんねん一つの理は、たんのうより外に受け取る理は無い。

 

とも教えてくださいます。

たんのうの心が前生因縁の唯一のさんげであり、どれだけ苦しい思いをしても、それをたんのうの心で通らなければお受け取りいただけないのです。

 

 

 

永遠のような地獄の中をたんのうの心で通る。

 

そんなこと人間にはとても出来ません。

本来であれば、我々人間が思っている以上に、もうどうしようもないところまで差し迫っており、本来であればもう元の泥海に還して、また0から作り直さなければならないほどなのです。

 

本来であればです。

 

 

 

 

それでも親神様は我々を見捨てることなく、我々人間を救けようと思し召しくださっているのです。

 

 

そこで悪因縁を断ち切る為の伝家の宝刀「七分三分の理」です。

これについては妹と弟が記事にしていましたので、そちらを参照ください。

 

mamasunzu.blog.fc2.com

 

niwoigake.blog.jp

 

 

 

教祖は我々人間の代わりに五十年の御苦労の道を、神様を信じて勇んでお通りくださり、それを我々のひながたとしてお示しくださったのです。

 

 

おさしづは宝より引用
おさしづは宝とは、父が長年おさしづを研究して、読みやすく解釈したものです。)

何処までも神様を信じて教え通りの道を貫こうとする誠一つさえあれば、たった三年千日で濁り切った胸の掃除をして下さり、末永く人として連れて通して頂く事の出来る澄み切った心に改めて頂けます。

(中略)

教祖の後を慕って胸の掃除の道を運ばせて頂こうと定めた誠の心に癒着した悪因縁を、強大な神様の御力を以て断ち切って下さる為の真実誠の理です。人間の力ではとても通り抜けられない苦労艱難の道であると承知の上で、教祖の後を慕わせて頂こうと定めて運ぶ誠の心は、濁り切った人間心を速やかに捨てて神様の思惑通りの道を運ばせて貰おうと定める真実誠の神一条の理として神様が受け取って下さいます

原文はこちら

 

 

山のように因縁を積み重ね、泥水のように心が濁ってしまった人間を救ける為の最後の手段が七分三分の理なのだと思います。

 

 

我々人間は、その教祖のひながたに倣い、神様がお与え下さる苦労の中を、神様を信じてたんのうの心で、たった三年千日通るだけで胸の掃除をしてくださり、悪因縁を断ち切っていただけるのです。

 

 

 

 

まあ、それも口で言うほど簡単ではないですよね。

でもご安心ください。人間にそこまで出来ないことは、神様が人間以上にご理解くださっているのです。

 

 

そこで、タイトルにもあるもう一つの本題「天然自然順序の理」なのではないかと思います。

 

 

天然自然順序の理とは、勉強不足の私では解説出来ないほどの深い意味があるとは思いますが、僭越ながら私の分かる範囲で説明しますと、我々人間を用木として育てる為の、その人その人に合わせた手段であり、神様の思いを無理なく順番に分からせてくださる為の、言わば用木育成プロジェクトなのだと思います。

 

 

しかし、それは放っておいても勝手に出来てくるものでは有りません。

 

 

神様の思し召しに従って通らせていただきたい
世界救けの為に尽くさせていただきたい
教祖ひながたの道を辿り、どのような苦労でもさせていただきたい

 

我々自らが、そう神様に願い出でなければなりません。

 

 

そう願い出ることによって、この先どんな辛い道が待っているかは分かりません。

 

それでも、それだけが救かる唯一の道であり、世界救けの方法であり、親神様の親心なのです。

また親神様はそれをずっと待ち続けてくださっているのですから、親神様を信じて、親神様に凭れて、我が身どうなっても世界救けの為にと願い出る、その真実を受け取ってくださることで、育成プロジェクト「天然自然順序の理」が始まるのだと私は考えます。

 

 

 

 

 

以前の記事で、神様にお願いをするのに、自分の都合でお願いしてはいけないと話しました。

kokoroetigai.hatenablog.com

 

 

なぜ自ら願い出なければいけないのか。

また、何故自分の都合をお願いしてはいけないのか。

 

これもついでに自分の見解を述べたいと思います。

しつこいようですが、飽くまで個人の見解ですので参考程度に読んでいただければと思います。

 

 

 

最初に申しましたように、神様は「心一つが我が理」心は人間の自由に使ってよいとお定めくださいました。

 

神様は我々人間を救ける為の方法をご存知で、その方法で救けたいと思し召しくださっているのですが、心は自由に使ってよいとお定めくださった以上、神様からその方法を強制することが出来ないのです。

 

 

 

これを、分かりやすくお母さんとたけし君で例えてみましょう。

 

 

 

たけし君は遊んでばかり居たため、成績が落ちてしまいました。

 

そこでお母さんはたけし君に「勉強方法は自分で自由に決めて良いから、成績が上がるように勉強をしなさい。」と言います。

 

そこでたけし君は勉強をするのですが、その勉強法が全くなっていません。

とにかく非合理的で、非効率的。この勉強方法では、どれだけ頑張っても成績は上がりません。

 

 

お母さんは、その勉強方法では成績が上がらないことも、成績を上げる為にはどう勉強すればいいのかも全て分かっています。

たけし君の成績が上がる唯一の勉強方法「真・たけしの成績UP勉強法」を知り尽くしているのです。

 

 

 

しかし「勉強方法は自分で自由に決めて良い」と約束してしまった以上「この方法で勉強しなさい」と言うことが出来ません。

 

 

お母さんの方からそれが言えない以上、たけし君の勉強はどれだけ頑張っても無駄な足掻きでしかないのです。

 

そんなたけし君が成績を上げる手段は一つしか有りません。

 

たけし君がお母さんに「勉強を教えて」と、自ら願い出るしかないのです。

 

 

 

お母さんの方から「こうやって勉強しなさい」と言うことは出来ませんが、たけし君から「教えて」と願い出たなら、唯一の勉強方法「真・たけしの成績UP勉強法」を教えることが出来るのです。

 

お母さんの頭の中で「真・たけしの成績UP勉強法」が音を立てて組み立てられていきます。

 

たけし君は、そこに自分の都合を混ぜてしまってはいけません。

「でも、10分に一回は休憩させて」

「理科は嫌いだから少なめで、漢字は得意だから多めで」

 

などと、自分の都合に添ったお願いをしてしまうと、それはもう「真・たけしの成績UP勉強法」ではなくなってしまいます。

 

お母さんの頭の中で「真・たけしの成績UP勉強法」が音を立てて崩れてしまいます。

 

 

ならば、本当に成績を上げる為には、全てお母さんに任せるしか無いのです。

どういった勉強を、どんな順番で、どれだけの時間やるのか。自分の考え、自分の都合などは全て捨てて「どんな辛い勉強方法でも頑張る。全部お母さんに任せるから教えて」とお願いするしか無いのです。

 

 

 

我々人間が救かる方法も同じです。

 

その「真・たけしの成績UP勉強法」がまさに「天然自然順序の理」なのだと考えられます。

 

 

 

心は自由に使って良いとお定めくださった以上は、神様から「こうしなさい」とは言えないのです。

 

「言わん言えんの理」の、「言えん」の部分がまさにそこではないでしょうか。

 

また、神様から「こうしなさい」と言われたからやった。では、その心に誠は有りません。他人から言われてやることに意味はなく、我が身を顧みず、自主的に動いてこそ誠の心と言えるでしょう。

 

 

 

で、あれば我々人間が救かるには、全てを神様にお任せし自分の都合は一切捨てて「どんな苦労でもさせていただきます。どうかお連れ通りください。」と自ら願い出るしか方法が無いのです。

 

神様から「こうしなさい」とは言えませんが、人間から「お連れ通りください」と願い出ることによって、用木として育てる為の「天然自然順序の理」が定まるのです。

 

 

 

一寸はなし神の心のせきこみハ よふぼくよせるもよふばかりを

 

よふぼくも一寸の事でハないほどに をふくよふきがほしい事から

 

先にも申しましたように、神様は一人でも多くの人間が、そう願い出ることを待ち望んでくださっているのだと思います。

 

 

おさしづは宝より引用

さあ/\/\余の儀外の儀でないで〈無知で心の濁り切った私達人間の行動によって壊滅寸前まで追い込まれてしまった世界中を速やかと救ける為に、神様が新しく定めて下さった天の道理を諭して下さるばかりであって、それ以外の他の話をするのではないと教えられる〉。

さあ/\これから先は万事一つの事情〈これから先は、どんな事も神様の思惑通りに運ぼうとしなければ誰も皆人として生き永らえる事も出来ないという一つの事情〉に改めるのやで。

又これもしっかりと聞き分けるが善い。

さあ/\速やかに世界一列を救けたいばかりの真実誠の神の思惑というものは、日限の刻限の理〈今のこの短い仮の道の間に尽くし運んだ理によって私達の末代の運命が定まってしまうという時間限定の理を諭して下さるのが刻限の理であって、そのような重大な神様の話を、聞いたその場で我が理として心に治めて実践しようとするなら、結構な先々の理が治まると共に、それを実現する為の天然自然順序の理も定まるが、人間に取ってはそれがとても難しい事であるから、遅くともその日の内に聞き分けて治めようとするなら治まる、というように、少しでも通りやすいよう改めて下さる日限の刻限の理〉によって現わして居るのであって、さあ/\そのような真実誠の神のさしづに対する日々の扱い方や、何かの処の心の扱い方通りにそれぞれの末代の運命が定まるという道であり、さあ/\これまでの処で、大難小難の理を用いて救けようとする真実誠の神の守護を喜んで受け取れなかった大きな残念の理を、一つ一つ晴らしてやろうとする為の色々な困難な事情を尋ねるにより、明らか鮮やかな日々の刻限の理によって一つ一つ改めてやると言うのやで。

原文はこちら

 

自分にそんなことが出来るだろうかと不安もお有りでしょうが、ここでごちゃごちゃと後先を考える必要は有りません。

救けたいとばかり思し召しくださっている神様が必ず育ててくださり、お連れ通りくださるのですから、まずはそこに飛び込むのです。

 

我が身思案を一度捨てて、出来ても出来なくてもやらせていただくのだと、その日のうちに願い出ることで、神様に受け取っていただけるのだと思います。