そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

前生因縁のさんげ

先月の23日

 
急病で病院に運ばれました。
 
 
今まで入り込み者として長年お世話になっていた布教所から社会へと出た。
布教所の信者を辞めた訳では無く、住み込みを辞めたのです。
 
兄の知人からアルバイトの誘いを頂き、就活しながらのアルバイトが始まった訳だが、アルバイト4日目に朝からどことなく体調が悪く、まあ半日くらいなんとかなるだろうと判断。
 
しかし、段々具合は悪くなる
それでも後2時間くらいならどうにかなるだろう、後1時間程度ならと少々無理をしていた。
 
 
その無理が駄目でした。
 
 
 
どうにか仕事を終え、帰路につく頃にはもうフラフラ。家に付いたら昼も食べずに直ぐに床に入る。
 
そこから少しずつ意識も朦朧してきて、夜になって家族も帰って来たらしく、何やらボクの事で周りがザワザワし始め、気がついたら病院のベッドの上でした。
 
 
道中父親に背負われていた事や、車椅子に乗ってた事
周りで知らない人が騒いでいることとか…(今思うと医師と看護師の方々)
 
どうにか記憶に残ってるけど、ほとんど意識ない状態だった。
 
 
 
医者の診断は急性副腎不全。



救急で運ばれた時、延命治療になったらどうするかとまで聞かれたそうです。
本当に命が危なかった。
 
 
実はその数日前
父から「前生に教祖を恨んだ因縁が有る」と言われました。
 
 
 
世界救けの道の為の教祖のあるご決断が、前生のボクには不都合で、教祖を恨んで通ってしまっていた。
 
恨むには相応の理由があれど、世界救けの為の教祖の尊い決断が有ってこそ今の道が有るのであり、それを恨んでしまった因縁は何がなんでもお詫びしなければならない。
 
 
 
そう聞きました。
 
 
前生の因縁と言われましても、当然記憶など有りませんので、さっぱり分かりません。
 
しかし、何よりも神様を立てきっている
どんな事もおさしづに従って通っている父の言うことなので、きっとそうなのだろう。
 
 
心を落ち着けて想像してみました。
一体教祖にどれほど深く、尊い思いが有ってのご決断だったのか
それを恨んでしまった事がどれほど愚かだったのか
分からないながらもお詫びをさせて頂きました。
 
急病で倒れたのはその数日後の事でした。
 


そうして夜、病院に運ばれ、どうにか一命をとりとめた次の日の朝、父がふと目にしたのが以下のおさしづだったそうです
 
明治二十三年九月二十三日
小梶与兵衞三十六才身上願

さあ/\第一身上の事情尋ねる。長らえてどうも一時身上不足なりて一時という。大抵話の理も聞かしてある。身の処どういうものと思う。長らえて信心すれども、身の処どういうものと思う。思うは一つの理であろう。よう聞き分け。親が子供憎い親はあろうまい。救からんやならんが一つの理や。それに身上ならんというは、よう聞き分け。めん/\の身上程大事なものあろまい。大事の身上不足なるは、いんねん一つの理。いんねんの理いと言うて分かろまい。分からんからたんのう一つの理が第一。世上の理を見てたんのうと心定めるなら、前生一つのさんげとなる。よく聞き取りて諭してくれ。

 
 
 親が子供憎い親はあろうまい。救からんやならんが一つの理や。
 このお道では、苦しめよう困らせようとの神様では無いとお聞かせ頂きます。むしろ世界一列を救けたいばかりと思し召し下さる我々人間の親であると聞かせて頂きます。
しかし、人間には前生の因縁や、幾重にも積み重ねてきてしまった残念の理が有ります。
それを不問とする訳にはいかず、必ず果たさなければならないものとお教え下さいます。
 
いんねんの理いと言うて分かろまい。分からんからたんのう一つの理が第一。
前生因縁と言っても誰にも記憶など有りませんし、自分の力で因縁を果たす事など誰にも出来ません。
どんな事も成ってくるのが天の理とし、神様に凭れ、どれほど辛い事も満足たんのうの心で通らせて頂く事が前生因縁のさんげと聞かせて頂きます。
 
 
父から前生因縁の話を聞き、分からないながらもさせて頂いたお詫びを神様が受け取って下さったようです。
 
 
そうして身上の障りを頂き、それをたんのうの心で受け取らせて頂く事で、前生の因縁のさんげをさせて頂けるのです。
 
 
世上の理を見てたんのう
世間の方々はこれが親神様の有難いご守護だと知る事は出来ないでしょう。
 
また、天理教を信仰していても、もし自分がおさしづに触れる機会が無かったらどうなっていたか。
人間の理を立てて、どうすれば良くなるかと人に伺い、あの理この理と案じてばかり、余計に神様の思し召しから離れてしまっていたのでしょう。
 
残念の理も果たさず、神様のご守護をたんのうの心で受け取れず、たすかる事ばかり願っていては人として末永く生かされる為の最低条件さえ捨ててしまうと教えて頂きます。
 
 
おさしづに触れ、形だけながらも神様の思いを求める事の大切さを知る事が出来たお陰でそれが神様のご守護であると知る事が出来ました。
 
 
たんのうとは今の苦しみを十分に味わい、満足堪能させて頂く事だと教えて頂きます。
 
ボクがしっかりたんのうの心で受け取らせて頂く事が出来たかどうか
自分では分かりません。
 
自分では今の苦しみをよく味わい、これから先、良くなろうと悪くなろうと、この身を全て神様にお任せしてたんのうの心で受け取らせて頂いたつもりでは居ます。
 
もしかしたら心のどこかで喜べない心を使ってしまっていたかも知れません。
 
 
それでも、こうして身上の障りによって前生因縁のさんげをさせて頂けるという事、それを分からせて頂けた事は本当に有難い事なんだと実感させて頂きました。