そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

むさくろしい者も一時寄せてある

以前、父が書いたおさしづの解釈の一部です




 

さあさあいずれいずれ道を通る。この道には一時の処むさくろしい者(むさ苦しい心の者)も、残念な者も多く寄せて有る。これからは神が表へ表れて、如何なごもく(ゴミや汚れ等と思われます)も掃除するなり。掃除一条、すっきり掃除をしてしまうで、皆片付ける道具も要る。どうでも掃除をして掃き立てる。
隅から隅まで掃除してしまう。どういう事なら心の掃除や。どんな道もすっきり洗い換える。これまでにも段々諭してある。後で後悔無きように、真実の心が無ければどうにも成らんと、幾度も伝えてある。箒を持って掃除、神が箒や、人間の力ではとても敵わん。すっきり掃除が出来たなら、道は益々栄えると諭してある。ごもくさえすっきり片付けてしもうたなら、後に残るは私利私欲の無い、澄んだ者ばかりや。
(中略)
身上に、無くては成らない一つの理がある。をやの心にそむき続けて来た残念の理を払い、速やかに救けてやらねば成らん。救けてやりたくても、大きな残念の理が神の前に立ちふさがり、真実の理を通す事が出来ん。どうしてやる事も出来ん。可愛い我が子を見捨てる訳にはいかん。何としてでも救けてやらねばならん。救ける為には先ず第一に、今も尚、神に背き続ける元になっている、むほんの根を切ってやらねば成らん。根がある限り、をやの心に、真から添う事が出来ん。根を切る為に、一時の処、理を曲げてでも働かにゃなるまい。神の理によってあえてむさくろしい道の中を通さねば成らん。その中を、堪忍、しんぼうをして心を治めなければ成らん。そうやって救けようとする神の真実を、満足たんのうをして受け取ってくれるなら、その心を天に従う誠の心と受け取り、根を断ち切ってやらなければならない。そんなだんだんの道の中に、使う為の道具が要る。むほんの根を切る大切な神の道具として、むさくろしい者を使わんならん。塩を抜くには、塩を用いねば抜けやせん。なれど例え道具であっても、何時までも真実の心が治まらなければ、道の中のごもくと共に、すっきり掃除をして片付けんならん日が来てしまう。どの子も隔て無く可愛い我が子、皆々同じように救けてやりたいが、をやの理である。例え、真実の理が治まらん事を十分に見定めた上で、心通りに一時の道具として使ってやっていたとしても、皆々同じように、成らん中の重き一つの道を、最後まで通させてやりたいのが、をやの心。どんな者でも実の我が子。心通りの守護とは言え、真実の道を通してやれないをやの苦しみを、分かってくれる者は少ない。(中略)をやの真実に心を開き、むさくろしい中を、真実に満足たんのうをして治めてくれるなら、むほんの根は切れてしまうと諭して置く。聞き分けが出来んと言うなら、いずれ、身上の理に替えて果たしてやるより、仕方あるまい。よう思案して貰いたい。

むさくろしい道の中、理を曲げてでも救けようとする神の真実が分からず、人を恐れ、人間の理を先に立ててしまっては成らん。神の理を受け取って、曲がった道でも楽しんで通り抜けようとするなら、天の理に適う。天の理に適うから、曲げかけても決して切れる様な事は無い。何処までも伸びて、綺麗に治まるから何も心配は要らん。神の理が分からず、目先の事ばかり考え、我が身をかばうあまり、人を恐れたり、目の前の人間の理を先に立てて、人間の理に従うなら、それは追従(ついしょう)となって、天の理から大きく外れる。そんな弱々しいほこりの心は、神の邪魔になる。ほこりが立てば、働いてやれんように成ってしまう。追従の理が他に映ればどうもならん。道が大事、これからは月日退くと諭してある。そうならない様に、神を頼り、自ら道を求め、一人だけでも天の理を守り抜こうと言う、精神だけは、日々治めていなければ成らない。心が無ければ、働いてやる事は出来ん。

以下省略






今の天理教組織に不満を持つ方が沢山います。

しかし、その心は知らないうちに神様の親心に反していたのです。

天理教を食い物にし、信者からお供えを強要し、自分は高級車に乗りながらお救けには行かない。

そんな人が今の天理教組織の上層部にどれだけいる事か。

しかし、そんなむさくろしい人達も、世界だすけという大目標の為に、一時置いて下さっていると教えて頂きます。

 

塩抜きするには塩が必要です


いずれ時がくれば神様に掃除される日が来るのでしょう。

ご不満もおありでしょうが、いつまでも喜べず、不足ばかりでは自分もその人達と一緒に掃除されなければならなくなってしまうと、神様は心配して下さいます。

お辛いでしょうが、今は耐えてください。



たんのうとは「十分に味わい、満足する」と言う意味

何も辛い事を無理にでも喜べと言う事では有りません。

辛いものは辛いんです!でもその辛さをよく味わい、そこから神様の温かい親心を受け取る事が出来たなら、それがたんのうではないでしょうか?

 

 




また、人間の考えで大きな事をしようとする必要は有りません。

「神様の思惑に添わせて頂きたい。神様にお喜び頂ける通り方をしたい」

その心を神様が受け取って下さり、手を引いて下さると、父は教えてくれました。

小さな真実を積み重ねる事を神様は大きく受け取って下さいます。

常に神様の思いを求め、神様をめどに通らせて頂く事が、大切では無いかと思います。