そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

もう暫くの処、神一条の道にして了う。

明治二十二年九月十七日(陰暦八月二十三日)午後九時
刻限御話

さあ/\/\/\一寸一つの話掛け。さあ/\これ/\どういう事を話掛ける。皆皆ようこれを聞いてくれ。もうこれいつ/\の事に思うて居る。もう時節十分。もう十分に詰み切った処に、一つこんな事とは知らなんだと思うやろう。どんな事をして、十分にこれでこそと思う。こうしたらもうどっからどういう事も無いと思うたは、一時の処、神一条の理、一つでもどうもならん。十のものなら十ながらどうもならん。この者に運ぶ/\と言うても、神が定めねばどうも定まらん。いつになっても定めたる神やしき。道無き心は大丈夫とは言えよまい。皆よう聞いて置け。もう暫くの処、神一条の道にして了う。日々取り扱い成程これでこそ神やしき、天の理いつ/\までものこるという。そこでもうこれ一寸前々よりも伝え話、刻限の理が分かり難ない。これからは皆心を繋ぎやい、人間の心で定めた理はどうも続かん。何彼の事頼み置く。もうこれ一寸掛かり掛けたら、皆身の処で障る、障るから尋ねる、尋ねれば諭しよう。神が一つの理を見て定める程に。人間心の定めはどうも定まり難くい。何彼の事も話置くという、何彼の事も頼み置くという。

 

以下、父の解釈です。

さあ/\/\/\一寸一つの話掛けをする。さあ/\これ/\どういう事を話掛ける。皆々ようこれを聞いてくれ。人間というものは今のこの神の話を、「もうこれは過ぎ去った昔の事や、遠い先々の事や。」というように、いついつの事のように思うて居るがそうではない。さしづはあらゆる時を乗り越えて今の今話し掛けるのであり、求める真実の心さえあればその心に入り込んで、神が直接話し掛けるのである。「もう長い年限を乗り越えて時節は十分に治まり、十分な好機を迎えた。もう十分に道は行き着いた。」と皆が思うような今の処にて、「真実の道はこれからであり、これから段々と明らかな理を諭す。しっかりと聞き分けてくれるよう。」と神が諭せば、皆思う事は一つであり、「こんな事とは知らなんだ。」と思うやろう。
人は皆どんな事をして道に尽くしていても、十分に道の為に働いているという自覚があって、これでこそ間違いの無い道であると思う。こうして働いていたら十分であって、もうどっからどういう事も間違いは無いと思ったのはこれまでの道である。それは真実の理の治まるべき時節が来たらない為に、一時の処を神が見許していたからである。これまでの道では十分な神一条の理は治まらなかった。一つでも世界救ける誠の理は積み上げられず、このままではどうもならん。十のものなら十ながらどうもならん事になってしまう。
「これからはこの者を道の親と定めて、この者に運ぶ/\。」と言うても、神が定めねばどうも定まらん。何時になっても曇りの無いのが〈人間心の無い澄み切った神の心で治めるのが〉神やしきであると定めたる神やしきであろう。世界救ける誠の道の無いような心では、とても大丈夫とは言えようまい。
皆よう聞いて置け。もう暫くの処で澄み切った神一条の道にして了うで。日々寄り来る人に神の話を伝えて、「成程、これでこそ真実の神やしきや。」と人が言うなら、天の理としてその理はいつ/\までも残るという。そこで問題となるのは、もうこれ一寸前々よりも伝えてある話であるが、人の心を洗い清める為の刻限の理が人の心には分かり難ないという事であった。 これからは段々と刻限の理を明らかにする。それを聞いて、二度と神の道から離れないようにと心を一つにして、皆で心のつなぎ合いをしてくれるよう。人間の心で定めたような理では、神から離れてしまっているから守り通してやる事は出来ない、どうも続かん。続かんような事では神の道とは言えん、何かの事も頼み置く。
もうこれ真実の神の道を一寸掛かり掛けたら、皆身の処で障るようになる。身に障るからどうでも尋ねるであろう、尋ねれば神の話を諭してやろう。その為の神の道具を、神が一つの理〈道に尽くそうとする真実の心〉を見て定める程に。人間心の定めでは、真実誠の神の道がどうも定まり難くい。何かの事も事前に話して置くと言う、何かの事も頼み置くと言う。





「皆よう聞いて置け。もう暫くの処で澄み切った神一条の道にして了うで。」
本来ならとても頼もしく、有難いお言葉であるはずだとは思うのですが…

自分の好きな事を優先し、神様を心から離してしまっている自分にとって不安でいっぱいです。

以前の記事でもかいたように、何をしていても通れる今、神様の道を忘れてしまい、自分の都合、自分の好きなことを第一に考え、ついでにお道をやっている。その時が来たらその心を末代まで治まってしまうと教えて貰いました。


一刻も早く神様の手となり足となって働かせて頂けるよう、心を定め…


と言ってもボクの弱い人間心は直ぐに神様を離してしまいます。

「人間心の定めでは、真実誠の神の道がどうも定まり難くい。」 しかし、自分の考えでああしようこうしようと考える心は必要ないと父は教えてくれました。
「神様にお喜び頂きたい、神様のお役に立てる人間になりたい」


そうした「神様を実の親と慕い、おすがりする心」が大切だと。




確かに、目の前の事しか分からない、1秒先すらどうなるか分からない人間が、自分の考えでやる事が本当に正しいのか分からない。
良かれと思ってやったことでもそれは本当に神様が受け取って下さる心なのか?
自分だけではその答えは絶対に出てこない。

だったら自分の考えなんか捨てて、「成ってくるのが天の理」のお言葉を信じ、全てを親神様にお任せするべきなんでしょう。


最近(と言うか、今日)リンク集に追加したブログふたつひとつ
実を言うとボクの妹のブログなんですが、「神様におすがりする」姿勢ってこういう事なんだろうなと、恥ずかしながら妹のブログに感服するばかりです。


常におさしづにて神様の思いを求め、神様に全てをお任せして道の為に通る。




このおさしづを読ませて頂き、心が緩んでいた自分に改めて喝を入れられる思いです。