『結構源さん』と言えば天理教信者なら知らない人などほとんど居ない。
どんな出来事があっても「結構、結構」と通られた方だ
決して楽な事ばかりでなく、時には言葉に出来ない苦悩を抱えられた時期も有ったそうです
そんな時でも『結構、結構』との姿勢を決して崩さなかった
深谷先生は後に「斯道会」を結成
この斯道会、結成までには色々な困難が有ったそうですが、教祖から「清らかな所」と光栄なお言葉を頂いたとの事。
そして晩年には河原町大教会初代会長となられ、多くの信者から慕われた。
(間違ってたらすみません)
以前ちょっとした理由で手相の見方なるものを覚えた事が有る
今はもう覚えてない
本の最後に
「手相は変わるもの、例え不幸な手相であったとしても、常に前向きにポジティブに明るい心でいれば必ずや運気は上がり、良い手相になる」
と有った。
天理教の教え通りだ
神様は人間を真からたすける為に一時的な苦労を与えて下さり、どんな苦労や困難も喜んで通らせて頂く事が後に結構なご守護が頂ける心使いであると教えて頂きます。
結構源さんの異名を持つ深谷先生はまさにそれを体現されたお方です。
そういえば一時期俺はこんな事を言っていた
「『結構源さん』に習って、俺はどんな時も『素晴らしい、素晴らしいご守護だ』で通って、『素晴らしい藤太郎さん』と呼ばれるような人間になる!」
とかね。
よく言うよ…
もう今ではそんな事すっかり忘れてしまっていた
しかし、それでも最近は極力グチを言わないよう、人を悪く思わないよう、どんな事も喜びに代えられるように気を付けてはいる。
やりきれてはいないが…
と言うか…
ボクにとってお道の上で唯一努力を続けられそうな事ってこれしか無い!
もう一度『素晴らしい藤太郎さん』を目指してみよう!
なんて事を言ってたら
知人Nが
「じゃあ俺は『ありがたいNさん』になる!」
そしたら今度は知人Yが
「んじゃ俺は『いいねYさん』になる!」
とか言い出した…
パクリかよ。
よかろう、全員で目指そうじゃないか!
時には心から『素晴らしい』とは言えない時もあろう。
例え「嘘」でもいい
口先だけでもいい
そう教えて貰った事がある
身上不足ありてどうもたんのうは出け難くい/\。(中略)今日もよい/\と言えば、たんのう出ける。悪い中にたんのう治められん。道理と言う。成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。
不自由の処たんのうするはたんのう、徳をつむという、うけとるという、これ一つきゝわけにゃならん
と、おさしづで教えて頂いております。
たんのうとは「十分に味わう」
辛いものは辛い
その辛さを、苦しみを十分に味わい、これも神様のご守護と受け取らせて頂く心を神様は受け取って下さいます
心から『素晴らしい』とは言えない時でも、笑って『素晴らしい』と言えるように
不平不満の心は自分を更に不幸にする
天理教では不平不満の心を「不足」と言います。
不足とはその言葉通り『足りない足りない』と言っているようなもの
足りない足りないと言っていれば本当に『足りない』ようになってくる。
愚痴をこぼすのは簡単
弱音を吐くのはとても楽だ
しかし、そこをグっとこらえて『素晴らしい』と言えたらどんなに幸せなことか
意外に口先だけでも『素晴らしい』と言ってると本当に有難いと思えて来る。
教祖のお言葉に
いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで。 |
と、有りますように、例えばどこかへ行こうと思った時に雨が降れば誰でも気分は良くないもの。
しかし、言うまでも無く雨が無ければ人間は生きていけない。
雨が降るのも親神様の結構なご守護である
また、農家の方は雨が降らなければ作物が育たない。
自分が雨で気分が悪くとも、中には今日雨が降って良かったと思ってる人もいるかも知れない。
それを考えて「雨か…いや、これもご守護、それにこの雨を喜んでいる人も居るんだ。素晴らしい雨が頂けたんだ」
そう自分に言い聞かせているうちに、本当に素晴らしいと思えてくる。
何となく嬉しくなり、神様に感謝出来る心になれる。
そんな心でずっと居られたらどんなに神様がお喜び下さることか
それが後にどれだけ結構なご守護を頂ける元となることか
頑張って続けてみようと思います。