そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

神様にお願いをするということ

『はじめに』

このお道は、自分や家族の幸せの為にする信仰ではありません。

信仰した人が信仰した分だけ幸せになるような、そんな生ぬるい教えではないはずです。

 

我々お道の者は、親神様の世界救けの用木としてこの道にお引き寄せいただきました。

自分の都合や幸せなど全部捨てて、お道の為、世界救けの為にお役立ていただき、そうして尽くしただけは、神様が受け取って下さり、末代まで(生まれ変わり、また生まれ変わっても変わることなく)結構にお連れ通りいただける道だと聞かせていただきます。

 

 

 

 

明治二十三年九月三十日 午後九時
刻限御話

さあ/\話掛ける/\、さあ/\話掛ける、どういう事を話掛ける。くどう/\説いてある、古い/\古うに説いてある。年限経つ、年限の中に年限経つ。よう聞いて諭してくれ。一点という、さづけ一点になった。早うから話てある。第一見分け聞き分け。見分け聞き分け無ければ、取次は要らんものや。皆これも/\どれだけの事情、深い中という理無ければ、長いという理無ければならん。遠い近い言わん。よう聞き分け。どんな事をするのも最初で貰うのも事情理があって始まるもの。始まる深い理早うからその理に理が無くてどうもならん。石の上に種を置く、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾うて了う。生えやせん。心から真実蒔いた種は埋ってある。鍬で掘り返やしても、そこで生えんや外で生える。どんな事も濃い、浅い、甘い、これをよう聞き分けてくれ。今日の日はどれだけ身に一つ不足あって、運ぼうにも運ばれん。くどう/\話説けども、それ/\使いようで理が分かる。この人放って置けん。何も聞き分け。そこで話掛け。もう早う石の上に種を置く。もう生えようか/\。蒔こうかと思うて蒔いた種じゃない。石の上に種を蒔いて、もう生えようか/\。一寸難しいようなものや。大抵若い年寄言わん。見分けてそれだけ頼み置くで。すっきり頼み置くで。

 

 

 

以下、おさしづは宝より

 

さあ/\話掛ける/\、さあ/\話掛ける、どういう事を話掛ける。

 

(さあ/\世界が一つに治まる明らか鮮やかな天の道理を話掛ける/\で、さあ/\世界治まる天の道理を話掛けるというても、どういう事を話掛けるかと思うであろう。)

 

くどう/\説いてある、古い/\古うに説いてある。

 

(人が人として末永く生かされる為には、濁り切った胸の掃除の為の苦労艱難の道を、自ら願い出て運ばせて貰わなければならないとくどう/\説いてある処の、古い/\ひながたの道がたった一つの世界治まりの理であると、古うに説いてある処の話をするで。)

 

年限経つ、年限の中に年限経つ。

 

(神の話を速やかに聞き分けて運ぶ事か出来なくても、年限だけは経つのであって、振り返って見れば、をやの思惑に沿えない残念な年限の理だけが経つ、という事に成るのやで。)

 

よう聞いて諭してくれ。

 

(速やかに神の思惑どおりの道を運んで貰いたいという神の話をよう聞いて、皆々が喜んで運ぶ事が出来るよう、きれいに諭してくれと言うのや。)

 

一点という、さづけ一点になった。

 

(何事も神様の思惑どおりに運ばせて頂こうと定まった一点という理により、鮮やかなさづけの理が働くという一点に成った、という事に成るのやで。)

 

早うから話てある。

 

(皆々に鮮やかなさづけの理を働かせて貰いたいから、早うからこのように話してあるのやで。)

 

第一見分け聞き分け。

 

(何事も神様の思惑どおりに運ばせて貰おうと定まった理が、この世治まる第一の理であるという見分け聞き分けが肝心やで。)

 

見分け聞き分け無ければ、取次は要らんものや。

 

(この世治まる第一の理の見分け聞き分けが出来なければ、真実の理を伝える為の取次は要らんものや。)

 

皆これも/\どれだけの事情、深い中という理無ければ、長いという理無ければならん。

 

(皆どれもこれも/\世界治まる為のただ一つの理を諭すのであるが、どれだけの事情を運んでも、何事も神の思惑どおりの道の実現の為に尽くそうとする深い中という理が無ければ、神が心どおりに働く事が出来んのやから、何時何時変わらぬ長い心を以て、をやの思惑どおりの道の実現の為に尽くそうという誠の理が無ければならんのやで。)

 

遠い近い言わん。

 

(真の心に誠が有るなら、速やかに神が受け取って働く事に成るが、出来の良し悪しや、遠い近いは言わんで。)

 

よう聞き分け。

 

(どれだけのものを受け取るというのでは無く、親神の思惑に沿おうとする誠一つを受け取って働くという理をよう聞き分けて貰いたいのや。)

 

どんな事をするのも最初で貰うのも事情理があって始まるもの。

 

(どんな事をするのも先々を見定めて神か働くからであるが、最初で不思議な守護を貰うのも、先々へ行けば必ず神の思惑どおりの誠の心が治まるという事情理があってこそ、それを実現する為の不思議な救け道が始まるものやで。)

 

始まる深い理早うからその理に理が無くてどうもならん。

 

(不思議な神の救け道が始まる為の深い理を治める為には、早うから神の思惑に沿おうとする誠の理が無くてはどうもならんで。)

 

石の上に種を置く、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾うて了う。

 

(己の都合をかえりみる事無く、神の思惑どおりの道の実現の為に尽くす理は、真実誠の種として神が受け取り、大きく育てゝ道の為世界救けの為に用いようとして土の中に埋めてあるようなものであるが、目先の守護の為に尽くそうとする勝手な理は、神が受け取れんから、そのまま石の上に種を置くようなものであって、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾って了うという事に成るのやで。)

 

生えやせん。

(勝手な人間心で運んだ道には、何も生えやせんのや。)

 

心から真実蒔いた種は埋ってある。

 

(心から神を思って真実に蒔いた種は、しかと神か受け取って埋めてあるのや。)

 

鍬で掘り返やしても、そこで生えんや外で生える。

 

(大きく育てて還してやろうとするのやから、鍬で掘り返やしても種は生きて居るのであって、そこで生えんや外で生えると言うのや。)

 

どんな事も濃い、浅い、甘い、これをよう聞き分けてくれ。

 

(どんな事も心通りの守護をするのだが、神に勇み出て貰おうとして、何もかも捨てて道の為世界の為に尽くそうとするような濃い理も、目先の守護の為に尽くす浅い理も、そこまでしなくても十分であろうと思うような甘い理も、皆心どおりの末代の理として定まるのであるが、一旦受け取った理は二度と取り直しの出来ない事に成るのやから、これをよう聞き分けてくれと言うのや。)

 

今日の日はどれだけ身に一つ不足あって、運ぼうにも運ばれん。

 

(今日の日はどれだけ身に一つの不足があっても、皆銘々の心どおりの道を実現する為の裏の道を神か通して居るのやから、人間の思いどおりには運ぼうにも運ばれんのや。)

 

くどう/\話説けども、それ/\使いようで理が分かる。

 

(それだけの事をくどう/\話し説けども、それぞれの濁り心が邪魔をして神の思惑が伝わらないが、どんな事も喜んで受け取ろうとするような、それ/\の澄み切った心の使いようで、速やかに理が分かるように成るのやで。)

 

この人放って置けん。

 

(どんな事も喜んで受け取るなら、この人は放って置けんという事に成るであろう。)

 

何も聞き分け。

 

(どんな守護も満足たんのうして受け取るなら、自由自在に神が働いてやる事が出来るのやから、何も案ずる事は無いという理をよう聞き分けるよう。)

 

そこで話掛け。

 

(そこでどんな事も心一つだと話し掛けるのやで。)

 

もう早う石の上に種を置く。

 

(これまでもう早うから運んできた道は、すっきりと人間思案を捨てて神の思惑どおりに運ぶ事が出来なかったから、神か受け取って土の中に埋めて置く事は出来ず、石の上に種を置くようなものであったやろう。)

 

もう生えようか/\。

 

(それが分からなかったから、もう生えようか/\と思うたであろう。)

 

蒔こうかと思うて蒔いた種じゃない。

 

(どれだけ年限か経っても芽が出て来ないのは、道の為世界救けの為に蒔こうかと思うて蒔いた種じゃないからやで。)

 

石の上に種を蒔いて、もう生えようか/\。

 

(石の上に種を蒔いても芽が出る筈は無く、もう生えようか/\と寂しい思いをするだけや。)

 

一寸難しいようなものや。

 

(それぞれの心一つで結構な花が咲いて実がのると言っても、その為の苦しみの道に満足たんのう治めて運ぶ理は、一寸には難しいようなものや。)

 

大抵若い年寄言わん。

 

(大きな事は出来なくても、澄み切った真実さえ有れば大抵の事は受け取るのであって、未だ若いとも、十分に年の寄った誠の道であるとも言わんのやで。)

 

見分けてそれだけ頼み置くで。

 

(そのような理が人々の心に治まって居るかどうかを見分けて、それだけの理を皆々に伝えてくれるよう頼み置くで。)

 

すっきり頼み置くで。

 

(すっきりと人間心を捨てて、どのような事も神の思惑どおりに運ぶよう頼み置くで。)

 

 

 

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教会や布教所で御用をさせていただいておりますと、よく「神様にお願いをした」といった言葉が聞こえてきます。

 

しかし、その内容に耳を傾けますと

 

 

「今日は団参だから雨が降らないようにお願いした」

「◯◯の高校に行きたいから合格出来るようにお願いした」

 

などといった、自分の都合に添ったお願いばかりであるように思います。

 

 

しかし、雨が降るのも晴れるのも、全て神様のご守護です。

その時、その場所に必要な天気をお恵み下さいます。

 

それなのに、自分の都合だけで雨が降らないようにお願いをする。

 

 

 

高校や大学も、本当にその学校に行くことが自分のためになるのかは人間には分かりません。

「行きたくて頑張って入った学校だけど、その学校に行って人生が狂った。」なんてことだってあり得る訳です。

 

神様が自分の因縁、自分の徳分に合った学校に行かせようと思し召しくださっているのかも知れません。どこにどんな神様の思いが有るかは分からないのです。

 

それなのに自分の希望を最優先して、合格出来るようにお願いをする。

 

(行きたい学校が有ればそこを目指して頑張るのは良いことだと思います。しかし、合格するのも合格しないのも神様のご守護です。自分にとって都合が良いことだけがご守護ではありません。)

 

 

 

冒頭にもお話しました通り、自分のための信仰ではなく、世界救けを目的とした信仰であり、そんな自分の都合由来のお願いを神様は受け取ってはくださいません。

 

 

親神の思惑に沿おうとする誠一つを受け取って働くという理

 

しかし、自分の都合は一切捨てて、神様の思し召しに従って通らせていただきたいという願いは、神様がお喜びくださる誠の心だと思います。

 

 

神様の思し召しに従って通らせていただきたい

世界救けの為に尽くさせていただきたい

教祖ひながたの道を辿り、どのような苦労でもさせていただきたい

 

 

こういった願いこそ、神様がお受け取りくださるお願いだと思います。

 

 

 

 

人が人として末永く生かされる為には、濁り切った胸の掃除の為の苦労艱難の道を、自ら願い出て運ばせて貰わなければならないとくどう/\説いてある処の、古い/\ひながたの道がたった一つの世界治まりの理である

 

全てを神様にお任せし、神様に凭れきって通ると言っても、心の埃が邪魔をしておりますので、口で言うほど容易なことではありません。

 

自分の力だけで出来ることではありません。

 

 

己の都合をかえりみる事無く、神の思惑どおりの道の実現の為に尽くす理は、真実誠の種として神が受け取り、大きく育てゝ道の為世界救けの為に用いようとして土の中に埋めてあるようなものであるが

 

 

そこで自分の都合は一切捨てて「神様の思し召しに従って通らせていただきたい。」「その為にはどのような苦労でもさせていただきたい」と願い出ることによって、山のような残念の理(親神様のお心に背き続けてきた親不孝の理)を払っていただき、胸の掃除をしていただく為の、天然自然順序の理が定まると教えていただきます。

 

 

そうして始まる苦労の中を、たんのうの心で通らせていただくことを神様がお受け取りくださり、世界救けの為に尽くさせていただくことで末代まで結構にお連れ通りいただけるのです。

 

 

目先の守護の為に尽くそうとする勝手な理は、神が受け取れんから、そのまま石の上に種を置くようなものであって、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾って了うという事に成るのやで。

 

石の上に種を蒔いても芽が出る筈は無く、もう生えようか/\と寂しい思いをするだけや。

 

トイレ掃除は徳積みになるらしいからトイレ掃除をする。

身上を救けていただきたいから心定めをする。

家庭で困り事が有るから日参をする。

そういった自分の為に蒔いた種は、どれだけ一生懸命に蒔いていても実ることがありません。

 

 

 

 

 

私がまだ布教所の青年会に在籍していたころ。引率として何度もこどもおぢばがえりに参加させていただいておりました。

 

ある年のこどもおぢばがえりにて、信者さんのお子さんが誘ってくれた友達の子が、怪我をしてしまいました。

足を骨折してしまったと記憶しております。

行きは元気に歩いていたのに、帰りは松葉杖という痛ましいことになり、親御さんにも青年会支部長と副支部長が謝罪に行っておりました。

 

親御さんは快くお許しくださったのですが、所長先生と、当時若先生と呼ばれていた所長先生の長男さんはお怒りでした。

 

 

特に弟は支部長だったため、かなり酷い言われようで、辛い経験をしていたと記憶しております。

 

 

これに参った弟の提案で、翌年のこどもおぢばがえり準備期間中に我々は、夜の9時まで青年会活動をして、9時になったら青年会の支部長、副支部長、(私含む)世話係の数人で神殿トイレ掃除をする心定めをして、トイレ掃除が終わったら神殿へ行き、今年のこどもおぢばがえりでは怪我も病気も事故もなく、皆が無事に帰らせていただき、2日間無事に過ごせるようにとお願いをしておりました。

 

 

そしてこれは弟から聞いた話ですが、そんなお願いをしているのだということを父に話したそうです。

しかし、父から帰ってきた言葉は

「そんなお願いをしたいのならそこら辺の神社かお寺にでもお願いしてこればいい。」

 

という意外なものでした。

天理教を信仰しているのに、そこら辺の神社に行くの!?と驚いたのを覚えています。

 

 

 

今思えばまさに父の言う通りでした。

 

 

我々人間は身上や事情、または粗相など、色々と不都合なことを経験するものです。

 

 

しかし、それは人間の考えで言えば不都合ではありますが、全ては神様が我々を救ける為、また用木として育てる為に見せてくださるものであります。

 

 

参加者から怪我人が出たのも、色んな方々から酷い批判を受けたのも、それを通して我々青年会を育ててくださったのであり、弟はそれによって学んだことも多いと語ります。

 

全ては我が子想う親神様の温かい親心であり、その出来事こそが我々の為だったのです。

 

 

それなのに「そういったことが起こるのは困るから、起きないようにしてください」とお願いする我々の行為は、神様の親心を蹴ってしまっていたようなものでした。

日々救かりたいと願っているくせに、救ける為のお手入れは要らないというのだから笑止千万。

 

 

 

「なってくるのが天の理として全て神様にお任せします。何が起きてもたんのうの心で受け取らせていただきますので、どうかお連れ通りください。」

 

そうお願いをするのだと父は教えてくれました。

 

 

そのお願いによって本当にどんなことが起きるのかは分かりません。もしかしたら怪我人どころの騒ぎでは済まないのかも知れない。中途半端な覚悟で出来ることではありません。

 

 

どんな守護も満足たんのうして受け取るなら、自由自在に神が働いてやる事が出来るのやから、何も案ずる事は無いという理をよう聞き分けるよう。

 

それでもそれが神様なら

我々人間を救けたいばかりと思し召しくださる神様が見せてくださるのなら、何が起きても心配する必要は無い。

全て神様にお任せして、全てを受け入れる。

 

そこに自分の都合は要りません。自分の運命は全て神様に丸投げです。

 

 

神に勇み出て貰おうとして、何もかも捨てて道の為世界の為に尽くそうとするような濃い理も、目先の守護の為に尽くす浅い理も、そこまでしなくても十分であろうと思うような甘い理も、皆心どおりの末代の理として定まるのである

 

そこから始まるどんな苦労の中もたんのうの心で通らせていただき、常に神様の御教えを求め、神様の思し召しに従って通らせていただきたい。

 

そんな願いを親神様がお受け取りくださり、天然自然順序の理が定まって、必要に応じてお手入れを下さり、その中をたんのうの心で通らせていただくことで残念の理が払われ、胸の掃除をしていただき、用木となって世界救けに尽くさせていただけるのではないでしょうか。

そうして世界救けに尽くしただけは、末代までも結構にお連れ通りいただけるのだと思います。

 

逆に、どこまでも自分の都合を優先し、自分の都合の為にお願いをするような信仰をしてしまっていても、自分や家族の幸せの為の信仰をしていても、その運命は心通りに末代まで定まってしまうため、後から取り返すことは出来ません。そんな信仰では勿体ないことになります。

 

 

 

神の話を速やかに聞き分けて運ぶ事か出来なくても、年限だけは経つのであって、振り返って見れば、をやの思惑に沿えない残念な年限の理だけが経つ

 

今まで私はお道の勉強をサボり、このブログもサボっていたために、残念な年限だけを積み重ねてしまっておりました。

今の仮の道ではそれでも通れますが、そんな私のいい加減な信仰も末代まで定まってしまうため、本当に勿体ない時間を過ごしてしまっておりました。

 

 

 

自分の幸せの為の信仰。自分の都合を優先したお願いからは切り替えて、自分の都合や幸せは全部捨てて、世界救けの為に尽くさせていただく道を通らせていただきたいものです。