そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

苦労艱難を自ら求める

おさしづは宝(一部抜粋)

おさしづは宝とは、父が日々、神様の御心を進んで求め、おさしづを研究し、そのおさしづを解釈したものです。
今回はそんな「おさしづは宝」からの一部抜粋となります。

 

 明治三十一年七月十四日 夜
昨朝本席御身上御願い申し上げば、夜深に尋ね出よとの仰せに付願

よう事情聞き分けてくれ。長い間や。年限々々長い年限の間、艱難苦労という道は、毎夜々々話したる。
道の上から見れば、今日の日と言えば、何処からどんな事言おうが、皆世界に力がある。危ない怖わいという処、連れて通りたる。未だ一寸分からん。連れて帰る処も分からん。
(ようこの事情を聞き分けてくれ。たった一つの救けの理である処の、長い間の苦労艱難の道の話をするのやで。
結構な末代の理が治まる為には、真実誠の種を蒔く為の長い年限々々の苦しみの道と、蒔いた種を強く大きく育てる為の長い年限の間の修理肥やしの理が必要であるが、そんな苦しみの道の中を、理に守られながら安心安全に通り抜ける為には、教祖の後を慕って艱難苦労のひながたの道を通り抜けるより他は無いという真実誠の神一条の道の話は、毎夜々々話したるであろう。
道の上から見れば、誰もが皆、長い間神の思惑に沿えなかった親不孝の理〈恩を仇で返し続けた最大最悪の悪因縁〉の掃除をして結構な末代の理を治め、世界の道の台となって尽くす事が第一であるが、今日の日と言えば、誰も皆心次第の道を通して居るのやから、今一時の結構を捨てて道の為・世界の為に尽くそうとする真実の心が定まらなければ、何処からどんな事を言おうが、結構な天の救け道を通してやる事は出来ないのであり、結構な道を連れて通してやる事が出来ないから、皆それなりに世界を無難に通り抜けるだけの力があると言うのや。
道の為・世界の為に尽くそうとする真実の心を受け取って、その心を洗い清めて強く育てる為の、危ない怖わいという処を連れて通りたると言うのやで。
艱難苦労のひながたの道というは、自ら求める真実の心に応じて、心通りに神が連れて通す真実誠の神一条の道であるという事が、未だ一寸には分からんのや。
世界為・道の為に尽くす為には、一人先に立って胸の掃除の為の苦労艱難の道を通り抜け、さしづ通りの道を通り抜けて、長い間に積み重ねた残念の理を改め、結構な末代の理を治めて、受けた恩を立派に返してこそ人にも伝える事が出来るのであるが、そうして神の思惑通りの長い苦しみの道を通り抜けた者を、真実誠の神の道具として、元の屋敷へ連れて帰るという処も分からんであろう。)

(中略)

つとめ場所/\よう聞き分け。何やら分からん。つとめ場所は世の元という。世界今は皆んな耳に聞いて居る。この元小さいものやという。それから順序という。隠れ走り年限という。
(たとえそれが分からなくても、元のつとめ場所/\から世界中へ理を写し、有無を言わさず世界中を救け上げる為の、明らか鮮やかな鏡屋敷の理である事だけは、よう聞き分けなければならんで。
それとても、道の為・世界の為に尽くそうとする真実の心が無ければ、何が何やら分からん話であろう。
元のつとめ場所というは人間を創め出した世の元という。
この道は、濁り切った世界中を救ける為の元の道であるという事を、今は皆んな耳に聞いて知って居るであろう。
この元に成る真実の理は、人が驚くような大層なものでは無く、誰でも心一つで定められるような、澄み切った心の理の小さいものやと言うてある。
濁り切った人間思案を捨て切って道の為・世界の為に尽くそうとする真実さえ定まれば、真実誠の神一条の道が始まるのであり、定まった心を育てる為の天然自然順序の理が定まるというのや。
天然自然の順序の道は、濁り切った胸の掃除をして明らか鮮やかな天理を治め、結構な末代の理を治めて世界導く道の台と成る為に、人に笑われそしられながら、隠れ走りをする年限の道と言うのやで。)

(中略)

三十年以前あちらもこちらも草だらけ、破損ばかり。建家数えてみよ。皆仮家建ちに建て替え。今日は何処にも仮家々々、ほんに成程と言う。国々それ/\にも出来来たる。年限経つ経たず順序草生えの中からの理を聞き分けてくれ。口説き話という。杖柱という。一年二年三年という。
(三十年以前の道〈飯降伊蔵と眞之亮が出て来る前〉は、あちらもこちらも草だらけ、破損ばかりや。
三十年の苦労艱難の道によって出来て来た建屋〈今日の立派な天理教会〉を数えてみよ。
なれど、三十年の苦労艱難の道によってこれだけの道が出来た事を思えば、広くて大きな世界救けの本道を建設する為には、今は皆不自由第一の仮屋建ちに建て替えるのが本当であろう。
今日の道は未だ仮の道であって、何処にも仮屋々々を立てて尽くすのが誠の理であり、広くて大きな世界救けの道を完成させる為に不自由第一の仮屋の理で尽くし、人に笑われそしられながら満足たんのう治めてこそ真の誠、誠であればこそ、日々明らか鮮やかな理が働いて多くの者が寄り集まり、ほんに成程という事に成るのや。
そうして運んだなら、国々やそれ/\の所にも結構な道が出来来たると言うのや。
年限の理が経つ経たずの中から、苦労艱難の天然自然の順序の道を通り、草生えの中から立ち上がって来たという三十年の理をよう聞き分けてくれ。
それを伝えたい為の口説き話という。そうして真実尽くしてこそ、神の杖柱に成ると言うのや。
真実に聞き分けて運ぶなら、その中の真の苦労は、ただの一年二年三年というのやで。
真の心に誠さえ有れば、不自由しようと思っても不自由は出来やせんと言うて有るわい。)

誠の/\連れて通りた。一人順序の理があるわい。差し詰まりた日あるわい/\。あった時にはどうするか。古い事は差し措いて、人間という心蔓りて/\、それに付き添い、よう/\連れて通りた心察してみよ。順序になるかならんか。
(たった三年の苦労艱難の道で治まると言えば皆不思議に思うであろうが、五十年にも渡る真実誠の神一条の道/\を、連れて通りた教祖ひながたの道が有るであろう。
人間の力ではとても通り抜ける事の出来ない五十年の胸の掃除の道を、教祖の後を慕おうとする子供に写してやる為に、教祖が一人先に立って通り抜けたという順序の理が有るわい
誰も皆教祖の後を慕おうとしないから、扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうかと差し詰まりた日があるわい/\。
もうこれではどうにも成らんから、元の泥海に還さなければ成らんというような事があった時にはどうするか。
誰もが皆人として生き永らえる為の大事な古い事〈ひながたの道〉は差し措いて、勝手な人間の理ばかりを諭すから、一寸先も見えない人間心という暗がりの心がはびかりて/\しまい、止む無くそれに合わせて神が付き添いをし、よう/\の思いで連れて通りて来たという残念な心を察してみよ。
こんな事で、真実誠の順序の道に成るか成らんかよう思案してみよ。)

(中略)

一日々々見え来る/\。楽しんで居る/\。楽しみの元というは小さいもの。もう年が明けたらや、さあ年が明いたらやと言うて、十年連れて通りたる。
(世界中の兄弟に理を写して頂く為に、一人先に立ってひながた通りの道を運ぼうとするなら、一日々々と鮮やかな理の働きが見えて来る/\のや。
速やかに聞き分けて神の思惑通りの道を運んでこそ真実誠の道の台と成るのであって、先々は結構な末代の道を楽しんで居る/\という事に成るのやで。
先々の楽しみの理の元というは、誰もが驚くような大きなものでは無く、人に笑われるような小さいものや。
澄み切った真実を定めて尽くしたとしても、結構な先々の理が見えるのはもう少し先で
あり、年限の理が明けたらや、さあ年が明いたら神が働くのやと言うて、十年の苦しみの道を連れて通りたるのや。)

(中略)

本席の事情で御座りますか
さあ/\中には一つの理も分かる。又中には一つの理もあろ。一段二段三段、一二三、これまでちょい/\話したる。一二三話し掛けた/\。
(さあ/\多くの中には一つの理〈この道は世界救けの為の真実誠の神一条の道であり、世界の為に尽くすより他に結構という理は無いという一つの理〉の働きも分かる者も有る。又理を聞き分けて長い年限尽くす中には、何もかも捨てて道の為・世界の為に尽くし切った一つの理もあろ。一段二段三段の道であり、一二三の順序の道であると、これまでちょい/\話したる。
一は神を信じて世界の為に尽くそうとする誠の心の定まりの理であり、二は定まった誠の心を育てる為の天然自然順序の理の定まりの理であり、三はその中を満足たんのうして通り抜けてこそ結構な先々の理が治まって世界救けの為の真実誠の道の台と成って尽くす事が出来るという事であり、それだけの事を一二三の理を以て話し掛けた/\のや。)

 

 

道の為・世界の為に尽くそうとする真実の心を受け取って、その心を洗い清めて強く育てる為の、危ない怖わいという処を連れて通りたると言うのやで。
艱難苦労のひながたの道というは、自ら求める真実の心に応じて、心通りに神が連れて通す真実誠の神一条の道である

この部分を読んだ時「苦労を自ら求めることで神様にお連れ通り頂けるのだ。」そう思い、家の神様の部屋に座り、お願いをしました。

「どのような苦労も、たんのうの心で通れるよう、ささやかながら努力をさせて頂きます。どうかお連れ通り下さい。」

その矢先、布教所祭典の帰りの交通事故でした。

信号に全く気が付かずに交差点に進入してしまい、相手の車に衝突してしまいました。

相手の方は軽い怪我ではありますが、全治一週間でした。

 

100%こちらの過失なので、それを神様のご守護とは自分では言いにくいところでは有りますが、父は、因縁どおりであればもっと大きな事故をしていたかもしれない。それを形ばかりの事故で済ませて頂けたのだと教えてくれました。

 

 

今、世界ではコロナウイルスが世界中で蔓延しています。父は、これからもっと恐ろしい事が起きてくる。コロナウイルスはまだそよ風のようなものだと言いました。

 もうこれからは、自分の為の信仰や、人間の理を第一に立てるような信仰では通れなくなります。

人間心を捨てて、無条件で神様に従うようでなければ、お連れ通り頂く事が出来なくなってしまいます。

 

 そう聞くと、自分にはとても無理だと思ってしまう方もいらっしゃるかと思います。しかし、何も「何事も成し遂げ、何者にも屈しない」といった、壮大かつ強靭な精神力は必要無いように思います。

 

 この元に成る真実の理は、人が驚くような大層なものでは無く、誰でも心一つで定められるような、澄み切った心の理の小さいものやと言うてある。

 人間にそこまでの力が無いことは神様もよく分かって下さっているとお聞きしたことがあります。

おさしづを信じ、おさしづをよく心におさめ、何事もおさしづに従って通らせて頂きたい。その心を神様がお受け取り下さるように思います。

 

七分三分の理が有ります。

 人間の考えや知恵、力で「これだけの事をしよう。」としても、それは神様ではなく、やはり人間の考えです。例え七分の事をしても、神様は三分にしか受け取って下さいません。

神様のお心を求め、神様に凭れ、神様に従って通らせて頂こう。そこには余分な人間考えは有りません。そのたった三分の心を神様が七分に受け取って頂けると教えて頂きます。

 

また、どのような艱難苦労の中もたんのうの心を神様は受け取って下さいます。

布教所住み込み時代。住み込みの者(以下、入り込み者)が大変苦しんでいた時期が、数年有りました。
先代所長さん父娘の、とてもお道とは言えない、自分勝手で滅茶苦茶な振る舞いに悩まされておりました。ボクも毎日が嫌で嫌で仕方が有りませんでした。しかし、そんなある時に気がついたのです。

教祖ひながたの苦労の道を通させて頂かねばならないとは思うが、誰も苦労は嫌だ。しかし、何も自分の考えで苦労しようとせずとも、今の現状は神様が我々に与えて下さった、ささやかながらも苦労であり、たったこれだけの事をたんのうの心で通れば、どれだけ神様が受け取ってくださることか分からない。そう思ったら嬉しくて嬉しくて仕方が有りませんでした。

 今までは所長父娘しか目に映らなかったのが、それからは神様が目に映るようでした。

 他の入り込み者に「俺は今の状況を喜んでいる」というと、半分冗談で「Mなんじゃない?」などと言われましたが、Mでは有りません。ボクだって辛いという感情は有ります。でもこれが神様が与えて下さった苦労であるなら、その苦しみをよく味わい満足するのがたんのうだと教えて頂きます。

例え辛くても、上っ面だけでも口先だけでも「ああ、有り難い。」と言っていると、本当に有難く思えてくるのです。

 

神様のお心を求め、神様に凭れ、どのような中もたんのうの心で通させて頂く。たったそれだけで神様に受け取って頂けるように思います。

 

一は神を信じて世界の為に尽くそうとする誠の心の定まりの理であり、二は定まった誠の心を育てる為の天然自然順序の理の定まりの理であり、三はその中を満足たんのうして通り抜けてこそ結構な先々の理が治まって世界救けの為の真実誠の道の台と成って尽くす事が出来るという事であり、それだけの事を一二三の理を以て話し掛けた/\のや

そうして通らせて頂こうと心を定めれば、神様が我々の心を育ててくださいます。時には大変な苦労も有るかと思います。その中を満足たんのうして通らせて頂くことで、世界救けの為にお役立て頂けるようになる。そうして末代まで結構な理が治まると教えて頂きます。

 

真実に聞き分けて運ぶなら、その中の真の苦労は、ただの一年二年三年というのやで。
真の心に誠さえ有れば、不自由しようと思っても不自由は出来やせんと言うて有るわい

そうして通らせて頂けば、その中の苦労は三年だけだと教えて頂きます。

 

 

 

今回、どのような苦労もさせて頂きたいとお願いさせて頂きましたが、それがこの事故だけで終わりなのか、まだまだこれから大変な事が起きてくるのか。それは分かりません。

それでも、その中をたんのうの心を忘れず通れるように、努力させて頂きたいと思います。

 

 

おさしづは宝ダウンロード

おさしづは宝をダウンロード出来るようになりました。

 

おさしづは宝

 

おさしづから教えて頂くことは、常に時代に合わせて変化しているとお聞きします。
神様の大掃除がいよいよ始まるにあたり、これからの時代に合わせたおさしづの解釈が進められています。
まだ未完成ですが、一部だけでもダウンロード出来るようにしました。

世界どんな事出来ても怖い道は無い

今回のこの記事は、平成29年(2017年)に書き始め、完成させる事も出来ないまま、下書き保存だけしていたものです。
当時の状況と心境を思い出しながら、今回改めて完成させました。

 

2年ぶりの投稿となってしまいました。

前回の記事が2015年の11月だったので、2年前の記事を書いた時点から現在までの状況の変化を簡潔にまとめます

 

入院後の体調不良は直に良くなり、引き続き弁当屋でアルバイトをさせて頂きながら仕事探し。

その後、2月には地元の町工場で正社員として雇って頂く事が決まり、現在もそこで順調に働かせて頂いております。

繊維製造業で、出来上がった布生地の検反(検品作業)を主に任せて頂いてます。

 

給料は決して少なくは無いのですが、何せ働き始めたのが39歳

それまでは布教所の住み込みだったため、貯蓄はほぼゼロからのスタート。

 

持病の治療費なども有り、将来的な事を考えるとあまり胡座をかいてもいられない気はする。

贅沢するだけの金は要らないが、もう少し将来に余裕持てるだけの副収入が有った方が良いのか…

簡単な副業的な事もやっておいた方が良いのではないか

例えば別のブログでGoogleアドセンスをやるとか

 簡単に説明すると

Googleアドセンスとは、Googleから用意された広告を、自分のブログやサイトに貼り付ける事で、成果に応じて収入を得られる事。

 

 役立つ情報や、人様に楽しんで貰えるブログを書く事で収入を得られれば決して悪い話ではない気がする。

 

やるだけやってみて駄目だったらそれまでの話ではないか

 

そんな風に考えて居た時に、youtubeで、ある動画を目にしました。

内容は、少子高齢化など、 日本の未来への不安など。

ボクは(当時)42歳(現在44歳)なのですが、このまま高齢者となった時の生活は大丈夫なのか

そんな頃には働く若者も激減しているでしょう。年金なども頼りにしていても大丈夫なのか。

 

これはいよいよ副業やっておくべきではないかと、副業用のブログも作り、Googleアドセンスの申請準備も出来たところで、一旦おさしづにお伺いをしてみようと、おさしづを開いたところ、

 

年限経ったものなら何ぼう節が有っても歪んだものでもこたえる。(中略)言葉一つがようぼくの力なら、どうする事も、戻す事も出来ん。皆んなそれに凭れ/\て若木が育つ。世界に何ぼ育つとも分からん。そうしたら世界どんな事出来ても怖わい道は無い。これから急いて/\何処まで急くやら分からん。(中略)あちらの国からようぼく、こちらの国からもようぼく、高い山にも山の背腹にも谷底にもある、低い所から引き出すには引き出し難くい。高い所から引き出せば早い/\。高い所のようぼくはする/\と下りて来る。どんなようぼく寄せてどんな仕事するやら分からん。小さい心はやめてくれ。疑ぐり/\の心はやめてくれ。ほしい、をしい、うらみ、そねみの心はやめてくれ。

このおさしづが有りました。 

 

少子高齢化や、将来の年金などの不安から始めようとしていたことですが

 

 世界どんな事出来ても怖わい道は無い。

 それは神様を信じる事が出来ず、神様に凭れる事が出来ず、先案じという人間心からの考えでした。

どれだけ人間の知恵で上手いことをやろうとも、神様に受け取って頂くことが出来なければ何の意味も無いこと。

神様に凭れて、神様の思いに従って通らせて頂ければ、何も心配する必要がない。(それがなかなか出来ないのですが)そのように教えて頂いたように思います。

 

また

 

 ほしい、をしい、うらみ、そねみの心はやめてくれ。

 この時、上っ面では「将来的な事を考え…」「贅沢するだけの金は要らないが…」

このように思ってはいたのですが、ふと、自分の心によく目を当ててみると、それだけでは有りませんでした。

小さい頃から犬が好きで、大人になったら犬を飼うのが子供の頃の夢の一つでした。

現在は布教所の住み込みから出て以来、実家に住まわせて頂いているのですが、いつまでも実家の世話になっているのもどうかとの思いから、近々アパートで一人暮らしを始めようと思っていました。(病気などの理由から結婚はしないつもりでいる)

折角なら「ペット可」のアパートに引っ越して、犬を飼いたい。大型の水槽で熱帯魚も飼いたい。そんな風に思っていました。

月々の家賃に、新しい家具、家電、そして犬の養育費と水槽の維持費。時には美味しい物を食べたりもしたい。それだけの生活をする為には…

そんな心が根底に有りました。

 

もっと言えば、一人暮らしをしたい本当の理由も、実家住まいでは父も居て(母は出直しています。)多少は気を使う事も有るし、あまり好き勝手も出来ない。一人暮らしで自由に好き勝手が出来る生活がしたい。

午後3時から仕事なので、仕事に行く前に家の神様のお下げをさせて頂くのですが、アパートで一人暮らしならそれもしなくても済む。などといった、なんとも恥ずかしく、情けない心が有りました。

 

 そんな、ほしい、をしいの心で通っていては、ただでさえお道の心が離れてしまっているのに、尚更お道が通りにくくなっていたのではかと思います。

 

そんな事を教えて頂いたように思います。

 

必要以上のものは求めなければ、今の収入でも十分生活はしていける。毎日神様の御用をさせて頂けるのも本来なら大変有り難いことです。

それを忘れて、楽で好き勝手な暮らしを求めてしまっていました。

 

本当にお道の心を離してしまい、人間心を許してしまうと、こんなにも恐ろしいという事を、おさしづにお伺いさせて頂くことで気づかせて頂けたように思います。

  

 

不足でするか喜んでするか

教祖のお言葉に

人間は嫌なものを見ると、すぐに嫌やなあと思い、嫌な事を聞くと、すぐに嫌やなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。嫌なものを見、嫌なものを見せられた時、嫌やなあと思う前に、ああ見えて良かった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。嫌な事を聞いた時も同じ事、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由(じゅうよう)の守護が頂ける道になるのやで。

(省略)

 

と、お聞かせ頂きます。

 

先日買い物に行った時のこと。


店のトイレをお借りしようとトイレに入ると…汚い話で申し訳ないのですが、小便器の中に噛んだガムが捨てられていました。

 

こういうものを見た時に大抵は「嫌だな」「汚いな」「誰がこんなことをしたんだ」と思ってしまうと思います。しかし、この心こそが、教祖が教えて下さるいけない心なのでしょう。

 

そのガムを見た瞬間、不足してしまいそうになったのですが、すぐに「不足してはいけない」と心を切り替え、これは神様がボクに見せて下さったものなのだと思い、上っ面ながらも喜んで拾わせて頂き、洗ってゴミ箱に捨てさせて頂きました。
(この時、そのまま捨ててしまいましたが、トイレットペーパーなどに包んでから捨てるべきであったと後悔しました。極力後々の人が困らないよう、配慮足りていませんでした。)

 

その時にふと思ったのが、もしもこれを嫌だなと思ったまま、見て見ぬふりをしていたらどうなっていたのか。

 

自分が不足をすれば不足した分だけ徳を減らし、ガムを捨てた人も人を不足させたことになり、余計な因縁を積んでしまいます。

 

また、自分が拾わなければ、ほぼ間違いなく従業員の方が拾うことになっていたでしょうし、お道を聞いている方でなければ、ほぼ間違いなく不足の心でやっていたと思われます。

他のお客さんがそれを見ればまた不足の心を使っていたかも知れません。

 

そうして考えると、上っ面ながらも捨てた人に感謝をして、喜んでさせて頂くことで、ガムを捨てた人は、人を喜ばせたことになり、他のお客さんや従業員の方も余計な不足をしないで済んだことになる。

 

それだけで些細ながらもお救けさせて頂けたことになる。

 

そう考えると、今まで嫌なものを見て嫌だなと思ってきたこと、嫌なことを聞いて嫌だなと思ってきたことがどれだけ勿体無い心遣いだったのか。

 

 

 

教祖伝逸話篇にて、教祖が監獄所へご苦労くだされた時、同じく拘禁された鴻田忠三郎先生は警察から便所掃除を命じられました。

掃除を終えて、教祖の御前にもどると 

「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ。」
と、教祖に尋ねられ、鴻田先生は

「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます。」

とお答えされました。

教祖は

「そうそう、どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで。」
と、お諭し下されたとお聞かせ頂きます。

 

 そう思うとボクは今までどれだけの不足を天に届けてしまっていたのか。

 本当に恐ろしくもあり、勿体なくもあります。

 

ボクは不足を探すのが得意技で、喜びを探すのが本当に下手くそなんです。

日常の生活や仕事などからも喜びを見つけ、人にも喜んで貰えるような心がけが大切だと、改めて思わせて頂きました。

 

夜中に突然の歯痛

何日か前、夜12時半。

 

寝ていたら何やら寝苦しい。

 

目が覚めてから寝苦しさの原因が分かりました。

何故かとてつもなく歯が痛い。

 

下顎の右側犬歯から奥歯にかけてズキズキ痛む。

虫歯とかそういう類の局部的な痛さではなく、歯茎なのか、歯なのか

 

 

ただただ痛い。

 

 

とりあえず痛み止めの薬飲んで寝直す事に

まだこの時点では頭が半寝半起きのボーッとしてた状態なんで、何故か知らないけど念の為歯を磨きに…(今思うとそういう問題じゃないw)

 

 

段々目が覚めてきて、尋常じゃない痛さに気がついた。

 

痛くて痛くてどうしようもなく

とりあえず部屋に戻り、ベッド横の座椅子に座り、ベッドに突っ伏して痛みを堪えていました。

 

 

これも親神様のご守護、この痛みを十分にたんのうさせて頂こう。

そう思い、暫く痛みに耐えながら突っ伏していた。

 

 

しかし、あまりにも痛みが尋常じゃないので、これはもしかしたら神様がボクに何かを教えようとして下さっているのかも知れない。

 

そう思ってパソコンからおさしづを開くも、とにかく痛くて読む余裕も無い。

 

 

 

3.4分経って多少痛みが和らいできたので、痛みにもがきながらも、ふと目に止まったおさしづを読ませて頂いた。

 

 

それがこちらのおさしづです。

 

 

明治二十四年六月二十一日
神道本局員来会事情に付願

さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情というは、今一時始め事情であろうまい。前前以て諭し、何も知らん/\行てこう、心という理がどうもならん。出て来ても思うようなろまい。たすけ一条/\と言うても幾重の理がある。救け救からん事情ある。救けたい救ける理が無い。扶け合い、救ける理が無い、救ける理が無いという。互い/\救け無いと前々より諭してある。どんな事情も諭してある。皆心という理を治め来る。救ける理の元を聞き分け。救ける元は何から出た。長らく事情これ事情から出た事情、ならんたすけ遁られん知りつゝ事情ある。迫られて事情、これは互い/\一つの理どうもならん。救からん事情救ける義理が無い。いつ/\残りゃせん。幾重の理を替え取りばかり、事情治まって治まるまい。どれだけしても治まらん。一つ治まれば二つ三つ。いつまで切りが無い。それ/\互い/\義務は十分の上の十分尽してある。辛い話もせにゃならん。どんな事も言わにゃならん。辛いならん事情を他に運ばにゃ、運べば幾重の中衰えの事情出来る。一人一戸の事情を以て、談示運ばにゃならん。

 

そして、父によるこのおさしづの解釈がこちら

 

さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情というはこれまで何度も諭している事であって、今一時に始めて諭すような事情ではあろうまい。前々からさしづの理を以って諭して居るのであるが、分かっても分からんでも速やかに実践をしようという真実の心が定められないと言うのであり、真実の心が定まらないから神が連れて通す事が出来ないのであって、何も知らん/\という処であり、行てこう〈何も考えないで神のさしづ通りに治めようとしてこそ、難しい理もどんな事も治まる〉という理が分からないという処であって、人間心という理がどうもならんと言うのや。どんな事情が出て来ても真実の救けの理であるから満足たんのうをして受け取らなければ成らないのであり、成らん中のたんのうの理は世界に写す道の台と成るのであるから先々の結構な理が治まるのであって、信実誠の神の道であるなら、人間の思うようには成ろうまいと言うのや。


たすけ一条/\と言っても理の働きによって人を救けるのであり、それぞれの通る日々の道によって幾重の理の働きがあるのや。救けようとしても救からん事情もある。どれだけ救けたいと思っても通った道が無ければそれを人に写す事が出来ないのは当然であって、救けるだけの理が無いと言うのや。


己をかえりみずに道に尽くす理によってこれまでの残念の理が晴れるのであって、やがて心が澄まされて真実の理を心に治める事が出来るのであり、そうして実際の苦しみの道の中から心に治めた誠の理によって人を救けてこそ扶け合いというのであって、そのような道に尽くした理が無ければ救ける理が無いと言うのであり、救け人に免じて救けてやるだけの理が無いと言うて居るのや。


己を捨てて世界の為、道の為に尽くした事情が無ければ互い/\の救け合いの理が無いと前々より諭してある。どんな事情も皆諭してある。何もかも投げ出して道に尽くした誠の心が有ればこそ人の心に写るのであって、皆心という理を治め来るのやで。


救ける理の元というものを聞き分けて貰いたい。成らん中を救ける理の元は何から出たと思うか。この道の始めは寄り来る者が一人も無いような苦労艱難の道であったが、長らくの難儀不自由の道の事情に堪えて、これより他に世界救ける事情は無いと真実定めて通り抜けた年限の理〈教祖ひながた道〉から出た事情であって、成らん中を救ける理の元というは、一人先に立って苦労艱難の道を通り抜けるひながたの道より他に人を救ける理は無いと知りつゝ運んだ事情であると言うのや。


どれだけ諭しても神の話を聞き分けられず、たった一つのひながたの道を治められないからどうでも胸の掃除をしてやらなければ成らない日が来るのであって、迫られての事情に掛かる日が来るのであり、やがて来る怖い恐ろしい道によって身に沁みて知らさなければならないと言うて居るのであるが、これは互い/\に世界の為に尽くさなければならないという一つの理が治まらないからであって、どうもならんと言うのや。世界の為に尽くした理が無いような事であるからから、救からん事情の中を救けてやるだけの義理が無いと言うのや。世界の為に尽くした真実誠の理が無いからいつ/\末代までも続かないのであって、残念なものは残りゃせんと言うのや。幾重の理を諭しても人間の通り易いように理を替えてしまうのであって、取り損ないばかりをしていては何も治まらないのであり、真実誠の道の事情は治まって治まるまい。そんな事であるからどれだけ年限尽くしても治まらんのや。「そうであるなら心を改めさせて貰おう。もうこれからは神様一筋に治めさせて貰おう。」と一つの真実の心が治まれば、二つ三つと理が働くのや。いつまで諭してもそれが分からんのであって、切りが無いと言うのや。


それ/\が道に引き寄せられたいんねんによる処の、互い/\扶け合いの理を以って世界の為に尽くさなければならないという義務に応えて運んだ道〈一つの道〉は、十分の上の十分の理として受け取るのであって、末代の道の為にも十分に尽してあると言うのや。どうでもそれを知らしたいから辛い話もせにゃならんのであり、どんな言い難い事も言わにゃならんのや。辛い中の思うように成らん事情を運ばなければ人は救けられないのであり、多くの兄弟の為に自分が先に立って運ぶより他に天が受け取る誠の道は無いと心定めて運ばにゃ結構な理は治まらないのであって、運べば幾重の理が働いてその中を守り通すのであり、聞き分けが出来なければ先々の事情は治まらないのであって衰え〈おとろえ〉の事情が出来ると言うのや。先ず自分一人から、我が家一戸からという事情を以って始め掛ける誠の道であり、速やかに教え通りの道を通って真実の理を心に治めなければならないのであって、治めた真実の理を多くの者に写すべく、談示の理を運ばにゃならんと言うて居るのや。

 

 

 

 

 

分かっても分からんでも速やかに実践をしようという真実の心が定められないと言うのであり、真実の心が定まらないから神が連れて通す事が出来ないのであって…人間心という理がどうもならんと言うのや。

成ってくるのが天の理
この先どんな事が起ころうと、全て神様にお任せして、どんな事が起きてもたんのうの心で通らせて頂く。

理屈では分かっていました。
だからこそ、布教所住み込み時代は辛いからという理由で出たいと思った事など一度も無いし、どんな辛くても堪えてきました。

理屈としては分かっていたのですが…

9月に急病で入院して以来、未だ体調がすぐれないままで、働く事も出来ない状況。治療費もバカに出来ず、このままでどうすればいいのか。

体も一向に良くなる気配がない、このまま良くならなかったらどうしよう。

最近はそんな事ばかり考えていました。

 

 
どんな事情が出て来ても真実の救けの理であるから満足たんのうをして受け取らなければ成らないのであり、成らん中のたんのうの理は世界に写す道の台と成るのであるから先々の結構な理が治まるのであって

想像を絶する苦労の道を、世界だすけの為にお通り下さった教祖のひながたの道を教えて頂きながら


上っ面では「成ってくるのが天の理」だと思っていながら
現実では先案じしてしまっていたのです。

 


 己を捨てて世界の為、道の為に尽くした事情が無ければ互い/\の救け合いの理が無いと前々より諭してある。どんな事情も皆諭してある。何もかも投げ出して道に尽くした誠の心が有ればこそ人の心に写るのであって、皆心という理を治め来るのやで。

ボクは趣味が多く、普段からついつい自分の好きな事を優先してしまいます。

己を捨てて、今、お道の為にさせて頂ける事。

普段より神様の教えに触れ、神様の思いを求めて、おさしづに従って通らせて頂く努力を、毎日少しずつでもさせて頂く。

この、思うようにいかない状況の中でも心を倒さず、お道の御用をさせて頂いてこそ神様に受け取って頂けるのではないか、世界だすけの為に少しでもお役立て頂けるのではないかと思います。

 

 

このおさしづを読ませて頂き、自分を省みて、如何に自分が人間心に負けていたかを思い知らされました。

 

読み終わって頃には痛みはすっかり無くなっていました。

 

 

 

前生因縁のさんげ

先月の23日

 
急病で病院に運ばれました。
 
 
今まで入り込み者として長年お世話になっていた布教所から社会へと出た。
布教所の信者を辞めた訳では無く、住み込みを辞めたのです。
 
兄の知人からアルバイトの誘いを頂き、就活しながらのアルバイトが始まった訳だが、アルバイト4日目に朝からどことなく体調が悪く、まあ半日くらいなんとかなるだろうと判断。
 
しかし、段々具合は悪くなる
それでも後2時間くらいならどうにかなるだろう、後1時間程度ならと少々無理をしていた。
 
 
その無理が駄目でした。
 
 
 
どうにか仕事を終え、帰路につく頃にはもうフラフラ。家に付いたら昼も食べずに直ぐに床に入る。
 
そこから少しずつ意識も朦朧してきて、夜になって家族も帰って来たらしく、何やらボクの事で周りがザワザワし始め、気がついたら病院のベッドの上でした。
 
 
道中父親に背負われていた事や、車椅子に乗ってた事
周りで知らない人が騒いでいることとか…(今思うと医師と看護師の方々)
 
どうにか記憶に残ってるけど、ほとんど意識ない状態だった。
 
 
 
医者の診断は急性副腎不全。



救急で運ばれた時、延命治療になったらどうするかとまで聞かれたそうです。
本当に命が危なかった。
 
 
実はその数日前
父から「前生に教祖を恨んだ因縁が有る」と言われました。
 
 
 
世界救けの道の為の教祖のあるご決断が、前生のボクには不都合で、教祖を恨んで通ってしまっていた。
 
恨むには相応の理由があれど、世界救けの為の教祖の尊い決断が有ってこそ今の道が有るのであり、それを恨んでしまった因縁は何がなんでもお詫びしなければならない。
 
 
 
そう聞きました。
 
 
前生の因縁と言われましても、当然記憶など有りませんので、さっぱり分かりません。
 
しかし、何よりも神様を立てきっている
どんな事もおさしづに従って通っている父の言うことなので、きっとそうなのだろう。
 
 
心を落ち着けて想像してみました。
一体教祖にどれほど深く、尊い思いが有ってのご決断だったのか
それを恨んでしまった事がどれほど愚かだったのか
分からないながらもお詫びをさせて頂きました。
 
急病で倒れたのはその数日後の事でした。
 


そうして夜、病院に運ばれ、どうにか一命をとりとめた次の日の朝、父がふと目にしたのが以下のおさしづだったそうです
 
明治二十三年九月二十三日
小梶与兵衞三十六才身上願

さあ/\第一身上の事情尋ねる。長らえてどうも一時身上不足なりて一時という。大抵話の理も聞かしてある。身の処どういうものと思う。長らえて信心すれども、身の処どういうものと思う。思うは一つの理であろう。よう聞き分け。親が子供憎い親はあろうまい。救からんやならんが一つの理や。それに身上ならんというは、よう聞き分け。めん/\の身上程大事なものあろまい。大事の身上不足なるは、いんねん一つの理。いんねんの理いと言うて分かろまい。分からんからたんのう一つの理が第一。世上の理を見てたんのうと心定めるなら、前生一つのさんげとなる。よく聞き取りて諭してくれ。

 
 
 親が子供憎い親はあろうまい。救からんやならんが一つの理や。
 このお道では、苦しめよう困らせようとの神様では無いとお聞かせ頂きます。むしろ世界一列を救けたいばかりと思し召し下さる我々人間の親であると聞かせて頂きます。
しかし、人間には前生の因縁や、幾重にも積み重ねてきてしまった残念の理が有ります。
それを不問とする訳にはいかず、必ず果たさなければならないものとお教え下さいます。
 
いんねんの理いと言うて分かろまい。分からんからたんのう一つの理が第一。
前生因縁と言っても誰にも記憶など有りませんし、自分の力で因縁を果たす事など誰にも出来ません。
どんな事も成ってくるのが天の理とし、神様に凭れ、どれほど辛い事も満足たんのうの心で通らせて頂く事が前生因縁のさんげと聞かせて頂きます。
 
 
父から前生因縁の話を聞き、分からないながらもさせて頂いたお詫びを神様が受け取って下さったようです。
 
 
そうして身上の障りを頂き、それをたんのうの心で受け取らせて頂く事で、前生の因縁のさんげをさせて頂けるのです。
 
 
世上の理を見てたんのう
世間の方々はこれが親神様の有難いご守護だと知る事は出来ないでしょう。
 
また、天理教を信仰していても、もし自分がおさしづに触れる機会が無かったらどうなっていたか。
人間の理を立てて、どうすれば良くなるかと人に伺い、あの理この理と案じてばかり、余計に神様の思し召しから離れてしまっていたのでしょう。
 
残念の理も果たさず、神様のご守護をたんのうの心で受け取れず、たすかる事ばかり願っていては人として末永く生かされる為の最低条件さえ捨ててしまうと教えて頂きます。
 
 
おさしづに触れ、形だけながらも神様の思いを求める事の大切さを知る事が出来たお陰でそれが神様のご守護であると知る事が出来ました。
 
 
たんのうとは今の苦しみを十分に味わい、満足堪能させて頂く事だと教えて頂きます。
 
ボクがしっかりたんのうの心で受け取らせて頂く事が出来たかどうか
自分では分かりません。
 
自分では今の苦しみをよく味わい、これから先、良くなろうと悪くなろうと、この身を全て神様にお任せしてたんのうの心で受け取らせて頂いたつもりでは居ます。
 
もしかしたら心のどこかで喜べない心を使ってしまっていたかも知れません。
 
 
それでも、こうして身上の障りによって前生因縁のさんげをさせて頂けるという事、それを分からせて頂けた事は本当に有難い事なんだと実感させて頂きました。
 
 
 
 

毎日少しずつ

最近はすっかりお道の心が抜けてしまっていました

おさしづの勉強をさせて頂きたい
しかし、ついつい自分の好くことに走ってしまい、お道から逃げまくっていました。

完全に抜けた今、またかつてのように毎日おさしづを読もうとする気力を取り戻すのはかなり難しいでしょう。 今でもこう書いていながらゲームを始めたいばかり…

でも、いつまでもそんな事言っていては前に進めない

神様の思いを求めて自分なりに努力し、このブログを定期的に更新していたあの頃に戻る為
まずは一歩踏みだそうと思います。


今ブログを更新しようとしても、上っ面だけの内容しか書けないでしょう。







そこでこんなブログを始めました






いつかまたこのブログを更新出来る日が来るまで

畑の前にビックリな物が!

当布教所には離れが有りまして


畑の前…というよりは横といいますか。



数ヶ月前に引っこ抜かれた木の根っこが置いてあって

その根っこの前に大変丁寧な置き方である物が置かれて居ました
Cocolog_oekaki_2013_11_17_11_46
全体をかなり適当に図にするとこんな感じ
木の根っこに優しく囲まれるように置かれていたその正体は
なんと!!


ビールの空き缶…


側溝や畑の付近
要するに、入口から近い所にゴミが捨てられているのはよく目撃されますが…
あんな所に捨てたということは
ワザワザ10メートルほど歩いて丁寧に置いていってくれたようだ
そこまで歩く労力を使うのなら、同じくらい歩けば自販機の横に空き缶のゴミ箱があったんだが…
ちょっと目立たないから仕方ないか
でもそこまでしなくても入口付近にでも置いてってくれれば始末したのに( ̄▽ ̄;)




そのゴミ
ありがとうございます!喜んで始末させて頂きます!




空き缶は資源ゴミなので、洗って捨てさせて頂きます


ゴミを見せて頂けた
目が見える親神様のご守護に感謝!
ゴミを流しまで持って行けた
親神様からお借りしている体に感謝!
ゴミを洗う事が出来た
親神様の水のご守護に感謝!








え?



「藤太郎ごときがそんな心遣い出来るわけがない」


とか思ってません?
いや、ボクでも思ってます
ゴミを見せて頂けた
目が見える親神様のご守護に感謝!

ゴミを流しまで持って行けた
親神様からお借りしている体に感謝!

ゴミを洗う事が出来た
親神様の水のご守護に感謝!

↑これはちょっと言い過ぎました
こんなことまで考えられる心持ってません



でもゴミの後片付けは喜んでさせて頂く事が出来た



なぜか!
その答えはこちら
父から教えてもらった心遣い



一瞬だけ「オイオイ」とかちょっとよぎったけど

すぐに切り替え、喜んでさせて頂く事が出来た




世間に居たらこんな心遣いでゴミ拾いなんて出来ません

いや、むしろ捨てられたゴミを目立つ場所に置いて

「自分のゴミくらい自分で始末しろ!」


とでも書いた看板立てて

意地でも自分では片付けなかったでしょうね。



そして不足した分は自分にも降りかかって来ます



しかし、こうしてお道の上にお連れ通り頂き
曲がりなりにもお話を聞かせて頂いているお陰で


こうしてどんな事でも(上っ面だけですが)喜びの心で受け取らせて頂く事が出来る



その心が神様にお喜び頂けるのであればこんなにも素晴らしい事はない



なんて…
そんな事を、空き缶を洗いながら柄にもなく考えて居ました。