これから創まる世界中の胸の掃除
久しぶりのブログ更新となってしまいました。
今回の記事は、1月頃から書き始め、2月初頭くらいには公開できたはずのものですが、思うようにまとめられず、苦心しているうちにやる気を失い、お道の勉強もサボりはじめてしまい、最近になってようやく再開して、どうにか今更になって完成させたものです。
今年は年が明けて元旦より、地震に、羽田空港の事故に、各地で起きた火災のニュース…
まるで1年分のニュースが一ヶ月に凝縮されたかのような、物騒な年明けとなりました。
今更ではありますが、令和6年能登半島地震において、被災された皆様にお見舞い申し上げるとともに、犠牲となられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
以前に、コロナ禍が騒がれ始めた頃、父が「こんなのはこれから始まる神様の大掃除の、まだそよ風のようなものだ」と言っていたことを思い出されます。
世界救けこそがこの信仰の本当の目的です。
我々道の者は、この大掃除の中、どのような心で通らせていただくべきか、今一度考える時かも知れません。
明治二十三年十一月二十一日(陰暦十月十日)午後八時半
刻限御話
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さあ/\やれ/\/\、まあ/\/\、長い事でまあ/\長い事や。長い事にはまあいつ/\とてもいつまでと言うた処がどんならん。出てさしづ又出て聞かし、又又さしづ通りの道やなければ通れん。変わらん/\、同んなじ心に同じ諭、いついつまで長いようでもそれ一つの事情、どんな事情とも計り難ない。そこで出て聞かし置かねばならん。何をしたのやと、騒ぎ立てるような事ではどんならん。聞かした処が分からん。三才児に十分のものをやったようなものや。三才児は沢山あっても、あゝと言うて楽しむ。後は何にもならん。まあおっとり四年五年の日が移る。まあ、貴方々々と世界から言う。何処にどういう印がある。印を以て目途、一代は一代の理、二代は二代の理、何時どういう事があるとも分からん。どんな事あるともこれは一つの理のように楽しむ。短い長いと言えば長い。人間というものは、その場と言えばその場治まる。義理やと言うて、さしづより外に一つの道も無い。どれだけどうといえどもどんならん。道が直して了えばろっくと言う。道を直して心の道さえ治めば同んなじ事。悪い道は通りよい、いっち大きい。これも聞いて置け。これまでの道、楽しみの理はそこい/\渡し、これからは未だ/\楽しみの理も渡さんならん。運ぶ道はだん/\運び、もうこれでよいと思えば運び掛ける。未だ未だあたゑ積んであるなれば、めん/\の心で掴むに掴まれん。これだけ諭し置くから、後々は又々談示をしてくれるよう。
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さあ/\やれ/\/\、まあ/\/\、長い事でまあ/\長い事や。
(さあ/\やれ/\/\、まあ/\/\、これから創まる世界中の胸の掃除の道は長い事では無いが、素直に神の話を聞き分ける事が出来ない者にとっては、まあ/\の長い事に成るのやで。)
長い事にはまあいつ/\とてもいつまでと言うた処がどんならん。
(何事も神の思惑どおりに運ぼうとする澄み切った精神さえ定まって居れば、心どおりに神が働いて何事も速やかに治めてやれるから長い事には成らないのであって、まあいつ/\とても変わらぬ一つの心を以ていつまでも続く道なら安心やと言うた処が、素直に神の話を聞き分ける事が出来なければどうしてやる事も出来ないから、とんとどんならんのや。)
出てさしづ又出て聞かし、又又さしづ通りの道やなければ通れん。
(そうは成らないようと、事前に神が出てさしづをし、又出て聞かし、又又聞かすさしづ通りの道やなければ、誰も皆通るに通れんのやで。)
変わらん/\、同んなじ心に同じ諭、いついつまで長いようでもそれ一つの事情、どんな事情とも計り難ない。
(何時何時までも変わらん/\一つの話であって、同んなじ心に同じ諭、いついつまでも続く長い道のようでも、それだけの理を出来るだけ無理無く治めさそうとする一つの事情であるから、その中を満足たんのう治めて運ぶなら、どんな結構な先々の事情が治まるとも分からんが、素直に聞き分ける事が出来なければ、どうする事も出来ないような計り難ない事に成るのやで。)
そこで出て聞かし置かねばならん。
(そこで、事前に神が出て聞かし置かねばならんのや。)
何をしたのやと、騒ぎ立てるような事ではどんならん。
(そのような神の話を速やかに聞き分ける事が出来ず、事情が行き詰ってしまってから、一体全体私が何をしたのやと、騒ぎ立てるような事ではどんならんで。)
聞かした処が分からん。
(何事も速やかに神に従おうとする誠が定まらなければ、速やかに神が働いて結構な先々の理を治めてやる事が出来んと、なんぼ聞かした処が分からんのや。)
三才児に十分のものをやったようなものや。
(喜んで神の思惑に沿う事の出来ない者に結構な守護を与えるという事は、未だ自分の力で判断の出来ないような三才児に、十分のものをやったようなものや。)
三才児は沢山あっても、あゝと言うて楽しむ。
(三才児というものは、結構なものが沢山あっても真実の心を出して感謝する事は出来ず、あゝと言うて、当然のようにして楽しむ事しか出来んであろう。)
後は何にもならん。
(結構な事や有難い事やと、満足たんのう治めて神を喜ばす事が出来なければ、蒔いた種は切れるばかりで、後は何にもならんのや。)
まあおっとり四年五年の日が移る。
(まあどのような事もおっとりと受け取って、折角苦労をして蒔いた種を食いつぶしながら、四年五年の日が移るという事に成ってしまうのや。)
まあ、貴方々々と世界から言う。
(まあ大きな事は出来なくても、どのような事も救けたいばかりの真実誠の神の守護だと受け取って満足たんのう治める事が出来るなら、心どおりの結構な道に成るよう神が十分に働いてやれるから、貴方々々と世界から言うように成るのやで。)
何処にどういう印がある。
(心一つによってそれぞれの道に違いが有るという事は分かっても、それを計り知る為には、何処にどういう印が有ると思うか。)
印を以て目途、一代は一代の理、二代は二代の理、何時どういう事があるとも分からん。
(先々へ行けば必ずこれだけの心が治まるという理を神が見定める事によって、それぞれの本質や性根を表す印の理が定まり、定まった印を以てそれぞれの道の目途が定まり、それによって一代は一代の理を治め、二代は二代の理を治める事に成るが、道の為世界の為に尽くす誠の道ならそれにふさわしい真実誠の種を蒔かなければならないから、何時どういう事があるとも分からんと言うのであり、容易に堪えられない長い苦しみの道を通るという事が、道の為世界の為に尽くす誠の道という印に成るのやで。)
どんな事あるともこれは一つの理のように楽しむ。
(どんな事があるとも真実誠の神の働きだと心得て、不足の心は出さず、これは無くてはならない結構な一つの理のようにして楽しむのやで。)
短い長いと言えば長い。
(そうして尽くす道は、短いか長いかと言えば心次第であって、どのような中も満足たんのう治めて運ぶなら時を忘れてしまうような楽しみの理が治まり、何時何時迄も続く長い楽しみの道が治まるのやで。)
人間というものは、その場と言えばその場治まる。
(人間というものは、はっきりと目に見える事は速やかに聞き分けられるから、その場だけだと言えば、その場は治まるであろう。)
義理やと言うて、さしづより外に一つの道も無い。
(又、義理が無ければこの世は暗闇やと言うても、現実には全てを神が支配をする神の世界やから、神のさしづより外に治まるような理は一つも無く、一つの道も無いのやで。)
どれだけどうといえどもどんならん。
(人間の知恵や知識を以てどれだけどうといえども、それを受け取って働く神の力が無ければどんならんと言うのや。)
道が直して了えばろっくと言う。
(人間の知恵や知識を以てすれば道が間違うと気付き、濁り切った人間支配の道を止めて神の思惑どおりに改めようとして、高低の無い一列平等の世界に直して了えば、何処にも落ちる事の無い安心安全なろっくの道と言うのやで。)
道を直して心の道さえ治めば同んなじ事。
(勝手な人間の道を神の思惑どおりの道に直して、人間は皆かりものであって心一つが我がものであるから、神様が勇み出て下さるような澄み切った心を持ち運ばなければならないという、心の道さえ治めて了えば、自由自在の神の懐住まいをするのも同んなじ事やで。)
悪い道は通りよい、いっち大きい。
(何事も人間の思惑どおりに運ぼうとする悪い道は通りよいが、それによって積み上げる悪因縁は、いっち大きいのやで。)
これも聞いて置け。
(又これもよう聞いて置け。)
これまでの道、楽しみの理はそこい/\渡し、これからは未だ/\楽しみの理も渡さんならん。
(これまでの道の中で、誠一つを受け取って与えて来た先々の楽しみの理というものは、心の底から神を慕って付いて来る底意/\の理に渡して来たが、これから先は一列救けの道に変わるから、未だ/\多くの者に楽しみの理も渡さんならんのや。)
運ぶ道はだん/\運び、もうこれでよいと思えば運び掛ける。
(速やかに神の話を聞き分けて、運ぶべき道はだん/\運び、もうこれでよいと思えば、又新たな救け道を運び掛ける事に成るのやで。)
未だ未だあたゑ積んであるなれば、めん/\の心で掴むに掴まれん。
(未だ未だ成人なかばだと心得て、神が与える天然自然の道に満足たんのう尽くす誠の理が積んであるなれば、思ってもみないような結構な先々の理が治まるが、めん/\の心で道を選んで運ぼうとするなら、結構な先々の理は掴むにも掴まれんのやで。)
これだけ諭し置くから、後々は又々談示をしてくれるよう。
(これだけの事を諭し置くからしっかり聞き分けて貰いたいと言うのであって、後々は皆々の心が一つに治まるようと、又々神に尋ねながら談示をしてくれるよう。)
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これから創まる世界中の胸の掃除の道は長い事では無いが、素直に神の話を聞き分ける事が出来ない者にとっては、まあ/\の長い事に成るのやで。
何事も神の思惑どおりに運ぼうとする澄み切った精神さえ定まって居れば、心どおりに神が働いて何事も速やかに治めてやれるから長い事には成らないのであって
素直に神の話を聞き分ける事が出来なければどうしてやる事も出来ないから、とんとどんならんのや。
この世をお始めくだされた時、神様は、人間は心一つが我の理とお定めくださいました。心だけは自分の自由に使って良いのです。
逆に言えば、神様も人間の心だけはコントロールすることが出来ません。
正しい道を通らせてあげたいと思っても、人間の方が神様の思惑通りに運ぼうとせず、自分の都合を第一に、我が身の幸せばかりを願ってしまっていては神様にお働きいただけません。
我が身の都合を捨てて、例え出来ても出来なくても、神様の思惑通りに運ばせていただきたいと願った時、初めて神様にお働きいただけるのです。
そうした澄み切った精神さえ定まれば、神様がお働きくださり、速やかに治まるとお聞かせいただきます。
先々へ行けば必ずこれだけの心が治まるという理を神が見定める事によって、それぞれの本質や性根を表す印の理が定まり、定まった印を以てそれぞれの道の目途が定まり、それによって一代は一代の理を治め、二代は二代の理を治める事に成るが、道の為世界の為に尽くす誠の道ならそれにふさわしい真実誠の種を蒔かなければならないから、何時どういう事があるとも分からんと言うのであり、容易に堪えられない長い苦しみの道を通るという事が、道の為世界の為に尽くす誠の道という印に成るのやで。
今はその精神が治められなくても、先々にはその心が治まる時がくるという理を神様が見定めくださり、その人その人に合わせた道をお定めくださいますが、道の為、世界の為に尽くす誠の道にふさわしい真実誠の種を蒔かなければならず、その為にどのような苦労の道も通らせていただかねばなりません。
どんな事があるとも真実誠の神の働きだと心得て、不足の心は出さず、これは無くてはならない結構な一つの理のようにして楽しむのやで。
どのような中も満足たんのう治めて運ぶなら時を忘れてしまうような楽しみの理が治まり、何時何時迄も続く長い楽しみの道が治まるのやで。
そうした苦労の道の中を、これも神様のご守護と、満足たんのうを治めて運ばせていただけば、何時までも続く楽しみの道が治まり、それができなければ、長い苦労の道が続くのだと教えていただいているように思います。
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人間の義理を病んで神の道を欠く
明治二十三年十月五日 夜十一時
刻限御話
さあ/\/\/\、どんな事/\、まあ/\どんな事や/\/\、どんな事やというや、どんだけ案ぜんならんや分かろまい。一条話たる処の聞き取り、どうぞ間違わぬよう、中々の理が何したんやら分かりゃせん。これだけ間違わんよう。悟りと言えば悟り、実際の理を諭し、難しいて/\ならん処であった。まあ一寸の理、一寸の心、一寸の掛かり掛け、これからの道というは暫くの処、暫くの道が難しい。どういう事が難しいと思う。難しいと思うは、人間と人間との義理が無くば暗闇とも言うやろう。人間の義理を病んで、神の道を欠くという。以前に諭したる。それが退かん事ではどうも難しい。たとえ後からでも、あの者はかほうという、神の道にはかほうという事はすっきり要らん。だん/\諭しても書き取っても、理を話さん事ではどんならん。人間の心、人間の道とは思われようまい。神が始めたのや。何処にこんな道があるか、こんな理があるか、こんなやしきがあるか。所々では親とも言わしてある。世界事情でも数々の理やあろうまい。一寸には世界事情皆んな義理を欠ける。書き取っても、書き取っただけで言えん事には、何ぼ口説話してもどうもならん。すっきり聞き分け。辺所々々の理は分かろまい。どうでも連れて通らにゃならん。一代と言えば二代も連れて通りた者もある。言うた通りの理が始まり見える。互い/\諭し合い、それ/\の理をすっきり治めて貰いたい。義理を病んで後の一つの話、それ/\言うまでのものなら義理は要らんもの。そこですっきり書き取って、何も彼も談じくれるがよい。
さあ/\/\/\、どんな事/\、まあ/\どんな事や/\/\、どんな事やというや、どんだけ案ぜんならんや分かろまい。
(さあ/\/\/\、これから創まる人間世界の大掃除というはどんな事/\であろう、まあ/\どんな事や/\/\、どんな事やというや、欲とほこりの心で濁り切った人間世界を改める為には、これから先は神の一列支配の世界に改めるより他は無いのやから、速やかに神の話を聞き分けて運ぶ事が出来なければ誰も皆人として生き永らえる事が出来なくなってしまうと言えば、どんだけ案ぜんならんや分かろまい。)
一条話たる処の聞き取り、どうぞ間違わぬよう、中々の理が何したんやら分かりゃせん。
(濁り切った人間心を捨て切って、何事も神の思惑どおりに運んでこそ結構な末代の理が治まるという一条の理を話たる処の聞き取りと、聞き取った後の運び方次第でそれぞれの末代の運命が定まってしまうと言うのだが、どうぞそこの処を間違わぬよう運んで貰いたいと言うのであって、そこを間違えて人間の理を第一に立てたまま運ぶなら、救けたいばかりの神の手は届かず、救けてやれない大きな残念の理を世界に知らす為の長い果たしの道を通らなければならない事に成るから、これまで道に尽くした中々の理が、何をしたんやら分かりゃせんように成ると言うのや。)
これだけ間違わんよう。
(どうぞこれだけの事を間違わんようと、頼み置くで。)
悟りと言えば悟り、実際の理を諭し、難しいて/\ならん処であった。
(悟りと言えば、心を鎮めて真実誠の神の思惑を思い浮かべる誠の理であるから、その心根を受け止って、分かるよう胸の内から実際の理を諭して居るが、又悟りという理は、自分の都合を捨てて神の思惑どおりに運ぼうとする誠の精神が定まって居なければ治まらない理であるから、難しいて/\ならんという処であったであろう。)
まあ一寸の理、一寸の心、一寸の掛かり掛け、これからの道というは暫くの処、暫くの道が難しい。
(まあほんの一寸の誠の理と、ほんの一寸の改まった心の理によって、ほんの一寸の掛かり掛けの道を通して居るのだが、これからの道というは、皆々が山のように積み上げた残念の理の果たしの道に変わるから、暫くの道が難しい事に成るのやで。)
どういう事が難しいと思う。
(どういう事が難しいと思うか。)
難しいと思うは、人間と人間との義理が無くば暗闇とも言うやろう。
(難しいと思うのは、これまでの人間世界の常識を改めなければならないという事であって、これまでは、人間と人間との義理が無くば暗闇とも言うて居たやろう。)
人間の義理を病んで、神の道を欠くという。
(そこの処が神の道の邪魔に成るのと言うであって、人間の義理を第一に立てれば神の理は立たず、人間の義理を病んで神の道を欠くという事に成るのや。)
以前に諭したる。
(人間の義理というものは、神の思惑を後回しにしてしまう第一の残念の理であるから、それがのかん事にはどうにもならないと以前にも諭したるであろう。)
それが退かん事ではどうも難しい。
(それが退かんような事では、何時まで経っても鮮やかな神の働きを見せる事が出来ないから、どうも難しい事に成ると言うのやで。)
たとえ後からでも、あの者はかほうという、神の道にはかほうという事はすっきり要らん。
(たとえ後からでもそれだけの理を聞き分けて神の思惑どおりの道を運び、真実誠の道の台と成るなら、あの者は道の為の家宝という事に成るであろうが、神の道には家宝というような事はすっきり要らんで。)
だん/\諭しても書き取っても、理を話さん事ではどんならん。
(家宝という飾りのようなものだけでは神は働けず、人の笑いやそしりに堪えながら神の思惑を話した誠が無ければ、その返しをしようとして神が働いてやる事は出来ないのやから、遠慮気兼ね無く理を話さん事ではどんならんと言うのや。)
人間の心、人間の道とは思われようまい。
(濁り切った人間の心を改める為に、真実誠の神の働きを引き出す為の道であって、人間の力で為せる道とは思われようまい。)
神が始めたのや。
(不安に思うかもしれないが、長い年限を掛けて道の実効性を十分に見定めた上で、神が始め掛けたのやで。)
何処にこんな道があるか、こんな理があるか、こんなやしきがあるか。
(他の何処にこんな道があると思うか、こんな理があると思うか、こんなやしきがあると思うか。)
所々では親とも言わしてある。
(これまでに神が付けた所々の道では、行き詰まってしまった人間世界を救けようとして創め掛ける、元の親の道とも言わしてあるのや。)
世界事情でも数々の理やあろうまい。
(世界事情でもこれから創まる真実誠の神の働きを知る者が居るのであって、それに背くようなものは数々の理やあろうまい。)
一寸には世界事情皆んな義理を欠ける。
(それだけの理が分かっていても、一寸には世界事情は治まらないが、それというのは、皆んな人間の理を第一に立てるばかりで、神の義理を欠ける事ばかりして居るからやで。)
書き取っても、書き取っただけで言えん事には、何ぼ口説話してもどうもならん。
(それだけの真実の理を書き取っても、書き取っただけでそれを人に言えん事には、その心根を受け取って、多くの者に伝わるよう神が働いてやる事が出来ないと、何ぼ口説いても話しても実践か出来ないからどうもならんと言うのや。)
すっきり聞き分け。
(全く道の理の分からない者に、明らか鮮やかな理の働く刻限話をうかつに話してはならないが、年限積んだ道の者にも遠慮気兼ねをして言えんという理は、神の働きの邪魔をする第一の理であるから、すっきりと片付けなければならない残念の理であると言う事情をよう聞き分けるよう。)
辺所々々の理は分かろまい。
(道の中心に居るような者でも遠慮気兼ねをして真実誠の神の思惑を伝える事が出来ず、その当りをうろうろして居るような残念な辺所々々の理は、どれだけ道の邪魔に成って居るか分かろまい。)
どうでも連れて通らにゃならん。
(それを改める為には、何ものにも屈する事無く、どうでもこうでも神の思惑どおりの道を運ぼうとする誠の者を連れて通らにゃならんのや。)
一代と言えば二代も連れて通りた者もある。
(それだけの理が一代で治まった道と言えば、それだけの理を治める為の苦しみの道を、二代も三代も連れて通りた者もあるのやで。)
言うた通りの理が始まり見える。
(神の言うた通りの理を速やかに実践する理が真実誠の救け道の始まりであって、年限が経てば、明らか鮮やかな神の働きが見えるように成ると言うのや。)
互い/\諭し合い、それ/\の理をすっきり治めて貰いたい。
(互い/\の諭し合いによって真実誠の神の働きを引き出し、明らか鮮やかな神の働きによって、それ/\の理をすっきりと治めて貰いたいのや。)
義理を病んで後の一つの話、それ/\言うまでのものなら義理は要らんもの。
(義理を病んで真実誠の神の働きを止めてしまうという後の一つの話も、それ/\が人間の義理を捨て切る事が出来ずに遠慮して小声で言うまでのものなら、神か表へ出て世界を救けられないのは明白であるから、そんな義理は要らんものだと言うのや。)
そこですっきり書き取って、何も彼も談じくれるがよい。
(そこでこれだけの事をすっきりと書き取って、何も彼も神様の思惑どおりに成るよう実践させて頂かなければならないと、皆々に談じてくれるが善いで。)
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やはりと言うべきか、最近また少し気が緩み始め、毎日のお道の勉強をする時間も減ってしまい、ブログを書こうとパソコンに向かうも、ついYoutubeを見てしまい、なかなかブログの管理画面にたどり着けず、書くにしても何を書こうか思い浮かばないという情けない状況。
何を書かせていただくべきかとおさしづにお伺いしたところ、教えていただけたのがこのおさしづでした。
私は四人兄弟で、妹と弟は私と同じように…というか、私以上に真面目におさしづの勉強とブログをやっております。(右サイドバーのおすすめブログにリンク有り)
が、兄が居るのですが、兄はおさしづは読んでおりません。
おさしづに従って通らせていただくということも特に考えてはいないようです。
私は先日、兄におさしづの話をさせていただくべきかを迷っており、それをおさしづにお伺いしましたところ、しっかりとお話させていただくようにと教えていただきました。
祭典で会った時に話そうと思っていたのですが、自分を庇う心から、人目を気にしてしまい、なかなか話出せずにいましたところ、ちょっとした用事で後日会う予定が出来たのでその時に話そうということにしたのですが、それもまたほんの少し予定が変わったことにより、結局話せずに終わっていまいました。
その矢先のおさしづがこちらでした。
濁り切った人間心を捨て切って、何事も神の思惑どおりに運んでこそ結構な末代の理が治まるという一条の理を話たる処の聞き取りと、聞き取った後の運び方次第でそれぞれの末代の運命が定まってしまうと言うのだが、どうぞそこの処を間違わぬよう運んで貰いたい
今は仮の道と教えていただきます。
この仮の道の間の通り方で、末代までの運命が定まってしまうと聞かせていただきますので、間違うことのないよう、神様にお受け取りいただけるようしっかりと通らせていただかねばならないと思うわけですが、その為には自分の考えや、人から聞いた話に従っていたのでは正しい通り方は出来ません。
どこまでもおさしづに従って通らせていただかねばならないと教えていただいております。
そこを間違えて人間の理を第一に立てたまま運ぶなら、救けたいばかりの神の手は届かず、救けてやれない大きな残念の理を世界に知らす為の長い果たしの道を通らなければならない事に成るから、これまで道に尽くした中々の理が、何をしたんやら分かりゃせんように成ると言うのや。
しかし、おさしづに従って通らせていただくという通り方を知らず、理の親や先生と呼ばれる立場の方に従うのが正しい道と信じてしまっておられる方がお道の大多数をしめてしまっている現状です。
先生の教えに従い、自分や家族の為に信仰することが正しいと信じて教会や布教所の御用を一生懸命勤めておられていても神様に受け取っていただけるものは無く、今まで何をしていたのか分からないというようなことになってしまいます。
それを人に言えん事には、その心根を受け取って、多くの者に伝わるよう神が働いてやる事が出来ないと、何ぼ口説いても話しても実践か出来ないからどうもならん
年限積んだ道の者にも遠慮気兼ねをして言えんという理は、神の働きの邪魔をする第一の理であるから、すっきりと片付けなければならない残念の理であると言う事情をよう聞き分けるよう。
「全く道の理の分からない者に、明らか鮮やかな理の働く刻限話をうかつに話してはならない」とのお言葉から考えて、誰にでも手当たり次第に話せば良いという訳でもないのでしょうが、今回私はおさしづより神様にお伺いをし、お話をさせていただくようにと、間違いなく教えて頂きましたので、やはりおさしづの話をさせていただかねばならなかったのです。
しかし、結局言えずに終わってしまったという情けない結果となってしまいました。
ところがまた後日、ある用事で名古屋へ行くため電車に乗ったところ、なんとその電車に兄が居たのです。
なんとなく選んだ出発時刻の、なんとなく立ち止まったホームの乗り位置の、電車の扉が開いた先に座って居ました。物凄い偶然でした。
私はその日、修養科の同期と飲みに行くという予定だったので、車ではなく電車を選んだのですが、兄もまた同じく飲みに行く予定で電車に乗っていたようです。
これをチャンスと、おさしづの話をさせていただきました。
おさしづを読む気はないか、おさしづを読むことの大切さなど話ましたが、仕事で多忙のため、読むような時間は取れないというのが兄からの返事でした。
言うべきことは言えたと満足して話は終わりましたが、後で考え直すと、そこにはまだまだ遠慮の心が有りました。
本人にその気が無いのに無理に勧めることではないのでしょうが、それでも言うべき事が全て言えたかと言えば、そうでも有りませんでした。
人間の義理を第一に立てれば神の理は立たず、人間の義理を病んで神の道を欠くという事に成るのや。
自分が弟であり、相手が兄という立場上、最初に否定された段階で、それ以上続けることが出来ませんでした。
神様の理よりも、兄の顔を立ててしまっていたのです。
言うべきことを全て言えたところで結果が変わるとも思えませんが、それでも義理を病んで、遠慮してしまったことは事実であり、反省すべき点です。
人の笑いやそしりに堪えながら神の思惑を話した誠が無ければ、その返しをしようとして神が働いてやる事は出来ないのやから、遠慮気兼ね無く理を話さん事ではどんならんと言うのや。
「理の親を立てて通る」という間違った教えが蔓延してしまっているお道の現状から「おさしづに従って通る」という話をすれば、白い目で見られることも有りますが、かと言って、間違った教えを信じたまま通ってしまっていては、折角一生懸命に勤めていても何にもなりません。
「おさしづに従って通る」ことの大切さに気付かせていただいた者が、人間の立場にとらわれることなく、遠慮を捨ててお伝えさせていただかねばならないのだと思います。
道の中心に居るような者でも遠慮気兼ねをして真実誠の神の思惑を伝える事が出来ず、その当りをうろうろして居るような残念な辺所々々の理は、どれだけ道の邪魔に成って居るか分かろまい。
人間の義理を捨て切る事が出来ずに遠慮して小声で言うまでのものなら、神か表へ出て世界を救けられないのは明白であるから、そんな義理は要らんもの
遠慮気兼ねをして真実誠の神様の思惑を伝える事が出来ず、今回のように言うべきことも最後まで言えないまま終わってしまうようなことでは、道の邪魔になってしまうので、今一度考え改めねばならないように思います。
そこでこれだけの事をすっきりと書き取って、何も彼も神様の思惑どおりに成るよう実践させて頂かなければならないと、皆々に談じてくれるが善いで。
人間の埃の心に塗れ、欲望が支配する悲惨な世界を改め、神様の澄み切った一列支配の世界に改めていただく為には、我々道の者が教祖ひながたの道に倣い、自ら苦労を願い出て胸の掃除をしていただき、神様の思し召しに従って通らせていただき、その心を世界に映し出していただかねばなりません。
そのためにも、人間の理を第一に立てるような間違った教えを改められるよう、神様の思惑を、遠慮してしまうことのないよう、しっかりお伝えさせていただかねばならないと思います。
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人間が考えた身上さとし
理のある限り神のさしづの理は変わらん。(中略)。何が間違う、こうが間違うと思う心が間違う。(中略)皆分からんで、日々苦労して居る。それはどうしたさかいにどう、こうしたさかいにどう、という理は無い。医者の手余り捨てもの救けるが、神のたすけという。
先日少々反省した出来事があり、その事をブログに書くべきか、おさしづ一日一言という本からおさしづにお伺いしたところ、教えてくださったのが、このおさしづでした。
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少しだけ余談になりますが、おさしづにお伺いするというのは、おさしづの本を手に持ち、神様にお伺いをして、適当にページを開くとそのおさしづからお答えを教えていただけます。
適当と言うと言葉は悪いですが、無心で何も考えずにランダムで開くという意味です。
おさしづにお伺いした時の記事がこちら
本に限らず、パソコンやスマホにおさしづが入っているのであれば、無心で選んだおさしづを開くという方法でもお答えをいただけます。
スマホやパソコンからおさしづを見たい時は、私はこちらをよく利用させていただいております。
また、アイフォンは分かりませんが、アンドロイドであれば「おさしづ」というアプリがグーグルプレイストアからダウンロード出来て、検索機能も使いやすく、とても便利です。
さて本題に戻ります。
最初にこのページを開いても、神様が何を教えようとしてくださっているのかは分かりませんでした。
いやまあ、正直言うとこれを書いている現段階でも理解出来ている自信は全く有りませんが…
その翌日、同じくおさしづ一日一言という本から、その日のおさしづを開きました。
その日のおさしづが
明治二十六年十月三十日
梅谷たか十四才身上願
皆めんめんに拵えるは、理を以て皆拵える。こうせんさかいにこうなる、どうせんさかいにどうなるという理は、こら無いで。
(一部抜粋)
と、前日にお伺いした時に開いたおさしづとよく似たおさしづ。
これはつまり最初に見せていただいたおさしづから今回のブログを書くように教えてくださったのではないでしょうか。
冒頭に書いた最初のおさしづの全文がこちらです。
明治二十九年五月一日
梅谷たね身上伺
さあ/\尋ねる処、さあ/\さしづは変わらん。さしづはいつとても変わらん。一度の諭に生涯の理まで諭してある。理のある限り神のさしづの理は変わらん。一人事情又事情変わるように皆思う。なれど、よう聞き分け。何が間違う、こうが間違うと思う心が間違う。さんげこれ一つよう聞き分け。これまで細い道、細い中から通り来たる処、それは案じる事は無い。又日々にたんのうもしては居る。案じる心は皆身上に、一時迫る処は余程大層やで。皆々それ/\治める中に、事情は余程大層やで。事情世上一つ事情以て、早く明るく運んで安心という。
押して、医者に掛ける事でありますや
さあ/\それは第一やで。前々からそれを皆諭して居る。それを分からんのや。皆分からんで、日々苦労して居る。それはどうしたさかいにどう、こうしたさかいにどう、という理は無い。医者の手余り捨てもの救けるが、神のたすけという。日々皆それ/\遠く所から寄り来る処、よう聞いて居るやろ。それをよう諭して置いて、日々という。これ一つ諭し置こう。
私がまだおさしづやおふでさきからお道の教えを学ぶということを知らず「理の親」や「先生」と呼ばれる立場の方から教えていただくことが全て正しいと信じて疑っていなかった頃から、ずっと疑問に思っていたことが有りました。
それが身上のおさとしです。
例えば風邪をひいたとしても
「不足すると風邪ひくよ」
とも教えられるし
「身惜しみの心(我が身を庇う心)を使うと風邪ひくよ」
とも教えられ、どちらが正しいのか、或いはどちらも正しいのか、理解が出来ません。
しかも、明確に不足した記憶が有るのに風邪をひかなかった時もあれば、これといって不足した記憶が無いのに風邪をひいた時もあります。
扁桃腺が腫れると
「ああだこうだと返答するからだよ」
と教えてもらったこともあれば
「返答せんからだ」
と教えてくれる人もいました。
同じ病気、同じ症状でも、人によっておさとしが違うのです。
また、癌についても
「ガンを漢字で書くと、やまいだれに品の山と書いて癌だから、欲を張って徳分以上の金や物を取り込んだから癌になるのだ」
と、とある先生が仰ったのですが、その数年後には
「頑固な人が癌になるんだ」
と、同じ先生でもおさとしが変わってしまうのです。
しかし、これは人間のおさとしだけでは有りません。
身上さとしのおさしづを拝読しましても、同じ症状でも同じおさしづが頂ける訳ではありません。
はっきりと明確におさとしいただけるのは、左が善の知らせ、右が悪の知らせである。ということだけであるように思います。
つまり、冒頭に書いたおさしづ
「何が間違う、こうが間違うと思う心が間違う。」
「それはどうしたさかいにどう、こうしたさかいにどう、という理は無い。」
というのが全てではないでしょうか。
以前、このブログに障害のある方からコメントを頂きました。
自分の障害について天理教の布教師から
「障害があるのは前世の因縁。人殺しをした。人を蹴った。色情因縁がある。」などと、様々なことを言われていたそうですが、これこそが間違いです。
「人を殺したからこうなった」「人を蹴ったからこうなった」などといった理は無いと神様はお教えくださいます。
全て人間が勝手に拵えてしまった理なのです。
人間誰もが、前生、前々生から山のような残念の理を積み重ねてしまっているのであり、誰もが身上事情によって苦労の道を通らせていただかねばなりません。
おさしづは宝より引用
(おさしづは宝とは、父が長年おさしづを研究して、読みやすく解釈したものです。)
何処まで行っても人間の思い通りに成らない真実誠の救け道の中を、定められた年限の間満足たんのう貫いて運び、神を喜ばせた誠の理によって結構な先々の理や徳が与えられる
どこまで行っても人間の思い通りにはならない不自由な中を、たんのうの心で通らせていただいた先に、末代まで治まる結構な理を与えて頂けるのであって、返答せんから扁桃腺が腫れるだとか、頑固だから癌になるというものではなく、いかなる身上や事情も、子供救けたい親神様の暖かい親心からなるご守護なのです。
で、あれば「何が間違っていたのか」ということを追求するのではなく
いんねんという、いんねん一つの理は、たんのうより外に受け取る理は無い。
と、お教えくださるとおり、何事もたんのうの心で通らせていただくことが肝心なのです。
更に言えば、身上の悩みとなった時に「神様を信じて病院に通うのを止めなさい」「薬を捨てなさい」と説かれる方もおられます。
私も幼い頃から身上によって病院通いでしたので、そのような事を言われた経験が有ります。
が、これも大きな間違いです。
冒頭のおさしづにも、「押して、医者に掛ける事でありますや」とのお伺いに対し
さあ/\それは第一やで。前々からそれを皆諭して居る。それを分からんのや。皆分からんで、日々苦労して居る。
と、お教えくださっております。
また別のおさしづにも
元々医者は要らん、薬は呑む事は要らんという事は教には無いで。元々医者にも掛かり、薬も呑み、医者の手余り救けようというは、誰にも医者に掛かる事要らん、薬呑む事要らんというは、どっから出たのや。
とお教えくださいます通り、医者や薬に掛かり、医者の手余りを救けてくださるというのが神様の教えなので、神様を信じるのであれば、尚更医者にも掛かり、薬も飲むべきなのです。
また、信仰の上で、身上や事情を見せていただいた時、理の親や、先生と呼ばれる立場の方にお伺いをされる方がいらっしゃいますが、分からないことを人間に聞いても分かりません。
先日ある先生がこのようなお話をして下さいました。
「教祖は神様のお言葉が直接聞こえ、その神様のお言葉に従ってお通りくださったのであり、それが我々が通るべきひながたの道である。神様のお言葉が直接聞こえない私達は、理の親や、教会の先生にお聞きしてそれに素直に従うしか手段が有りません。」
一字一句正しくこう話してくださったとは言えませんが、大体このようなお話でした。
確かに仰る通り、我々は教祖のひながたに倣い、神様に従って通らせていただかねばなりません。
しかし、理の親と呼ばれる方や、教会の先生に聞いても神様の本当の思し召しを教えてはいただけません。
もちろん、中には正しい事を教えてくださる先生もいらっしゃるかも知れませんが、人間の勝手な考えで、間違った事を言われる先生も、確かにいらっしゃいます。
先述の通り、先生に聞いても人間で勝手に理を拵えてしまうという前例が既に有るのですから、それが何よりの証拠です。
間違った先生に間違った事を教えられて、それに従っても間違った道にしか進めません。
では神様の思し召しを教えていただくにはどうすれば良いのか。
これも先述の通り、おさしづにお伺いするのです。
私は以前に、夜中に突然の歯痛に目が覚めたという出来事がありました。
あまりの強烈な痛さに、これはもしかしたら神様が私に何かを教えようとして下さっているのではないか。そう思い、パソコンからおさしづにお伺いをし、そのおさしづによって私の心得違いを教えていただいたことがありました。
おさしづにお伺いをすれば、必ずお答えを教えてくださいます。
おさしづにも
さしづを以て運べば自由という。(中略)さしづという事情を以て、さしづの理を受けてするなら、間違う事は無い。(中略)さしづを尋ねば、間違うようなさしづはせんで。
と教えていただいております。
おさしづにお伺いをし、おさしづに従うのであれば神様がお連れ通りくださるのですから、間違うことなど有りえません。
余計な人間考えを捨て、おさしづに従う心でお伺いをする。分からなければ何度でもお伺いをする。
おさしづにも
よう尋ねてくれた。再度尋ねてくれる処、受け取りて居る。
と、有りますように、分かるまでお尋ねする事を神様はお喜びくださいます。
仮にその時は分からなくとも、おさしづに従う心さえ有れば必ず神様がお導きくださいます。
しかし、そこに邪念が有っては、教えていただけるものも教えていただけません。
先述の「おさしづにお伺い」の記事にも書きましたように、埃の心や、自分の都合の良いように解釈しようとする心など、余計な人間心が混ざってしまうと分からなくなってしまいます。
木が水を求めて低く低く根を張るように、低い心で、どのようなおさしづを頂こうとも従う心でお伺いをすることが大切であると思います。
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人は何故に苦労するのか。天然自然順序の理とは何かを考える。
今回の記事には個人の見解が多めに含まれております。
間違ったことを勝手にほざいている可能性がいつも以上にありますので、参考程度に読んでいただければ幸いです。
人は何故苦労するのか?
皆人それぞれ、辛いこと、苦しいことを、身上や事情にて経験していることと思います。
しかし、この神様は苦しめよう困らせようとの神様ではないとお聞かせいただきます。
おふでさきに
にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる
救ける模様ばかりを思っている
救けることばかりを考えてくださっているとお聞かせいただきます。
では、なぜ辛いこと、苦しいことが有るのか。
それを考えた時、最終的には「神様が人間を救けたいと思し召してくださっているからではないか」という結論に私は辿り着きます。
お道の信者であれば誰もが聞いたことがある話。
親神様はこの世をお造りくだされた時、人間を造り、皆が互いに立て合い、助け合いながら明るく陽気に暮らす様を見て共に楽しもうとの思し召しから我々人間をお造りくだされたと聞かせていただいております。
その時に「心一つが我が理」であるとお定めくださいました。
我々の身体も、服やお金、食べ物飲み物、家や土地など、生きていくのに必要なものは全て神様からの借り物ですが、心だけは我のもの。
心だけは自分のものなので、自由に使ってよいとお定めくださったのです。
しかし、自由を約束されたのを良いことに、人は人を憎しみ、恨み、我さえ良くばの我が身思案や、有るが上にもなんぼでもといった欲望により、奪い合い、傷つけ合い、時には殺し合い、戦争を起こすなどと、陽気ぐらしを見て共に楽しもうと思し召しくだされた親神様にはとてもお喜びいただけない、残念な心ばかりを使ってしまいました。
人間の心や行いは「種」として残ります。
良い心遣いや行いから蒔かれた良い種も、悪い心遣いや行いから蒔かれた悪い種も、いずれ自分に返ってきます。
それを「因縁」と教えていただきます。
悪い因縁が返ってくるので、相応の苦しみを受けることになりますが、自分の因縁からなるそんな不都合すらも人のせいにして、また更に人を恨み、憎しみ、そうして我々は埃の心と残念の理(親神様のお心に背き続けてきた親不孝の理)を山のように積み重ねてきてしまった訳です。
本当は神様は、我が子である人間に余計な苦労はさせたくない。今直ぐ人間を幸せにしてあげたい。
そう思し召しくださっているのですが、何せ山のように積み重ねてしまった因縁があります。ただでさえ、これを「まあ、いっか」で許してしまう訳にはいかないのに、もっと厄介なのが、その因縁の量も種類も人それぞれ、多種多様なのです。
全ての人間を平等にご守護くださるのが親神様です。
物凄く簡単に例えるなら、お金を盗んだ人が二人居ます。
でも、ただお金を盗んだだけではなく、一万円盗んだ人も居れば、十万円盗んだ人も居るのです。
これを「まあ、いっか」で許してしまうと、十万円盗んだ人が九万円も得してしまいます。それでは平等になりません。盗んだもん勝ちになってしまうのです。
仮に百歩譲って盗んだ一万円分はチャラにして許すとしても、十万円盗んだ人の、この九万円はチャラにすることは出来ません。
その九万円分の因縁が有るからこそ、我々人間は苦労で返さねばならないのです。
しかし、これは例えで九万円と言いましたが、実際にはそれどころでは有りません。
少し自分の心を省みてみましょう。
今までに神様にお喜びいただけない心遣いや行いをしたことが、誰にでも有るのではないでしょうか?
埃の心を使い、不足をしたり嘘をついたり、人と喧嘩したり人を嫌ったり…
私は全部当てはまります(自信満々)
今世だけでも思い出しきれないほど積み重ねて来たのに、前生、前々生、更にまたその前生と、魂が存在し始めたその時から悪い因縁を、気が遠くなるほど積み重ねてきてしまったのです。
それをお返ししようと思ったら、本来であればきっと地獄のような日々を永遠のように歩み続けなければなりません。
それもただ通れば良いのでは有りません。
おさしづに、たんのうは前生因縁のさんげ(懺悔)と教えてくださいます。
また
いんねんという、いんねん一つの理は、たんのうより外に受け取る理は無い。
とも教えてくださいます。
たんのうの心が前生因縁の唯一のさんげであり、どれだけ苦しい思いをしても、それをたんのうの心で通らなければお受け取りいただけないのです。
永遠のような地獄の中をたんのうの心で通る。
そんなこと人間にはとても出来ません。
本来であれば、我々人間が思っている以上に、もうどうしようもないところまで差し迫っており、本来であればもう元の泥海に還して、また0から作り直さなければならないほどなのです。
本来であればです。
それでも親神様は我々を見捨てることなく、我々人間を救けようと思し召しくださっているのです。
そこで悪因縁を断ち切る為の伝家の宝刀「七分三分の理」です。
これについては妹と弟が記事にしていましたので、そちらを参照ください。
教祖は我々人間の代わりに五十年の御苦労の道を、神様を信じて勇んでお通りくださり、それを我々のひながたとしてお示しくださったのです。
おさしづは宝より引用
(おさしづは宝とは、父が長年おさしづを研究して、読みやすく解釈したものです。)
何処までも神様を信じて教え通りの道を貫こうとする誠一つさえあれば、たった三年千日で濁り切った胸の掃除をして下さり、末永く人として連れて通して頂く事の出来る澄み切った心に改めて頂けます。
(中略)
教祖の後を慕って胸の掃除の道を運ばせて頂こうと定めた誠の心に癒着した悪因縁を、強大な神様の御力を以て断ち切って下さる為の真実誠の理です。人間の力ではとても通り抜けられない苦労艱難の道であると承知の上で、教祖の後を慕わせて頂こうと定めて運ぶ誠の心は、濁り切った人間心を速やかに捨てて神様の思惑通りの道を運ばせて貰おうと定める真実誠の神一条の理として神様が受け取って下さいます
山のように因縁を積み重ね、泥水のように心が濁ってしまった人間を救ける為の最後の手段が七分三分の理なのだと思います。
我々人間は、その教祖のひながたに倣い、神様がお与え下さる苦労の中を、神様を信じてたんのうの心で、たった三年千日通るだけで胸の掃除をしてくださり、悪因縁を断ち切っていただけるのです。
まあ、それも口で言うほど簡単ではないですよね。
でもご安心ください。人間にそこまで出来ないことは、神様が人間以上にご理解くださっているのです。
そこで、タイトルにもあるもう一つの本題「天然自然順序の理」なのではないかと思います。
天然自然順序の理とは、勉強不足の私では解説出来ないほどの深い意味があるとは思いますが、僭越ながら私の分かる範囲で説明しますと、我々人間を用木として育てる為の、その人その人に合わせた手段であり、神様の思いを無理なく順番に分からせてくださる為の、言わば用木育成プロジェクトなのだと思います。
しかし、それは放っておいても勝手に出来てくるものでは有りません。
神様の思し召しに従って通らせていただきたい
世界救けの為に尽くさせていただきたい
教祖ひながたの道を辿り、どのような苦労でもさせていただきたい
我々自らが、そう神様に願い出でなければなりません。
そう願い出ることによって、この先どんな辛い道が待っているかは分かりません。
それでも、それだけが救かる唯一の道であり、世界救けの方法であり、親神様の親心なのです。
また親神様はそれをずっと待ち続けてくださっているのですから、親神様を信じて、親神様に凭れて、我が身どうなっても世界救けの為にと願い出る、その真実を受け取ってくださることで、育成プロジェクト「天然自然順序の理」が始まるのだと私は考えます。
以前の記事で、神様にお願いをするのに、自分の都合でお願いしてはいけないと話しました。
なぜ自ら願い出なければいけないのか。
また、何故自分の都合をお願いしてはいけないのか。
これもついでに自分の見解を述べたいと思います。
しつこいようですが、飽くまで個人の見解ですので参考程度に読んでいただければと思います。
最初に申しましたように、神様は「心一つが我が理」心は人間の自由に使ってよいとお定めくださいました。
神様は我々人間を救ける為の方法をご存知で、その方法で救けたいと思し召しくださっているのですが、心は自由に使ってよいとお定めくださった以上、神様からその方法を強制することが出来ないのです。
これを、分かりやすくお母さんとたけし君で例えてみましょう。
たけし君は遊んでばかり居たため、成績が落ちてしまいました。
そこでお母さんはたけし君に「勉強方法は自分で自由に決めて良いから、成績が上がるように勉強をしなさい。」と言います。
そこでたけし君は勉強をするのですが、その勉強法が全くなっていません。
とにかく非合理的で、非効率的。この勉強方法では、どれだけ頑張っても成績は上がりません。
お母さんは、その勉強方法では成績が上がらないことも、成績を上げる為にはどう勉強すればいいのかも全て分かっています。
たけし君の成績が上がる唯一の勉強方法「真・たけしの成績UP勉強法」を知り尽くしているのです。
しかし「勉強方法は自分で自由に決めて良い」と約束してしまった以上「この方法で勉強しなさい」と言うことが出来ません。
お母さんの方からそれが言えない以上、たけし君の勉強はどれだけ頑張っても無駄な足掻きでしかないのです。
そんなたけし君が成績を上げる手段は一つしか有りません。
たけし君がお母さんに「勉強を教えて」と、自ら願い出るしかないのです。
お母さんの方から「こうやって勉強しなさい」と言うことは出来ませんが、たけし君から「教えて」と願い出たなら、唯一の勉強方法「真・たけしの成績UP勉強法」を教えることが出来るのです。
お母さんの頭の中で「真・たけしの成績UP勉強法」が音を立てて組み立てられていきます。
たけし君は、そこに自分の都合を混ぜてしまってはいけません。
「でも、10分に一回は休憩させて」
「理科は嫌いだから少なめで、漢字は得意だから多めで」
などと、自分の都合に添ったお願いをしてしまうと、それはもう「真・たけしの成績UP勉強法」ではなくなってしまいます。
お母さんの頭の中で「真・たけしの成績UP勉強法」が音を立てて崩れてしまいます。
ならば、本当に成績を上げる為には、全てお母さんに任せるしか無いのです。
どういった勉強を、どんな順番で、どれだけの時間やるのか。自分の考え、自分の都合などは全て捨てて「どんな辛い勉強方法でも頑張る。全部お母さんに任せるから教えて」とお願いするしか無いのです。
我々人間が救かる方法も同じです。
その「真・たけしの成績UP勉強法」がまさに「天然自然順序の理」なのだと考えられます。
心は自由に使って良いとお定めくださった以上は、神様から「こうしなさい」とは言えないのです。
「言わん言えんの理」の、「言えん」の部分がまさにそこではないでしょうか。
また、神様から「こうしなさい」と言われたからやった。では、その心に誠は有りません。他人から言われてやることに意味はなく、我が身を顧みず、自主的に動いてこそ誠の心と言えるでしょう。
で、あれば我々人間が救かるには、全てを神様にお任せし自分の都合は一切捨てて「どんな苦労でもさせていただきます。どうかお連れ通りください。」と自ら願い出るしか方法が無いのです。
神様から「こうしなさい」とは言えませんが、人間から「お連れ通りください」と願い出ることによって、用木として育てる為の「天然自然順序の理」が定まるのです。
一寸はなし神の心のせきこみハ よふぼくよせるもよふばかりを
よふぼくも一寸の事でハないほどに をふくよふきがほしい事から
先にも申しましたように、神様は一人でも多くの人間が、そう願い出ることを待ち望んでくださっているのだと思います。
おさしづは宝より引用
さあ/\/\余の儀外の儀でないで〈無知で心の濁り切った私達人間の行動によって壊滅寸前まで追い込まれてしまった世界中を速やかと救ける為に、神様が新しく定めて下さった天の道理を諭して下さるばかりであって、それ以外の他の話をするのではないと教えられる〉。
さあ/\これから先は万事一つの事情〈これから先は、どんな事も神様の思惑通りに運ぼうとしなければ誰も皆人として生き永らえる事も出来ないという一つの事情〉に改めるのやで。
又これもしっかりと聞き分けるが善い。
さあ/\速やかに世界一列を救けたいばかりの真実誠の神の思惑というものは、日限の刻限の理〈今のこの短い仮の道の間に尽くし運んだ理によって私達の末代の運命が定まってしまうという時間限定の理を諭して下さるのが刻限の理であって、そのような重大な神様の話を、聞いたその場で我が理として心に治めて実践しようとするなら、結構な先々の理が治まると共に、それを実現する為の天然自然順序の理も定まるが、人間に取ってはそれがとても難しい事であるから、遅くともその日の内に聞き分けて治めようとするなら治まる、というように、少しでも通りやすいよう改めて下さる日限の刻限の理〉によって現わして居るのであって、さあ/\そのような真実誠の神のさしづに対する日々の扱い方や、何かの処の心の扱い方通りにそれぞれの末代の運命が定まるという道であり、さあ/\これまでの処で、大難小難の理を用いて救けようとする真実誠の神の守護を喜んで受け取れなかった大きな残念の理を、一つ一つ晴らしてやろうとする為の色々な困難な事情を尋ねるにより、明らか鮮やかな日々の刻限の理によって一つ一つ改めてやると言うのやで。
自分にそんなことが出来るだろうかと不安もお有りでしょうが、ここでごちゃごちゃと後先を考える必要は有りません。
救けたいとばかり思し召しくださっている神様が必ず育ててくださり、お連れ通りくださるのですから、まずはそこに飛び込むのです。
我が身思案を一度捨てて、出来ても出来なくてもやらせていただくのだと、その日のうちに願い出ることで、神様に受け取っていただけるのだと思います。
おさしづは宝を勉強する上で便利な機能
以前、ブラウザの検索機能を紹介しましたが
今回新たに知ったことがあったので、これももしかしたら既に常識で、今まで知らなかった私が無知だったのかもしれませんが、もしも同じように知らなかった方の為に一応紹介しておきます。
また、今後新たに知ったことが有ったらその都度ここに追記していこうと考えております。
今回知ったのは、選択範囲のリンク
おさしづは宝を読ませていただくときに、長文なので、当然一度に全て読むことは出来ません。
そこで、前回読んだところまで簡単に飛べる方法を探しておりました。
スマホの場合は、ブラウザのタブを閉じさえしなければ、途中から読めるのですが、パソコンで読もうとすると、どうしても最初からになってしまう。
pcをシャットダウンしないで、スリープ状態にしておけばブラウザもそのままにしておけるが、出勤などで長時間居ない間にずっとスリープ状態にしておくのはpcにも負荷がかかるし電気代も勿体ない。
そこで今回の選択範囲のリンク。
任意の文字列をドラッグして右クリック
グーグルクロームの場合は「選択範囲へのリンクをコピー」
Microsoft Edge(エッジ)の場合は「強調表示するリンクのコピー」
をクリック

このリンクをpcのメモ帳(スタートボタン>Windows アクセサリ)などに貼り付けて保存しておいて、読みたいときにそのリンクへ移動すれば

最初に選択した文字列の場所へ自動で移動してくれます。
ここからは応用編になります。
更に便利な方法を紹介します。
私は一般には公開されていない、限定公開に設定したブログ(自分しか見れないブログ)に、よく利用するサイトのリンクを貼って、それをグーグルクロームのホームページ(ブラウザを起動して最初に開くページ)に設定しております。

そこのコメント欄をメモとして利用しており、ちょっとしたスケジュールなどを書いています。(画像の黒塗りで隠してある部分)
そこにコピーしたリンクを貼ってコメントに残しておけば


これで簡単に前回読んだところまで飛ぶことが出来ます。
用が済んだらコメントは削除して、また次の部分のリンクを書き込めば何度でも使えます。
もし同じようにブログを使ってやる場合は、ブログサービスはBloggerがおすすめです。
同じように限定公開の設定が出来て、無料ながら広告表示が一切無いので、広告読み込みという無駄な負荷と時間を省けます。
Gメールなどのグーグルアカウントが有れば簡単に開設出来ます。
ブログ内によく利用するサイトのリンクを貼る方法は
記事にそのサイト名などを書いて、その文字列を選択した状態で

メニューバーの中から「リンクを挿入」で簡単に出来ます。
画像などにリンクを貼りたい場合
HTML入力に切り替えて(Bloggerの場合HTMLビュー)

<a href="ここにサイトのURL"><img src=”ここに画像URL”></a>
これを記事本文中に書き込めば出来ますが、申し訳ないですが詳しくは自分で調べてください。
どうしようもない私と世界を見捨てないでくださる親心
素晴らしい藤太郎さん再び目指す。
深谷源次郎先生。
どんな時でも「結構、結構」と言って通られ「結構源さん」の通り名で呼ばれた河原町大教会の初代会長様です。
私はかつてそれに倣ってどんな時でも「素晴らしい。素晴らしいご守護だ」と言って通り「素晴らしい藤太郎さん」と呼ばれるようになろうなどとほざいておりました。
しかし、心から神様を離してしまい、お道の勉強をサボり、このブログもサボって油断している間にお道の心なんてすっかり忘れてしまい、不足をし、埃の心を使い、手前勝手な心と行いばかりで通っておりました。
そんな折に右手の指先を大怪我するというお手入れを頂き、反省をしてお道の勉強とブログを再開して、どうにか頑張ろうとしている日々です。
そしてこれは先日のことでした。
詳しくは言えませんが、個人的にちょっと面白くない出来事がありました。
「以前はこんなんじゃなかったけどな…」
「上手くいかないな」
と不足の心を使ってしまいました。
しかし、こんな私でも「成ってくるのが天の理」「何事もたんのう」ということを、いっちょ前に理屈だけは分かっているものですから「これも神様が自分を救ける為にしてくださっていること。有り難い。素晴らしいご守護だ。」と、直ぐに考えを改めましたが、やはり本心から喜ぶというのは難しいもので、心の奥では不足のままです。
そんな時にふと気が付いたのは、私は日々、親神様の溢れんばかりのご守護によって生かせていただき、何度もギリギリのところで命を助けていただき、これまでお連れ通りいただいてきました。
それなのに毎日のように神様がお喜びくださらない心を使い、ちょっと真面目にお道をやりだしたかと思えばまたサボり、またちょっとお道に進もうとしたかと思えば、直ぐに油断してまたサボるという繰り返し。
最近になってようやくまたお道の勉強とブログを再開し、前回の記事で「自分の都合は一切捨てて」などとかっこいいこと書いたと思ったら
ちょっと不都合なことが起きるともう不足する。
本当にどうしようもない人間で、もし自分がこんな人間を育てる立場なら「コイツはもうダメだ。」と言ってとっくに諦めて見捨ててしまうところです。
きっと神様もこんな私をもどかしく思し召されていたことでしょう。
それなのに親神様はこんな私を決して見捨てることなく、用木としてずっと育てようとしてくださっていたのです。
何をやっても分からない私に、これなら分かるだろうか、今度こそ分かるだろうかと、手を変え品を変え、何度でも何度でもお手入れを下さり、どうにかして育てようと今までずっと苦心惨憺してくださっていたのだと想像出来ます。
そして、これからもきっと同じようにお連れ通りいただけるのだと思います。
そこに気が付いた時、有り難い親心と申し訳なさに涙が出ました。
「成ってくるのが天の理で、どんなことが起きても全ては人間を救ける為の神様のご守護だ」
そういったことを今までは理屈では分かっていましたが、本当に有り難く、こんなにも素晴らしいご守護だったんだと、今回は肌で感じさせていただけました。
このことを胸に刻んで、もう二度とお道をサボることがないように、しっかりと自分の心に鞭打って、もう一度気を引き締めていきたいと思います。
…そうは言っても私のような人間はまた直ぐにお道の心を忘れて勝手な心を使い始めてしまうんですけどね。
この有り難い親心と、何が起きてこようとも「有り難い。素晴らしい。」という気持ちを忘れることのないよう、もう一度素晴らしい藤太郎さんを目指してみたいという思いから今回記事にしました。
…そうは言っても私のような人間は(以下同文)
親神様がもどかしく思し召されるのは私だけではなく、世界もまた同じことだと思います。
今、世界に目を向けてみますと、一部の支配者によって自由な生活を蹂躙されてしまっている人々や、各地で起きる戦争、また、いつどこで、どんな規模の戦争が起きるのかも分からない一触即発の世界情勢など、本当に悲惨な状態です。
人間の我が身勝手な心でこんな悲惨な状態になってしまっている世界をまだまだ見捨てることなく、親神様は世界救けの道を日々思し召しくださっているのだと思います。
悲惨なニュースを目にする度に、我々道に引き寄せられた者が、一刻も早く世界救けの為に成人させていただかねばならないと痛感します。
おさしづは宝明治二十二年に、七分三分の理の解説が有ります。
ここに書くとかなり長くなってしまうため控えておきますが、妹と弟がブログで記事にしておりましたので、そのリンクを貼っておきます。
我さえ良くばの我が身思案や、有るが上にもなんぼでもといった埃の心が横行し、濁りきってしまい、もう一度元の泥海に還して初めからやり直すより他は無いというところまでになってしまった、こんなどうしようもない世界をまだまだ見捨てることなく、どうにかして救けようと苦心惨憺してくださっているのです。
この有り難い親心に触れた時、本当にこんなどうしようもない私でも世界救けにお役立ていただけるのであればどうかお役立ていただきたいという思いと同時に、その為にはまだまだこんなことではいけないという気持ちが湧いてきます。
私達兄弟は、朝早くに起きてお道の勉強をさせていただいております。
私は長らくさぼっておりましたけども
まだ皆が寝ている時間に人より早く起きて、自分の時間を世界救けの為に使わせていただくことで神様がお受け取りくださり、より胸に治まりやすくなるのだと、父が教えてくれたからです。
(私の場合は仕事の出勤退勤の時間が遅いので、午前2時に寝て朝8時に起きるのを「理想」としてます。飽くまで理想です。
昔の記事を見られるのは正直少し恥ずかしいのですが、こちらに詳しく書いています。
朝起き、正直、働き。
朝起きについて教祖は
朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。
と、教えてくださいました。
それは人を起こして回れということではなく、人に起こされるまで寝ているか、人より早く起きて人の為になることをするかで、その徳に大きな違いが有るのだとお聞かせいただきます。
また、徳を積もうとする心はいけないとも教えてくださいました。徳を積もうするのは自分の為だからです。
人の助かるよう、人の喜ぶよう、人の為に使う心に徳がつくのだと教えてくださいます。
また、私は昼の休憩時間に昼食の代わりにおさしづは宝を読ませていただいております。
そうして自分の時間をお供えするのが大切だと父は教えてくれました。
また、食事が身体の栄養なら、お道の話は心の栄養とも聞かせていただきます。
人間の心は弱いもので「なかなかそこまで出来ない」と思ってしまうものですが、神様の話を聞いて「なるほどそうか」と心に治まっただけは心が強くなっていくものと聞かせていただきます。
私自身、ずっとサボっていて、なかなかお道の勉強に心が向かなかったのですが、少しずつ読み始めたことで、今はこうして自分の時間をお供えすることが出来ています。
前回の記事でも言いましたが、我々道の者は世界救けの用木としてお引き寄せいただきました。
危機的状況にあるこのどうしようもない世界を、親神様がまだまだ見捨てないで救けようとしてくださるのですから、我々道の者は今こそ世界救けの為に一歩踏み出さねばなりません。
私が言うのも烏滸がましいですが、このブログを見に来てくださっている方も、何かしら神様の思惑が有って来てくださっているのだと思います。
「神様の思し召しに従って通らせていただきたい。どのような苦労もさせていただきたい。どうかお連れ通りください。」
自分を庇う心を一旦捨てて、そう願い出ることで、世界救けの用木として育てる為の天然自然順序の理が定まると聞かせていただきます。
長らくサボっていた私が言うのもなんですが、ほんの少しずつでも心を向けていただければと思っております。
そして私自身も、今回肌で感じたこの有り難い親心をいつも思い出しながら、どうにかお道の勉強とこのブログを継続していきたい所存です。
…そうは言っても私のような人間は(以下同文)いや、今度こそは…
神様にお願いをするということ
『はじめに』
このお道は、自分や家族の幸せの為にする信仰ではありません。
信仰した人が信仰した分だけ幸せになるような、そんな生ぬるい教えではないはずです。
我々お道の者は、親神様の世界救けの用木としてこの道にお引き寄せいただきました。
自分の都合や幸せなど全部捨てて、お道の為、世界救けの為にお役立ていただき、そうして尽くしただけは、神様が受け取って下さり、末代まで(生まれ変わり、また生まれ変わっても変わることなく)結構にお連れ通りいただける道だと聞かせていただきます。
明治二十三年九月三十日 午後九時
刻限御話
さあ/\話掛ける/\、さあ/\話掛ける、どういう事を話掛ける。くどう/\説いてある、古い/\古うに説いてある。年限経つ、年限の中に年限経つ。よう聞いて諭してくれ。一点という、さづけ一点になった。早うから話てある。第一見分け聞き分け。見分け聞き分け無ければ、取次は要らんものや。皆これも/\どれだけの事情、深い中という理無ければ、長いという理無ければならん。遠い近い言わん。よう聞き分け。どんな事をするのも最初で貰うのも事情理があって始まるもの。始まる深い理早うからその理に理が無くてどうもならん。石の上に種を置く、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾うて了う。生えやせん。心から真実蒔いた種は埋ってある。鍬で掘り返やしても、そこで生えんや外で生える。どんな事も濃い、浅い、甘い、これをよう聞き分けてくれ。今日の日はどれだけ身に一つ不足あって、運ぼうにも運ばれん。くどう/\話説けども、それ/\使いようで理が分かる。この人放って置けん。何も聞き分け。そこで話掛け。もう早う石の上に種を置く。もう生えようか/\。蒔こうかと思うて蒔いた種じゃない。石の上に種を蒔いて、もう生えようか/\。一寸難しいようなものや。大抵若い年寄言わん。見分けてそれだけ頼み置くで。すっきり頼み置くで。
以下、おさしづは宝より
さあ/\話掛ける/\、さあ/\話掛ける、どういう事を話掛ける。
(さあ/\世界が一つに治まる明らか鮮やかな天の道理を話掛ける/\で、さあ/\世界治まる天の道理を話掛けるというても、どういう事を話掛けるかと思うであろう。)
くどう/\説いてある、古い/\古うに説いてある。
(人が人として末永く生かされる為には、濁り切った胸の掃除の為の苦労艱難の道を、自ら願い出て運ばせて貰わなければならないとくどう/\説いてある処の、古い/\ひながたの道がたった一つの世界治まりの理であると、古うに説いてある処の話をするで。)
年限経つ、年限の中に年限経つ。
(神の話を速やかに聞き分けて運ぶ事か出来なくても、年限だけは経つのであって、振り返って見れば、をやの思惑に沿えない残念な年限の理だけが経つ、という事に成るのやで。)
よう聞いて諭してくれ。
(速やかに神の思惑どおりの道を運んで貰いたいという神の話をよう聞いて、皆々が喜んで運ぶ事が出来るよう、きれいに諭してくれと言うのや。)
一点という、さづけ一点になった。
(何事も神様の思惑どおりに運ばせて頂こうと定まった一点という理により、鮮やかなさづけの理が働くという一点に成った、という事に成るのやで。)
早うから話てある。
(皆々に鮮やかなさづけの理を働かせて貰いたいから、早うからこのように話してあるのやで。)
第一見分け聞き分け。
(何事も神様の思惑どおりに運ばせて貰おうと定まった理が、この世治まる第一の理であるという見分け聞き分けが肝心やで。)
見分け聞き分け無ければ、取次は要らんものや。
(この世治まる第一の理の見分け聞き分けが出来なければ、真実の理を伝える為の取次は要らんものや。)
皆これも/\どれだけの事情、深い中という理無ければ、長いという理無ければならん。
(皆どれもこれも/\世界治まる為のただ一つの理を諭すのであるが、どれだけの事情を運んでも、何事も神の思惑どおりの道の実現の為に尽くそうとする深い中という理が無ければ、神が心どおりに働く事が出来んのやから、何時何時変わらぬ長い心を以て、をやの思惑どおりの道の実現の為に尽くそうという誠の理が無ければならんのやで。)
遠い近い言わん。
(真の心に誠が有るなら、速やかに神が受け取って働く事に成るが、出来の良し悪しや、遠い近いは言わんで。)
よう聞き分け。
(どれだけのものを受け取るというのでは無く、親神の思惑に沿おうとする誠一つを受け取って働くという理をよう聞き分けて貰いたいのや。)
どんな事をするのも最初で貰うのも事情理があって始まるもの。
(どんな事をするのも先々を見定めて神か働くからであるが、最初で不思議な守護を貰うのも、先々へ行けば必ず神の思惑どおりの誠の心が治まるという事情理があってこそ、それを実現する為の不思議な救け道が始まるものやで。)
始まる深い理早うからその理に理が無くてどうもならん。
(不思議な神の救け道が始まる為の深い理を治める為には、早うから神の思惑に沿おうとする誠の理が無くてはどうもならんで。)
石の上に種を置く、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾うて了う。
(己の都合をかえりみる事無く、神の思惑どおりの道の実現の為に尽くす理は、真実誠の種として神が受け取り、大きく育てゝ道の為世界救けの為に用いようとして土の中に埋めてあるようなものであるが、目先の守護の為に尽くそうとする勝手な理は、神が受け取れんから、そのまま石の上に種を置くようなものであって、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾って了うという事に成るのやで。)
生えやせん。
(勝手な人間心で運んだ道には、何も生えやせんのや。)
心から真実蒔いた種は埋ってある。
(心から神を思って真実に蒔いた種は、しかと神か受け取って埋めてあるのや。)
鍬で掘り返やしても、そこで生えんや外で生える。
(大きく育てて還してやろうとするのやから、鍬で掘り返やしても種は生きて居るのであって、そこで生えんや外で生えると言うのや。)
どんな事も濃い、浅い、甘い、これをよう聞き分けてくれ。
(どんな事も心通りの守護をするのだが、神に勇み出て貰おうとして、何もかも捨てて道の為世界の為に尽くそうとするような濃い理も、目先の守護の為に尽くす浅い理も、そこまでしなくても十分であろうと思うような甘い理も、皆心どおりの末代の理として定まるのであるが、一旦受け取った理は二度と取り直しの出来ない事に成るのやから、これをよう聞き分けてくれと言うのや。)
今日の日はどれだけ身に一つ不足あって、運ぼうにも運ばれん。
(今日の日はどれだけ身に一つの不足があっても、皆銘々の心どおりの道を実現する為の裏の道を神か通して居るのやから、人間の思いどおりには運ぼうにも運ばれんのや。)
くどう/\話説けども、それ/\使いようで理が分かる。
(それだけの事をくどう/\話し説けども、それぞれの濁り心が邪魔をして神の思惑が伝わらないが、どんな事も喜んで受け取ろうとするような、それ/\の澄み切った心の使いようで、速やかに理が分かるように成るのやで。)
この人放って置けん。
(どんな事も喜んで受け取るなら、この人は放って置けんという事に成るであろう。)
何も聞き分け。
(どんな守護も満足たんのうして受け取るなら、自由自在に神が働いてやる事が出来るのやから、何も案ずる事は無いという理をよう聞き分けるよう。)
そこで話掛け。
(そこでどんな事も心一つだと話し掛けるのやで。)
もう早う石の上に種を置く。
(これまでもう早うから運んできた道は、すっきりと人間思案を捨てて神の思惑どおりに運ぶ事が出来なかったから、神か受け取って土の中に埋めて置く事は出来ず、石の上に種を置くようなものであったやろう。)
もう生えようか/\。
(それが分からなかったから、もう生えようか/\と思うたであろう。)
蒔こうかと思うて蒔いた種じゃない。
(どれだけ年限か経っても芽が出て来ないのは、道の為世界救けの為に蒔こうかと思うて蒔いた種じゃないからやで。)
石の上に種を蒔いて、もう生えようか/\。
(石の上に種を蒔いても芽が出る筈は無く、もう生えようか/\と寂しい思いをするだけや。)
一寸難しいようなものや。
(それぞれの心一つで結構な花が咲いて実がのると言っても、その為の苦しみの道に満足たんのう治めて運ぶ理は、一寸には難しいようなものや。)
大抵若い年寄言わん。
(大きな事は出来なくても、澄み切った真実さえ有れば大抵の事は受け取るのであって、未だ若いとも、十分に年の寄った誠の道であるとも言わんのやで。)
見分けてそれだけ頼み置くで。
(そのような理が人々の心に治まって居るかどうかを見分けて、それだけの理を皆々に伝えてくれるよう頼み置くで。)
すっきり頼み置くで。
(すっきりと人間心を捨てて、どのような事も神の思惑どおりに運ぶよう頼み置くで。)
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教会や布教所で御用をさせていただいておりますと、よく「神様にお願いをした」といった言葉が聞こえてきます。
しかし、その内容に耳を傾けますと
「今日は団参だから雨が降らないようにお願いした」
「◯◯の高校に行きたいから合格出来るようにお願いした」
などといった、自分の都合に添ったお願いばかりであるように思います。
しかし、雨が降るのも晴れるのも、全て神様のご守護です。
その時、その場所に必要な天気をお恵み下さいます。
それなのに、自分の都合だけで雨が降らないようにお願いをする。
高校や大学も、本当にその学校に行くことが自分のためになるのかは人間には分かりません。
「行きたくて頑張って入った学校だけど、その学校に行って人生が狂った。」なんてことだってあり得る訳です。
神様が自分の因縁、自分の徳分に合った学校に行かせようと思し召しくださっているのかも知れません。どこにどんな神様の思いが有るかは分からないのです。
それなのに自分の希望を最優先して、合格出来るようにお願いをする。
(行きたい学校が有ればそこを目指して頑張るのは良いことだと思います。しかし、合格するのも合格しないのも神様のご守護です。自分にとって都合が良いことだけがご守護ではありません。)
冒頭にもお話しました通り、自分のための信仰ではなく、世界救けを目的とした信仰であり、そんな自分の都合由来のお願いを神様は受け取ってはくださいません。
親神の思惑に沿おうとする誠一つを受け取って働くという理
しかし、自分の都合は一切捨てて、神様の思し召しに従って通らせていただきたいという願いは、神様がお喜びくださる誠の心だと思います。
神様の思し召しに従って通らせていただきたい
世界救けの為に尽くさせていただきたい
教祖ひながたの道を辿り、どのような苦労でもさせていただきたい
こういった願いこそ、神様がお受け取りくださるお願いだと思います。
人が人として末永く生かされる為には、濁り切った胸の掃除の為の苦労艱難の道を、自ら願い出て運ばせて貰わなければならないとくどう/\説いてある処の、古い/\ひながたの道がたった一つの世界治まりの理である
全てを神様にお任せし、神様に凭れきって通ると言っても、心の埃が邪魔をしておりますので、口で言うほど容易なことではありません。
自分の力だけで出来ることではありません。
己の都合をかえりみる事無く、神の思惑どおりの道の実現の為に尽くす理は、真実誠の種として神が受け取り、大きく育てゝ道の為世界救けの為に用いようとして土の中に埋めてあるようなものであるが
そこで自分の都合は一切捨てて「神様の思し召しに従って通らせていただきたい。」「その為にはどのような苦労でもさせていただきたい」と願い出ることによって、山のような残念の理(親神様のお心に背き続けてきた親不孝の理)を払っていただき、胸の掃除をしていただく為の、天然自然順序の理が定まると教えていただきます。
そうして始まる苦労の中を、たんのうの心で通らせていただくことを神様がお受け取りくださり、世界救けの為に尽くさせていただくことで末代まで結構にお連れ通りいただけるのです。
目先の守護の為に尽くそうとする勝手な理は、神が受け取れんから、そのまま石の上に種を置くようなものであって、風が吹けば飛んで了う、鳥が来て拾って了うという事に成るのやで。
石の上に種を蒔いても芽が出る筈は無く、もう生えようか/\と寂しい思いをするだけや。
トイレ掃除は徳積みになるらしいからトイレ掃除をする。
身上を救けていただきたいから心定めをする。
家庭で困り事が有るから日参をする。
そういった自分の為に蒔いた種は、どれだけ一生懸命に蒔いていても実ることがありません。
私がまだ布教所の青年会に在籍していたころ。引率として何度もこどもおぢばがえりに参加させていただいておりました。
ある年のこどもおぢばがえりにて、信者さんのお子さんが誘ってくれた友達の子が、怪我をしてしまいました。
足を骨折してしまったと記憶しております。
行きは元気に歩いていたのに、帰りは松葉杖という痛ましいことになり、親御さんにも青年会支部長と副支部長が謝罪に行っておりました。
親御さんは快くお許しくださったのですが、所長先生と、当時若先生と呼ばれていた所長先生の長男さんはお怒りでした。
特に弟は支部長だったため、かなり酷い言われようで、辛い経験をしていたと記憶しております。
これに参った弟の提案で、翌年のこどもおぢばがえり準備期間中に我々は、夜の9時まで青年会活動をして、9時になったら青年会の支部長、副支部長、(私含む)世話係の数人で神殿トイレ掃除をする心定めをして、トイレ掃除が終わったら神殿へ行き、今年のこどもおぢばがえりでは怪我も病気も事故もなく、皆が無事に帰らせていただき、2日間無事に過ごせるようにとお願いをしておりました。
そしてこれは弟から聞いた話ですが、そんなお願いをしているのだということを父に話したそうです。
しかし、父から帰ってきた言葉は
「そんなお願いをしたいのならそこら辺の神社かお寺にでもお願いしてこればいい。」
という意外なものでした。
天理教を信仰しているのに、そこら辺の神社に行くの!?と驚いたのを覚えています。
(神社仏閣といえば「合格祈願」「縁結び」「交通安全」といった、自分の都合を願うことを目的とした所が一般的に多く見られるように思います。世界救けを主目的とした天理教とは、目的が違うという意味であり、決して他宗教を貶める意図はありません。)
今思えばまさに父の言う通りでした。
我々人間は身上や事情、または粗相など、色々と不都合なことを経験するものです。
しかし、それは人間の考えで言えば不都合ではありますが、全ては神様が我々を救ける為、また用木として育てる為に見せてくださるものであります。
参加者から怪我人が出たのも、色んな方々から酷い批判を受けたのも、それを通して我々青年会を育ててくださったのであり、弟はそれによって学んだことも多いと語ります。
全ては我が子想う親神様の温かい親心であり、その出来事こそが我々の為だったのです。
それなのに「そういったことが起こるのは困るから、起きないようにしてください」とお願いする我々の行為は、神様の親心を蹴ってしまっていたようなものでした。
日々救かりたいと願っているくせに、救ける為のお手入れは要らないというのだから笑止千万。
「なってくるのが天の理として全て神様にお任せします。何が起きてもたんのうの心で受け取らせていただきますので、どうかお連れ通りください。」
そうお願いをするのだと父は教えてくれました。
そのお願いによって本当にどんなことが起きるのかは分かりません。もしかしたら怪我人どころの騒ぎでは済まないのかも知れない。中途半端な覚悟で出来ることではありません。
どんな守護も満足たんのうして受け取るなら、自由自在に神が働いてやる事が出来るのやから、何も案ずる事は無いという理をよう聞き分けるよう。
それでもそれが神様なら
我々人間を救けたいばかりと思し召しくださる神様が見せてくださるのなら、何が起きても心配する必要は無い。
全て神様にお任せして、全てを受け入れる。
そこに自分の都合は要りません。自分の運命は全て神様に丸投げです。
神に勇み出て貰おうとして、何もかも捨てて道の為世界の為に尽くそうとするような濃い理も、目先の守護の為に尽くす浅い理も、そこまでしなくても十分であろうと思うような甘い理も、皆心どおりの末代の理として定まるのである
そこから始まるどんな苦労の中もたんのうの心で通らせていただき、常に神様の御教えを求め、神様の思し召しに従って通らせていただきたい。
そんな願いを親神様がお受け取りくださり、天然自然順序の理が定まって、必要に応じてお手入れを下さり、その中をたんのうの心で通らせていただくことで残念の理が払われ、胸の掃除をしていただき、用木となって世界救けに尽くさせていただけるのではないでしょうか。
そうして世界救けに尽くしただけは、末代までも結構にお連れ通りいただけるのだと思います。
逆に、どこまでも自分の都合を優先し、自分の都合の為にお願いをするような信仰をしてしまっていても、自分や家族の幸せの為の信仰をしていても、その運命は心通りに末代まで定まってしまうため、後から取り返すことは出来ません。そんな信仰では勿体ないことになります。
神の話を速やかに聞き分けて運ぶ事か出来なくても、年限だけは経つのであって、振り返って見れば、をやの思惑に沿えない残念な年限の理だけが経つ
今まで私はお道の勉強をサボり、このブログもサボっていたために、残念な年限だけを積み重ねてしまっておりました。
今の仮の道ではそれでも通れますが、そんな私のいい加減な信仰も末代まで定まってしまうため、本当に勿体ない時間を過ごしてしまっておりました。
自分の幸せの為の信仰。自分の都合を優先したお願いからは切り替えて、自分の都合や幸せは全部捨てて、世界救けの為に尽くさせていただく道を通らせていただきたいものです。
「おさしづは宝」再び移転と検索機能
おさしづは宝を、当ブログと同じくはてなブログに掲載しておりましたが、はてなブログの場合、無料プランだと、スマホで見ると記事本文中に広告が大きく表示されてしまいます。
私のような駄ブログなら良いのですが、おさしづの勉強をさせていただく上では邪魔になり、またスマホから見る場合は誤タップの可能性もあるため、広告の一切無い、最初のBloggerへ再度移転しました。
二度目の移転となり、ご迷惑おかけします。
また、途中まで読んだところが見つけやすいように、記事の最初に各月ごとの目次を追加しました。
*余談*
ここからは余談となりますが、最近知った、おさしづは宝からお道の勉強をする上で大変便利な検索機能をご紹介します。
ブログを書く上で間違ったことは書けないため、現在執筆中の記事を書く中で、おさしづは宝より勉強したい言葉がありました。
長文の「おさしづは宝」の中から特定の言葉だけを探す検索方法を調べて今回知ったことがあります。
もしかしたらこんなことは既に常識で、今更知った私が無知なのかもしれませんが、まだ知らない方の為に紹介しておきます。
今回知ったのは、ブラウザのサイト内検索機能。
例えば「おさしづは宝」より「順序の理」を探したい場合。
パソコン(グーグル・クローム)の場合、右上の︙から「検索…」(もしくはctrl+F)で

検索バーが出てきます。

そこに検索したい言葉を入れて検索すると、見つけやすいように対象の言葉がハイライト表示されます。
更に右側のスクロールバーでも、対象の言葉がどこに有るかが分かるようになっています。

スマホにも検索機能が有ります。
アイフォンは使ったことが無いので分かりませんが、調べたところ機能は有るそうです。
Androidの場合、同じく右上の︙から

ページ内検索を選択すると

同じように対象の文字がハイライト表示され、右のスクロールバーから次の文章へ飛ぶことが出来ます。

分からない単語が出てきた時は、同じ言葉を探して沢山の文章を読むことで、より理解しやすくなると思います。
押して貰えると喜ぶボタン
「おさしづは宝」お詫びと訂正
osasiduha-takara.hatenablog.com
「おさしづは宝」は、父がおさしづを研究して、読みやすく解釈したものですが、その時代、その時旬に合わせて解釈が変わるとのこと。
今の時代に合った解釈を父が執筆中ですが、以前こちらには、手違いで過去の解釈のものを掲載してしまっておりました。
以前のものは削除して、最新のものを改めて掲載しました。
大変失礼しました。
苦しい時こそボーナスステージ
世の中には、身上や事情によって辛いこと、苦しいことは沢山あると思います。
しかし、この神様は苦しめよう困らせようとの神様ではないと聞かせていただきます。
むしろ
にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる
救ける模様ばかりを思っている
救けることばかりを考えてくださっているとお聞かせいただきます。
では、なぜ辛いこと、苦しいことが有るのか。
親神様は今すぐにでも子供たちを楽にしてあげたい、幸せにしてあげたい。しかし、それでは通れない、真に救けることが出来ないから、一時的な苦しみを与えて下さるのであり、本当に辛いのは、何も知らない子供に苦労をさせなければならない親神様なんだと、父は教えてくれました。
にんけんもこ共かわいであろをがな
それをふもをてしやんしてくれ
(人間も子供可愛いであろうがな それを思って思案してくれ)
と、お聞かせいただきます。
親であれば、子供の苦しむ姿は自分が苦しむ以上に辛いもの。
それでも、真から救ける為に一時的にお与え下さる苦しみが「身上、事情」です。
この「身上、事情」の苦しみによって悪い因縁を払って下さる、また、自分の心得違いを教えてくださいます。
その苦しい、辛い時こそたんのうの心で受け取らせていただくことが本当にたすかる方法ではないかと思います。
おさしづに
ならん中たんのうするは、前生さんげ/\と言う。
不自由の処たんのうするはたんのう。徳を積むという。受け取るという。
いんねんという、いんねん一つの理は、たんのうより外に受け取る理は無い。よう聞き分け。しっかり一つたんのうの理を治めてくれ/\。
と、教えていただきます。
ならん中、不自由の中をたんのうするのは簡単なことではありませんが、その中をたんのうすることが、前生因縁のさんげ(懺悔)であり、徳を積むものであり、それ以外に受け取っていただく理は無いとまでお聞かせいただきます。
「たんのう」とはよく味わい、満足することだと父は教えてくれました。
世間一般で「堪能」というと「中華料理を堪能する」「温泉旅行を堪能する」などと使うと思います。
中華料理を少し食べて「あんまし好きじゃないんだよな。」と言って不満のまま終わったら「中華料理を堪能した」とは言いません。
美味しい中華料理をよく味わい、心ゆくまでしっかり食べて、味も量も十分に満足したなら、堪能したと言えます。
温泉に入って「ぬるいしお湯汚えし、最悪」と言って帰ったら「温泉旅行を堪能した」とは言えません。
良い湯にしっかり浸かって、しっかり楽しむことが出来たなら堪能したと言えるでしょう。
それと同じことだと思います。
天理教でたんのうと言えば、とにかく喜べばいいと勘違いされがち…と、言うより私は以前、そう勘違いしておりました。
しかし、辛いものを無理に喜べということではありません。
辛いものは辛い。苦しいものは苦しい。
でもその苦しみをしっかりと味わい、これも救けていただく為の神様のご守護だ。これで良いんだ。結構なんだと感謝して十分に満足すること。
時には不足してしまう時も有りましょうが、そこで不足したままで終わるか、思い改め「いや、これで良いんだ。結構だ。」と感謝して心の向きを変えるのかは、大きな違いだと思います。
その心を神様がお受け取りくださり、救けていただけるのだと教えていただいております。
私は24年間、とある布教所に住み込みで勤めておりました。
(余談にはなりますが、うちの教会では、住み込みで勤めることを「入り込み」「入り込み者」と呼称しておりますが、天理教一般ではその言葉は通じない。普通は「伏せ込み」と言うと、修養科中に他所の教会の信者さんより教えてもらいました。
同じ教会の方や、天理教信者以外の方が読まれた時にも通じるよう、このブログでは住み込みと呼称することにします。)
住み込み時代の所長は、先代の所長先生でした。
この所長先生と、その長女さんに大変苦しめられた経験が有ります。
元々は尊敬出来る先生でしたが、ある時を境に、やることなすことが酷くなっていきました。
かつては信仰の上で参考になることも沢山教えて下さいましたが、晩年はお道とは関係の無い愚痴、八つ当たり、小言ばかり。
布教師としてどうこうではない、お道の人としてどうこうではない。人としてそれはどうなの?といった悪行の数々。
あまり詳しく書くと悪口になってしまうため、これ以上は言えませんが、とにかく酷いものでした。
体裁は大好きなので外から来る信者さんにはいい顔をするため、たまに来る信者さんは所長先生を信じていましたが、内情を良く知る信者さんからは
「入り込み者の人達はよく耐えられるね。出ていきたいとは思わないの?」
と聞かれたものです。
朝勤めの時など、奥からお出ましになられると、廊下と所長の自室の間の扉が「キー」という、神殿からでもよく聞こえる音を立てるのですが、その音を聞いただけで嫌悪感から吐き気がしたのを今でもよく覚えています。
住み込みの者同士で顔を見合わせ「うわ…出てきた」などと小声でぼやいていました。
そんな風に不足をしながら過ごしていたある時に気がついたのです。
お道を聞かせていただいている以上、教祖ひながたの道を通らせていただかねばならない。もっと苦労をさせていただかねばならない。
理屈では分かってはいるが、自ら苦労をしようと思ってもなかなか出来ないし、具体的にどうすれば良いのか分からない。
そう考えていたところ、よく考えたら今の状況こそ苦労ではないのかということ。
今この状況こそ神様が我々にお与え下された苦労であり、この苦労を、たんのうの心で通らせていただけるだけで、どれだけ救けていただけるか分からない。
上級教会の初代会長様は
「難儀結構苦労が財産」
と教えてくださいました。
その財産を、放っておいたってあの二人がドンドン持ってきてくれる。
こんなのボーナスステージじゃないか。
こんな有り難いことは無い。
そう思ったら嬉しくて嬉しくて仕方がありませんでした。
所長不在のある日、住み込みの男連中で、所長親子の悪行をこのままにしておいていいのか、といった話をしていたところ
「俺はこの状況を喜んでいるよ。」
と言ったら
「藤太郎君Mなんじゃない?」
と、冗談半分で言われてしまいました。
Mではありませんよ。
喜んでいるとは言っても、辛いというのもまた本心です。
しかし、折角神様からお与え頂いたこのボーナスステージ。
たんのうの心で通らせていただかなければ勿体ない。
神様は本当は所長のような間違った道を歩むものを、今すぐにでも出直させて、やり直させてあげたい。
それでもより多くの者を救ける為に、心を砕いて一時的に置いてくださっているのだと父は教えてくれました。
で、あればこそ、尚更不足して通っていては勿体ないし、申し訳ない。
「身上・事情は道の花」
お道の人にとって苦しい時こそボーナスステージです。
この辛く苦しいボーナスステージで、常に心に神様を置いて、如何に心を倒さずに通れるかが重要かと思います。
修養科では、同期は男しか居なかったので、詰所では女子主任代理の役目を頂きました。
先輩の女子主任がもう4日後には修養科を終えて教会に帰るという状況。
女子主任が勤める日々の御用が有るのですが、先輩女子主任が半月で覚えたことを、四日で覚えなければならないと言われた時は絶望でした。
しかも、女子主任の御用だけでなく、会長室の掃除も覚えなければならない。
人間ってこんな短期間にこんなにも沢山のことを覚えらえるのか?と本気で頭を抱えていました。
先輩が急遽専用のマニュアルを作って下さったため、それを抱えて、学校や詰所の自由時間など、常に開いては頭に入れようと必死でした。
(あのマニュアルがなければどうにも出来なかったのだが、急遽作って下さったと後になって知ったため、そのお礼を言えてないのが無念。)
考えること、覚えることが多すぎて、更には朝が早いため寝不足も重なって、頭がボーッとして軽い頭痛と軽い目眩のようになっていたことが数日有りました。
私は目立ちたがり屋な性分なので、同期の男たちに「無理だ」「覚えられねえ」と声を大にしてぼやいていました。
今思うと鬱陶しかっただろうなと思います。(同期の皆、申し訳ない)
私がぼやいてばかり居るので、同期の男たちには私が不足しているように見えたでしょう。
しかし、実を言うと嬉しかったというのが本心です。
折角教祖の膝下で三ヶ月過ごさせていただくので、苦労がしたい。教祖ひながたの真似事だけでもさせていただきたいと思って修養科へと望みました。
本来入るべき詰所がコロナで入所不可となった為、仮受け入れ先の詰所で約二週間過ごしていましたが、本来の詰所に比べて自由時間も多く、割とのんびりと過ごすことが出来ていて、言い方は悪いですが、拍子抜けというのが本心でしたので、いよいよ大変な時が来たと喜んでいました。
毎晩寝る前に結構な苦労をお与え下さったことにお礼を申し上げておりました。
修養科が終わり、就職活動が始まり、ある会社で採用していただけることになり、そこで働いておりましたが、そこでは仕事も合わないことや、人間関係などからストレスを抱えてしまい、体調にまで変化が有ったために、数ヶ月で辞めてしまいました。
修養科を終え、自由な時間が増えて心が緩んでしまったのでしょう。
自ら苦労を求める心はどこかへ行ってしまっていたようです。
ちょっと油断して心から神様を離してしまうと、もうこのザマです。
どんな時も神様を心から離さず、艱難苦労を自ら求める心で通れる努力を、忘れないようにしたいものです。




