そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

おさしづにお伺い

先日ふと気になった事が有ったのでおさしづにお伺いしました。

心を落ち着けて、余分な人間心を出さぬよう、真に神様のお心を求める気持ちで開く
必ず何か教えて下さいます。

 

神殿でお願いをして、手に取ったおさしづの本のページを適当に開く

しかし、全く関係無さそうなおさしづが出ました。


何か真実が足りなかったかも知れない
もう一度心を落ち着けておさしづを開いたところ、まさにそのお伺いにピッタリなおさしづが有り、その件は無事に済みました。

教えて頂いた事をお礼してその場はそれで終わったのですが、どうしても引っかかる事が有った。



それは、最初に開いた全く関係無さそうなおさしづに書いて有ったお言葉
「妬み嫉みが醜い」
というようなお言葉でした
(偶然開いてそのまま閉じてしまったため、何年何月何日のおさしづか覚えてない)
ボクはどっちかと言えば、良くも悪くも(自他共に認める)ドライな性格
嫌なことが有っても大抵の事はすぐにどうでも良くなってしまうし、空気も読むのも下手

妬みだの何だのとはほぼ無縁な性格だと自分では思っているので、全く心当たりの無いおさしづ




何故そんなお言葉が突然出てきたのか

今まで読ませて頂いた中でそのような言葉は滅多に出てくるものでもない


それだけに印象に残り、もしかしたらあれは親神様がボクに何か教えて下さっているのではないか。


あまりにも気になったのでもう一度おさしづにお伺いしてみる。



しかし、これまた全く関係無さそうなおさしづばかりが開かれる。



これは一体どういう事か

そこでふと、自分の心に目を向けてみた

毎週、月水金はボクら入り込みの者が朝づとめの後にお話をする

ボクは神様にお伺いしながらも
「これは上手く行けば今度の俺の話の番でいいネタが出来るのではないか」
「しかも、あわよくば『ほほう!藤太郎がいい話をするじゃないか』ぐらいに思われるのではないか」
こんな汚い感情が入り混じっていました

これでは神様に受け取って頂けない!


よくお詫びをし、もう一度お伺いをする

あれはきっと神様がボクに何かを教えて下さっているのだから、しっかりと受け取らせて頂かねばならない。どうか教えて下さい。



そうお願いをして、ふと、手に持っているおさしづの本(閉じた状態)に目を落とす
すると、ほんの少しだけ隙間の有るページが有った

急いでそこに指を挟んで開いてみる

そこにはこのように書かれていました

さあ/\又々話し掛ける。随分々々綺麗な/\、日々綺麗な事は誰も好く。くどいくどい話せにゃ分からん。何名何人の中、万事に一つの理が欠ける。治まりた心生涯の理治めるなら十分の理、何も言う事は無い。今まではそも/\であって、見難くうて/\どうもならなんだ。年限を待ち兼ねた。秋の大祭や、春の大祭や。待ち兼ねた/\。戻る子供の真実ありゃこそ、何事も無く治まりてある。これ働き有るか無いか、思やんしてみよ。可哀想に/\どういうもので、雨が降る風が吹くと思うやろ。よう思やんしてみよ。中に綺麗なものは誰も好く、神も好く。神も好くような心なら、こりゃ障りやどうやとは無いもの。これだけ早く諭したら、十分諭しあれど、ほんのその場だけ聞いただけでは、どんならん。これが第一どんならん。これより真を定めてくれるなら、何も怖わき危なきは無い。これからよう改めてくれ。何かの事もこれから、何人々々扱い、事務所、詰所、何人頭数あろが、笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。よう聞き分け。

 

今年の年頭の記事(アホアホでいいんじゃない)にも書きましたが、ボクは役立たずです。

そして弟は間に合う人間です。

 

大事な用事等は弟がよく頼まれます

ボクが目の前に居るのに「○○君は?」と聞いてくる
用事を聞くと「~を頼みたい」とか言う

 

そんなもんわざわざ弟を探さずとも、俺がここに居るんだから俺に言えばいいだろ。


そして雑用等はボクが頼まれる

目の前に弟がいたってわざわざボクを探してくる
用事を聞くと「~をやって欲しい」とか言う


何も俺じゃなくても弟がそこに居たんだからそっちに頼めばいいだろ。


毎回とは言わないが大体こんな調子
それがとても嫌だった



しかし、仮に俺が大事な用事を頼まれたところできちんと出来るのか?

何かしら一つ二つ抜けてる事が多い
毎日のやるべき事も出来てない事が有ったり


そりゃ相手にしてみれば不安の残る奴に頼むよりは、きちんとこなし、しかもよく気がつく方に頼みたいだろう
雑用なんかは他の用事で忙しそうな者よりも何だか雑魚っぽい奴の方が頼みやすいだろう

それは当然の心境

でもそれが気に入らなかった




ボクは知らず知らずのうちに妬みの心を使っていたのです

ボクは間に合う人間目指してここに居るんじゃない
神様にお喜び頂けるよう
僅かながらも神様のお役に立てるよう

それが目的のはず(それすら出来ていないのですが)



いつの間にか神様に残念に思われる心遣いをしていた

きっと神様はそれを教えて下さったのでしょう



「笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。」
先日弟がある方とちょっとした言い争いになりました



普段は仲がいいのですが、ちょっとした事から言い争いになり、最後には弟が折れて謝っていました。
その時に父に相談したらしく、父からの言葉は
「皆仲良くが神の望みと教えて頂いている」
とのことでした。

その言葉から反省した弟は、それ以来態度を改めたのですが

確かに兄弟同士で醜い心を使いあっていて、きっと神様はボクらに残念な想いをしておられた事かと思います。


「笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。」


皆が笑って陽気に、助け合い、支えあって暮らす事が出来ればきっと神様もお喜び頂けるはず


そんな風に反省しました


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ここで今更本題ですが


父の影響から
ボクは何か分からない事があればこうしておさしづにお伺いしようとする
「さしづ通りにすれば間違う事は無い」

とのお言葉もある通り、どんな事もおさしづにお伺いし、それに従って通ることが大事だと思います。


しかし、周りの人達を見ていると、身上事情を見せて頂くとおさしづを開こうとする人は殆ど居ません。


先生と呼ばれる立場の人達に「お練り合い」をお願いし、「先生」もまたおさしづにお伺いする事を知らず、「勤めを増やせ」「日参しろ」それで結果が出ないと「これだけ勤めているのに何故だろう」と悩んでいます。



神様がどのような想いで理を見せて下さっているか、それを自分の考えだけでものを言っている。
ただ「助かりたい、よくなりたい」で勤めていたって何の解決にもならないのではないか

子供救けたい親神様のご守護を有り難く堪能の心で受け取らせて頂く事が大切なのではないか
そんな風に思うわけです

それは父から沢山の事を教えて頂いているからこそそう思えるのですが…




黒きは黒き赤きは赤きに連れられ







と、おさしづに有ります


人間の理を立て、人間に従う人はそのまま人間に連れられるだけです

しかし、神様の直接のお言葉であるおふでさき、おさしづに従うなら、神様が連れて通って下さいます。
常に神様を心に置いて、おさしづに従って通らせて頂くならどんな時も神様にお連れ通り頂けると教えて貰いました。