素晴らしい藤太郎さん再び目指す。
深谷源次郎先生。
どんな時でも「結構、結構」と言って通られ「結構源さん」の通り名で呼ばれた河原町大教会の初代会長様です。
私はかつてそれに倣ってどんな時でも「素晴らしい。素晴らしいご守護だ」と言って通り「素晴らしい藤太郎さん」と呼ばれるようになろうなどとほざいておりました。
しかし、心から神様を離してしまい、お道の勉強をサボり、このブログもサボって油断している間にお道の心なんてすっかり忘れてしまい、不足をし、埃の心を使い、手前勝手な心と行いばかりで通っておりました。
そんな折に右手の指先を大怪我するというお手入れを頂き、反省をしてお道の勉強とブログを再開して、どうにか頑張ろうとしている日々です。
そしてこれは先日のことでした。
詳しくは言えませんが、個人的にちょっと面白くない出来事がありました。
「以前はこんなんじゃなかったけどな…」
「上手くいかないな」
と不足の心を使ってしまいました。
しかし、こんな私でも「成ってくるのが天の理」「何事もたんのう」ということを、いっちょ前に理屈だけは分かっているものですから「これも神様が自分を救ける為にしてくださっていること。有り難い。素晴らしいご守護だ。」と、直ぐに考えを改めましたが、やはり本心から喜ぶというのは難しいもので、心の奥では不足のままです。
そんな時にふと気が付いたのは、私は日々、親神様の溢れんばかりのご守護によって生かせていただき、何度もギリギリのところで命を助けていただき、これまでお連れ通りいただいてきました。
それなのに毎日のように神様がお喜びくださらない心を使い、ちょっと真面目にお道をやりだしたかと思えばまたサボり、またちょっとお道に進もうとしたかと思えば、直ぐに油断してまたサボるという繰り返し。
最近になってようやくまたお道の勉強とブログを再開し、前回の記事で「自分の都合は一切捨てて」などとかっこいいこと書いたと思ったら
ちょっと不都合なことが起きるともう不足する。
本当にどうしようもない人間で、もし自分がこんな人間を育てる立場なら「コイツはもうダメだ。」と言ってとっくに諦めて見捨ててしまうところです。
きっと神様もこんな私をもどかしく思し召されていたことでしょう。
それなのに親神様はこんな私を決して見捨てることなく、用木としてずっと育てようとしてくださっていたのです。
何をやっても分からない私に、これなら分かるだろうか、今度こそ分かるだろうかと、手を変え品を変え、何度でも何度でもお手入れを下さり、どうにかして育てようと今までずっと苦心惨憺してくださっていたのだと想像出来ます。
そして、これからもきっと同じようにお連れ通りいただけるのだと思います。
そこに気が付いた時、有り難い親心と申し訳なさに涙が出ました。
「成ってくるのが天の理で、どんなことが起きても全ては人間を救ける為の神様のご守護だ」
そういったことを今までは理屈では分かっていましたが、本当に有り難く、こんなにも素晴らしいご守護だったんだと、今回は肌で感じさせていただけました。
このことを胸に刻んで、もう二度とお道をサボることがないように、しっかりと自分の心に鞭打って、もう一度気を引き締めていきたいと思います。
…そうは言っても私のような人間はまた直ぐにお道の心を忘れて勝手な心を使い始めてしまうんですけどね。
この有り難い親心と、何が起きてこようとも「有り難い。素晴らしい。」という気持ちを忘れることのないよう、もう一度素晴らしい藤太郎さんを目指してみたいという思いから今回記事にしました。
…そうは言っても私のような人間は(以下同文)
親神様がもどかしく思し召されるのは私だけではなく、世界もまた同じことだと思います。
今、世界に目を向けてみますと、一部の支配者によって自由な生活を蹂躙されてしまっている人々や、各地で起きる戦争、また、いつどこで、どんな規模の戦争が起きるのかも分からない一触即発の世界情勢など、本当に悲惨な状態です。
人間の我が身勝手な心でこんな悲惨な状態になってしまっている世界をまだまだ見捨てることなく、親神様は世界救けの道を日々思し召しくださっているのだと思います。
悲惨なニュースを目にする度に、我々道に引き寄せられた者が、一刻も早く世界救けの為に成人させていただかねばならないと痛感します。
おさしづは宝明治二十二年に、七分三分の理の解説が有ります。
ここに書くとかなり長くなってしまうため控えておきますが、妹と弟がブログで記事にしておりましたので、そのリンクを貼っておきます。
我さえ良くばの我が身思案や、有るが上にもなんぼでもといった埃の心が横行し、濁りきってしまい、もう一度元の泥海に還して初めからやり直すより他は無いというところまでになってしまった、こんなどうしようもない世界をまだまだ見捨てることなく、どうにかして救けようと苦心惨憺してくださっているのです。
この有り難い親心に触れた時、本当にこんなどうしようもない私でも世界救けにお役立ていただけるのであればどうかお役立ていただきたいという思いと同時に、その為にはまだまだこんなことではいけないという気持ちが湧いてきます。
私達兄弟は、朝早くに起きてお道の勉強をさせていただいております。
私は長らくさぼっておりましたけども
まだ皆が寝ている時間に人より早く起きて、自分の時間を世界救けの為に使わせていただくことで神様がお受け取りくださり、より胸に治まりやすくなるのだと、父が教えてくれたからです。
(私の場合は仕事の出勤退勤の時間が遅いので、午前2時に寝て朝8時に起きるのを「理想」としてます。飽くまで理想です。
昔の記事を見られるのは正直少し恥ずかしいのですが、こちらに詳しく書いています。
朝起き、正直、働き。
朝起きについて教祖は
朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。
と、教えてくださいました。
それは人を起こして回れということではなく、人に起こされるまで寝ているか、人より早く起きて人の為になることをするかで、その徳に大きな違いが有るのだとお聞かせいただきます。
また、徳を積もうとする心はいけないとも教えてくださいました。徳を積もうするのは自分の為だからです。
人の助かるよう、人の喜ぶよう、人の為に使う心に徳がつくのだと教えてくださいます。
また、私は昼の休憩時間に昼食の代わりにおさしづは宝を読ませていただいております。
そうして自分の時間をお供えするのが大切だと父は教えてくれました。
また、食事が身体の栄養なら、お道の話は心の栄養とも聞かせていただきます。
人間の心は弱いもので「なかなかそこまで出来ない」と思ってしまうものですが、神様の話を聞いて「なるほどそうか」と心に治まっただけは心が強くなっていくものと聞かせていただきます。
私自身、ずっとサボっていて、なかなかお道の勉強に心が向かなかったのですが、少しずつ読み始めたことで、今はこうして自分の時間をお供えすることが出来ています。
前回の記事でも言いましたが、我々道の者は世界救けの用木としてお引き寄せいただきました。
危機的状況にあるこのどうしようもない世界を、親神様がまだまだ見捨てないで救けようとしてくださるのですから、我々道の者は今こそ世界救けの為に一歩踏み出さねばなりません。
私が言うのも烏滸がましいですが、このブログを見に来てくださっている方も、何かしら神様の思惑が有って来てくださっているのだと思います。
「神様の思し召しに従って通らせていただきたい。どのような苦労もさせていただきたい。どうかお連れ通りください。」
自分を庇う心を一旦捨てて、そう願い出ることで、世界救けの用木として育てる為の天然自然順序の理が定まると聞かせていただきます。
長らくサボっていた私が言うのもなんですが、ほんの少しずつでも心を向けていただければと思っております。
そして私自身も、今回肌で感じたこの有り難い親心をいつも思い出しながら、どうにかお道の勉強とこのブログを継続していきたい所存です。
…そうは言っても私のような人間は(以下同文)いや、今度こそは…