今月の青年会例会で、終席なんて立派なものじゃ有りませんが、一番最後に話を努めさせて頂きました。
少し抵抗有りますが、その話を全文アップします。
毎月発行させて頂いている「○○」(名前は隠してます)で用語研究のコーナーをやらせて頂いています。一番最初に「徳」という言葉を研究したものを載せて、そのときはまだよかったんですが、二回目では「にをいがけ」で記事を書きまして、見てもらったところ不評でした。父にも見てもらったんですが、今回は載せるのは辞めた方がいいと言われ、休載する事になりました。 お道のお話を書くのに自分の考えではまともな記事など書けません。神様のお働きがあり、神様が書かせて下さるから文章が書けます。その後父から電話が有り「休み時間にもお道の勉強した方がいい」と言われました。父が言うには休憩時間は自分の時間であり、その自分の時間を自分の為ではなく、お道の御用に使わせて頂くからこそ神様が働いて下さり、お話がよく分かるのだと教えてもらいました。 最初の「徳」の用語を記事にしていたときは、まだいくらかよかったのですが、最近はすっかりお道の心が抜けてしまって、お道の勉強をさせて頂こうという気が全く起きず、因縁の心にドップリと浸かってしまい、そこから抜け出せない毎日を送っていたので、この機会にもう少しお道の勉強をさせて頂かなければと、反省しました。 お道の勉強をさせて頂くのにはやはり「おさしづ」「おふでさき」「みかぐらうた」の三つの原典が一番大切だと思います。神様の直接のお言葉です。教祖は人の口を通した分だけずれていくと教えて下さいました。しかし、おさしづを読ませて頂いても、本当に難しく、読んでてさっぱりです。 父が毎日おさしづの研究をしているそうです。実際休みの日に家に帰っても本当にパソコンの前に向かっておさしづの勉強ばかりしています。自分の事をやってる姿をあまり見ません。ボクが子供の頃、父はテレビが好きだったように思いますが、今は殆ど見てないし、酒もたばこもきっぱり辞めてしまい、毎日お道の勉強に没頭しています。 その父が言うには、おさしづの中で分からない言葉はおさしづで調べるそうです。 例えばおさしづに『神一条』と言うお言葉が出て来ます。人間的に知恵だけで考えれば意味だけは理解出来るかも知れませんが、神様のお心にある『神一条』とはどんな意味を示すのかは分かりません。 そこで『神一条』と言う言葉が出て来るおさしづを一つに纏めて読ませて頂く。すると父曰く、『神一条』の意味が解ってくるそうです。 それを聞いて自分もある程度纏めて読ませて頂いたんですが、それでもさっぱり分かりません。 でもボクの場合、分らないと思って投げ出すからダメなんですね。同じく正人がおさしづの中に出て来る『誠』というお言葉の意味を調べていて、朧げながらにも分かって来た事を教えてくれました。「ああ、なるほどな」と納得しました。ボクは読んでも分からなかったので、「俺はそういう理解力が無いからダメだな」と言いましたら、正人が言うには、自分も読んでいてさっぱり分からなかったそうです。 以前に正人は「自由自在」というお言葉を調べていまして、あの時は確かに「ダメだ、わからん」と言っていました。でも、分からないながらも読み終わった時、ふと「あ、こういう事なのか?」と自然に頭に浮かんできたそうです。確かに考えてみれば頭の良い悪いで出来る道ではないように思います。 木は水を求めて下へ下へと根っこを伸ばします。それと同じだと父から教えてもらいました。水と神とは同じ事と教えて頂きますように、低い低い心で分からないながらも神様のお心を求める事が大事だと教えてくれました。 それを実感する体験があります。いつも分からない事や迷う事が有ると、おさしづにお伺いします。おさしづの本を手にして神様にお願いをし、ぱっと開いたページを見るとそれにピッタリと合ったおさしづがあるんです。 以前はそうやって「これは神様がこう教えて下さっている」と思える事がよく有ったのですが、最近は全く関係なさそうなおさしづが開かれる事が多く、何かしっくり来ない事が続いていました。それだけ自分の心が歪んでいたのでしょうか。 父はいつもおさしづを研究して、おさしづを解釈したものを皆に配っています。それを読んでくれる人が沢山います。ボクもそれを貰うんですが、その中で特に心に残ったおさしづの一部分に さしづのついでに尋ねに出る。ついでゝは、心胆さしづ出来ぬ。 と、あります。父の解釈によると、 と解釈がしてあります。 |