そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

ちょっとだけ再開 おさしづにお伺い

4/7青年会例会に支部長、副支部長が共に不在で、ボクが代理で中心となって行われる事に。




勿論一番最後のお話も指名されてしまった。(終席と言える程の事では有りません)


何を話そうか…

次にこんな機会が有ったら「この話」ってのが有ったけど、それは毎月発行している当布教所の月刊誌の投稿ページに載せてしまった。

何より最近の緩みきった心では、何も話が思いつかない。


そう思ってる時に26日、ご本部(天理教教会本部)に行かせて頂く事になった。

おぢばでもう一度心引き締めようと喜んで行かせて頂いた。


神殿でおつとめをして、教祖殿に座り、深く深く頭を下げた…と、言うよりうなだれた


申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
これからは心入れ替えて…て、言えない。

反省してはお詫びし、反省してはお詫び・・・・・・何度繰り返す気か。




ただただ申し訳ないばかりで頭を上げる事の出来なかった時、ふと、ひとつの思いが胸をよぎった


(「折角話すんだから、カッコ悪い話はしたくないな」という思いが俺には有ったんだな)

話す事が何も無いとか言いながら、実は本当に無いわけでは無かったんです。

ただ、こんな話をすると自分がカッコ悪くなるから、折角思いついた話をいつの間にか自分でどこかへ隠してしまっていた。


そうか、こんな心が有ったんだ。この心がいけなかった。

それならもう、どれだけカッコ悪い話でもいい!「所詮藤太郎」「結局藤太郎」と言われようと、神様の話をしっかり伝えられる話にしよう!

自分はどんな風に思われてもいい、神様にお喜び頂ける話をボクに教えて下さい!


そう教祖にお願いして帰り、すぐに話を考えたところ、スラスラと思い付く。

これはやっぱり親神様や教祖が教えて下さっているんだと、本当に思えた。

ただ、それでも何度か心が緩みそうになります。

そんな時は神殿に座って、心を集中させます。


そんなある時、ふと「今神様が何か教えて下さるのではないか?おさしづを開いいた方がいいのでは?」という思いが頭をよぎった。

おさしづを開いたところ




 

これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。

 

とのおさしづが




ビックリした!
 

確かに軽くしていた。考えてみれば話の中に埋め合わせのようにおさしづを入れていたように思う。






そんなこんなで何とかお話は完成しました。




いざ当日の夕方になってふと思った。

今まで青年会例会を単に月例行事だと軽くしていたが、青年会として大切な行事の筈だが、この日に支部長、副支部長ともに不在とは、何か節を迎えているのではないか。神様の大きな思惑が有るのではないか。

そう考えながら女鳴物の準備をしていたら胡弓の糸が切れてしまった。


うわぁ…




自分は特に大きな節目なのかも…

先案じはいけないと分かっていながらもやはり不安を感じざるを得ない…

あの時のあれがいけなかったのか?ここがいけなかったのか?これからどうやって通るべきなのか?


そんな思いが交錯していたその時、またまたふと神様が何かを教えて下さる気がした

神殿に座り、おさしづを開く。その時のおさしづ




 

 

さあ/\尋ねる事情/\、さあ/\尋ねる処は、余儀無く尋ねるであろ。まあ一つどういう事にも何よの事もどういうもので、こういう事になると思う。思うやない。どんな事も、こんな事も、世上にも同じ事、中に一つ、まあ危ない処も遁れるは、年々の道理で遁れる。どけな辺所な所、もう危ない所でも、残りて来るは頼りた理である。又、わき/\の処、内々何故であろうと思う。思うやない。必ず思うやない。どんな難しい中でも、抜けて救かる処、聞き分けにゃならん。何でこういう事になると必ず思わず、よう聞き分け。道というは、世上は同じ一つ通りて居る。頼りありても分からん。こんな事と思う。思うやない/\。どんな事あろうが、この心理に皆一つの理なら、明らかなる処に成る程に。案じな/\。安心して居よ/\。どんな事あろうが、こんな事あろうが、道の上ならどんな事あろうが、理が残る。末代の理、この理聞き分け。一代と思たら長いようで短い。短いようで長い。この道の一つの理、なか/\艱難通らして暮れた者もある。これも名残れば末代の理。あちらの書物、こちらの書物に届く理残る。留まる理治まったる。こんな事と思うやない。これだけ、丈夫な心持ってくれるがよい。

 






おお…

そうか、安心してていいのか… 

余計な人間思案は要らなかったんだ

細かく詳しくは分からないけど、ものすごく有難いおさしづに心がスッとしました。


しかし、その時に思ったのが

ボクの場合親父がおさしづを本気で研究しているからこそおさしづにお伺いする事を知った。

もしこれがなかったらおさしづなんて見向きもしなかっただろう…

そうなったらあれがダメなのか、これがダメなのか、案じの心ばかりで、ドンドン神様のお心から離れていってたのだろう。


分からないながらもおさしづを勉強してきて良かった。

親父は人から「ちょっと気が狂ってる」とか「頭おかしい」とか言われた時期も有ったけど、それでも人の顔色など見向きもせず、真っ直ぐに神様を見つめ、おさしづの研究を続けて来てくれたからこそ今のボクが有る。

どんな時もおさしづに従いたいと思えるボクがいる。

そして今では親父の書いたおさしづの解釈した文章を求めて読んでくれる人がいる!

ある人は…

両親を亡くし、自殺まで考えていたが、それを読んだら本当に心が楽になり、地獄から天国に来たように今は幸せな気持ちでいられると言う


またある人は…

読んでいたら神様の有難い親心に涙が止まらなかったと言う




かつて親父の事を「気が狂っている」と言っていた人も今ではそれを真剣に読んでいる。




自分だけではおさしづの大切さなど気付きもしなかっただろう。

親父には感謝してもしきれない!

そして、これからも、どんな時も神様のおさしづに従いたいと思います。