そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

天理教用語(飽くまで参考程度に)

このブログ出てくる天理教用語が全く分からない方の為に、自分なりに用語の説明を書いておきました。
飽くまで参考程度に見てください。


おふでさき・みかぐらうた・おさしづ
おぢば
お道
救ける
団参
たんのう
出直す
布教所
身上





『おふでさき・みかぐらうた・おさしづ』

天理教の三つの原典です。神様が教祖の口や筆を通して教えて下さるお言葉。

おふでさき

教祖が13年間を掛けて執筆した、1711首の歌による書物。教祖の直筆による親神様の教えを五・七・五・七・七で記したもの。

みかぐらうた

「おつとめ、よろづよ八首、一下り~十二下り」まであり、これに「ておどり」と「かぐら(和楽器の演奏)」が付けられている。

おさしづ

「おふでさき」「みかぐらうた」が教祖の直筆に対し、「おさしづ」は教祖、または本席様の口を通して仰せになった親神様のお言葉を、側にいた書取人が速記したもの。





『おぢば』

天理教教会本部が有る奈良県天理市は、親神様が人間を宿し込み下さった地であり、我々人間の故郷であります。それを「おぢば」と言います。

そしてその一帯を「親里」と呼ばれています。


(以下、ようぼくハンドブックより)

人々の心が澄み切って、親神様の思召通りの「ようきづとめ」を勤める時、この台に、天から甘露(天の与え)が授けられます。

これを頂くと、人は皆、病まず、死なず、弱らずに、百十五歳の定命を保ち、この世は陽気ぐらしの世界となると教えられています。

また、かんろだいは、人間の創造と成人の理を表して形造られています。






『お道』

一言で言えば天理教の信仰の事です。

「お道に付かせて頂き」(天理教の信仰をするようになったこと)

「お道の人」(天理教の信者)

「お道を聞いていて」とか「お道がある」など


『救ける』


「すくける」ではありません。

天理教では「たすける」を「救ける」と書きます。それは一時的に痛みや憂いを取り除く「助ける」ではなく、苦しみを見せて頂いているその人の心を真から「救ける」のだと教えて頂きます。


『団参』

団体で天理教教会本部へ参拝させて頂く事。教祖の年祭や四月十八日の教祖誕生祭、春の学生おぢばがえり、夏の子供おぢばがえり、婦人会総会や青年会総会等は全国の教会から参拝に来る。海外からも参拝者がある。

通常は教会や布教所など個々で行われる。


『たんのう』

常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに喜び勇んで明るくくらすのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。 (天理教教典より)


親神様は人間を真から救けるために、一時的な苦労を与えて下さいます。その苦労に対してたんのうの心を使わせて頂く事が肝心だと教えて頂きます。

たんのうとは辞書で調べると「満足すること」とあります。どんなことが起きても全ては親神様の思惑と悟り、満足たんのうの心で受け取る事が大切であり、また、辛い事や苦しい事も十分に味わい満足する心と教えて頂きます。




世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。 (天理教教典より)

     
人は何事も無く通れる事が何よりのご守護と思いがちで、身上や事情にお手入れを頂くとお救け頂きたいと願います。しかし、おさしづではこのように教えて下さいます。

身上不足ありてどうもたんのうは出け難くい/\。為すいんねん多いか少ないか、皆めん/\内々にある。今日もよい/\と言えば、たんのう出ける。悪い中にたんのう治められん。道理と言う。成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。
(明治三十年七月十四日) 


                    
不自由の処たんのうするはたんのう、徳をつむという、うけとるという、これ一つきゝわけにゃならん 
(明治二十八年三月六日)



身上、事情の悪いところを喜んで通る事は簡単に出来ることではありませんが、その中を何事も親神様の思惑と悟り、たんのうする事が誠真実であり、前生因縁のさんげとなります。また、それが徳積みになると教えて頂きます。神様にお喜び頂く理が、徳に代わるとのお教えから考えますと、たんのうの心は神様がお喜び下さる心であると思わせて頂きます。

たんのうの反対の心が不足であると思わせて頂きます。

不足思えば皆不足になるで。
(明治二十三年五月十三日)



とのお言葉通り、成ってくる事に対して不足の心では、返ってくるのも不足になってしまいます。



「成つて来るのが天の理」と仰せ下さいます。

どんな身上、事情の悩みも、すべて親神様がその人の心の成人を促すための、思し召しであり、深い親心です。成ってきた事全て受け取り、神様にもたれて通らせて頂く心を神様は喜んで下さり、誠真実であり、それが前生因縁のさんげとなります。


『出直す』

天理教では他界する事を「出直し」と言います。そしてまた再びこの世に生を受けます。
教祖はこの[出直し」を着物に例え『古い着物をぬいで新しい着物に着替えるようなもの』と
教えて下さいます。





『布教所』


天理教奈良県天理市に「教会本部」が有り、その教会本部の直下に「大教会」が有り、大教会に所属する『分教会』。そして分教会がいくつもの「布教所」を持っています。
教会の他に、各都道府県に教務支庁もあります。





『身上』

身上と言う言葉には二つの意味が有ります。
一つは人間の身体の事。天理教では我々の身体は神様からの借り物と教えられています。

その証拠として、我々は例えば食事の時、ご飯を噛んで飲み込むまでは自分で出来ますが、飲み込んだ後、胃で解かしたり、腸で栄養を摂取して・・・など、自分で出来る人は居ません。
産んでくれた親だって子供の体がどうなっているか、知っている人など一人もいません。

人間が寝ていたって体はちゃんと機能してくれています。それはなぜか

総ては神様が朝から晩まで、休むことなく働いて下さっているからです。

そして、その身上を、病などで患う事を「身上」や「身上になる」「身上を患う」などと言います。

それは悪い事ではなく、人間を真からたすける為の神様の手引きです。
身上を経る事で、心得違いを気付かせて頂けるのです。

また、人間は世界一列をたすけたいと思し召し下さる神様に対し、沢山の残念な思いを
させています。
残念があるうちは真からたすかる事は出来ません。

身上など、一時的な苦しみを与えて下さる事で、その残念を取り除いて下さるとも教えて
頂きます。

.