教祖のお言葉に
人間は嫌なものを見ると、すぐに嫌やなあと思い、嫌な事を聞くと、すぐに嫌やなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。嫌なものを見、嫌なものを見せられた時、嫌やなあと思う前に、ああ見えて良かった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。嫌な事を聞いた時も同じ事、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由(じゅうよう)の守護が頂ける道になるのやで。
(省略)
と、お聞かせ頂きます。
先日買い物に行った時のこと。
店のトイレをお借りしようとトイレに入ると…汚い話で申し訳ないのですが、小便器の中に噛んだガムが捨てられていました。
こういうものを見た時に大抵は「嫌だな」「汚いな」「誰がこんなことをしたんだ」と思ってしまうと思います。しかし、この心こそが、教祖が教えて下さるいけない心なのでしょう。
そのガムを見た瞬間、不足してしまいそうになったのですが、すぐに「不足してはいけない」と心を切り替え、これは神様がボクに見せて下さったものなのだと思い、上っ面ながらも喜んで拾わせて頂き、洗ってゴミ箱に捨てさせて頂きました。
(この時、そのまま捨ててしまいましたが、トイレットペーパーなどに包んでから捨てるべきであったと後悔しました。極力後々の人が困らないよう、配慮足りていませんでした。)
その時にふと思ったのが、もしもこれを嫌だなと思ったまま、見て見ぬふりをしていたらどうなっていたのか。
自分が不足をすれば不足した分だけ徳を減らし、ガムを捨てた人も人を不足させたことになり、余計な因縁を積んでしまいます。
また、自分が拾わなければ、ほぼ間違いなく従業員の方が拾うことになっていたでしょうし、お道を聞いている方でなければ、ほぼ間違いなく不足の心でやっていたと思われます。
他のお客さんがそれを見ればまた不足の心を使っていたかも知れません。
そうして考えると、上っ面ながらも捨てた人に感謝をして、喜んでさせて頂くことで、ガムを捨てた人は、人を喜ばせたことになり、他のお客さんや従業員の方も余計な不足をしないで済んだことになる。
それだけで些細ながらもお救けさせて頂けたことになる。
そう考えると、今まで嫌なものを見て嫌だなと思ってきたこと、嫌なことを聞いて嫌だなと思ってきたことがどれだけ勿体無い心遣いだったのか。
教祖伝逸話篇にて、教祖が監獄所へご苦労くだされた時、同じく拘禁された鴻田忠三郎先生は警察から便所掃除を命じられました。
掃除を終えて、教祖の御前にもどると
「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ。」
と、教祖に尋ねられ、鴻田先生は
「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます。」
とお答えされました。
教祖は
「そうそう、どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで。」
と、お諭し下されたとお聞かせ頂きます。
そう思うとボクは今までどれだけの不足を天に届けてしまっていたのか。
本当に恐ろしくもあり、勿体なくもあります。
ボクは不足を探すのが得意技で、喜びを探すのが本当に下手くそなんです。
日常の生活や仕事などからも喜びを見つけ、人にも喜んで貰えるような心がけが大切だと、改めて思わせて頂きました。