そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

高慢の心【修養科の出来事】

今更ですが、前回の続きです。
 


前回の記事でも言ったことですが、うちの教会では、修養科の前後に教会で5日間勤める(五日勤め)ように決められていて、教会での五日勤めの翌朝におぢばに出発して、修養科が終わったら教会に戻り、教会で五日間勤めた後で解散ということになっています。

 

その最初の五日勤めのある日、布教所の奥さんに呼び止められました。

 


 
私は24年間布教所に住み込みで勤めていて、お手振りも鳴り物も、一応ですが一通りは出来て、お道の話もほぼ毎日聞いていた。
掃除や献饌、撤饌などの作法も一通り経験している。

対して、元々信仰はしておらず、会社の研修の一環として来ている、言わば、天理教を全く知らない人たちも居る。

同期の9人中、6人がそうである。


そういった状況の中で、ある程度お道を知っていると、教えなければいけない場面もできる。すると自分でも気づかないうちに高慢の心を出してしまうことにもなり得る。

高慢の心を使ってしまうと、不足もするし、不足をすれば風邪もひく。
 


高慢というのはいつの間にか使ってしまっていることも多いので、気を付けて通ると良い。といったお言葉でした。



自分が高慢で有ることは重々承知していたことでもあって、確かにこういった状況ではより高慢になりやすい。

頂いたお言葉を有難く受け止めると共に、実はもう一つ気になっていた事が有りました。

 


 これはまた後日、詳細を記事にしようと思っていることなのですが、ハッピの文字の位置がズレていたこと。

 


自分でも気付かないうちに高慢の心を使ってしまうなんてことはよくあること。こうしている今も、何か心得違いをしていることが有るのではないか。

ハッピのズレは、自分の心がズレていることを、もしかしたら教えてくださっているのではないか。

 

 


これらのことが気になったので、翌朝、ここに至るまでに何か心得違いをしている事があれば教えてくださいと、神殿にて神様にお願いをしておつとめをしました。

 

 

そのすぐ後に、自分の心得違い、心のズレを、教えていただいた出来事がありました。

 

 

 

 

本部へ出発する前に洗濯物が溜まってきたので、洗濯をしたいと思っていたところ。

洗濯について同期の皆と話をしていました。

 


本来は修行で来ているのに、少量の洗濯をするのに一人で一台を使うのはさすがに気が引けるので、2.3人で一台を回そうという事になっており、呼びかけたところ、F氏とS氏も洗濯がしたいとのことだったため、自分含む3人で、朝食後に洗濯機を回しました。

 

数時間後、ひのきしんが終わり、次のひのきしんまでの休憩の時間に、洗濯機の様子を見に3人で洗濯場へ行くと、洗濯場の係の方がみえており、洗濯機についてご注意をいただきました。

 

 

洗濯場には、全自動と、洗濯から乾燥まで出来るドラム式があり、ドラム式をお借りして洗濯していた訳ですが、ドラム式は乾燥までやると時間が掛かってしまい、修養科生がそれをやってしまうと、教会の大事な用で洗濯しようとしても、その間は使えないことになる。

こう言っては悪いがあなた方は修行で来ているのであって、詰所に行けば手洗いで洗濯をしなければいけないこともある。全自動でやるか、ドラム式でやるにしても脱水までにして、あとは自分たちで干すということにした方が良いのではないか。

とのこでした。

 

 


確かに仰る通りで、ドラム式で乾燥までを機械に頼れば、後は畳んで片付けるだけなので自分たちは楽ではあるが、その間の数時間は洗濯機を塞いでしまい、教会の用事で使いたくても使えないことになる。

折角修養科に来ていても徳を減らしてしまうことになる。

係の方に優しく教えて頂き、F氏、S氏の三人でお礼とお詫びをしてその時は終わったのですが、その時にふと

「俺がこんなことを言われていてはいけないな」
という考えが頭を過った。

 

 

元々信仰心はなく、会社の研修で来ていたF氏、S氏と違い、24年間布教所に住み込みで勤めてきて、そんなことは幾度となく教えていただいてきた筈の俺が、今ここでこんな事を言われているようでは駄目だ。

 


そんな風に考えていたところ、また一つ別の疑問が頭を過りました。

「俺は誰だ?」

という疑問でした。

 

 


うちの教会では、五日勤めの2日目に、同期の中から主任、副主任を、教会の役員先生に決めていただくことになっており、その主任副主任を、立てるべきところで立てて、皆で助け合って3ヶ月間を過ごしていくわけであり、主任はN氏、副主任はF氏だ。


「俺」というものは何の立場でもない。

 


主任、副主任を中心に、9人が同じスタートラインに立っているはずなのに、自分一人住み込みという経験が有ることから「俺」だけスタートラインが一歩前にいるような、そんな高慢の心をいつの間にか使ってしまっていたのでした。


それを神様が教えてくださったのかも知れません。

 

 

 

この先、修養科の3ヶ月の間、もしかしたら…というより、間違いなく、またいつの間にか高慢の心を使ってしまうだろう。

 

心の埃というものは、気付かずに使い続けてしまえば、積りに積もって、いつしか自分では払い切れなくなってしまうもの。

高慢な人ほど、自分が高慢であることに気付かないと、教祖が仰ってくださったお言葉を聞いたことが有ります。

悪口になってしまうかも知れませんが、この人は自分が高慢だということを知らないんだろうなという人が私の知人にも数名います。

 

 


しかし、人間であれば埃の心を使ってしまうのは、ある程度は仕方のないこと。


その埃に早くに気づいて、常に心の掃除をする事が肝要であるとお聞かせいただきます。

 

 

布教所の奥さんから頂いたご注意の言葉を忘れないよう、常に自分の心を省みることを心掛けて、三ヶ月を過ごさせていただこうと思った出来事でした。

 

 

 

 


実際に出来ていたかは別のお話。