そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

不足したならそれ以上に喜べばいいのでは【修養科の出来事】

修養科中には色々な反省が有りましたが、その中の一つ。

修養科のハッピについて。

 

 

私が修養科に行くことが決まり、ハッピに修養科生用の襟を縫い付けなければならないということで、同じ布教所の信者さんで、裁縫が得意な松中さん(仮名)が、それを快く引き受けてくださいました。

 

この松中さん(仮名)は、普段からよくお世話になっている方で、自分のでもやろうと思えばそこそこ面倒なのに、慣れてるとはいえ二着も縫い付けてくださり、本当に有り難いことなのですが、その恩を不足の心で返してしまったという反省です。

 

 

 

教会勤めの初日、そのハッピを着ていたところ、右の襟と左の襟で文字の高さがずれており、教会の先生より、文字の高さを合わせて真っ直ぐに着るようにご注意を頂きました。

 

しかし、後になって気づいたのが、着方がズレていたのではなく、ハッピの襟自体がズレており、左右の袖を合わせて真っ直ぐ着てもズレてしまい、むしろ文字の高さを合わせるとハッピがズレてしまうという状況。

 

 


2日遅れて仮の受け入れ先となった詰所で約2週間過ごしましたが、本来の詰所に比べて自由時間が多いので、その自由時間を使って、2着のうち、片方だけでも直そうと、一度全部バラしてチマチマと時間を掛けて、手縫いで縫い直すことにしました。(簡単な裁縫セットは持ってきていたので。)

 

これはバラしてから気付いたのが、印刷?によるミスなのか、縫い付けに問題が有るのではなく、元々左右の文字の高さがズレていたのが原因でした。

 

 

文字の高さが合うようにほんの少しだけわざとズラして縫うことで解決。
下の方を見ると、片方ははみ出ているのに、もう片方は長さが足りてないという、見た目はやや問題あるが、自由時間を使っては何日かかけて、どうにか縫い直すことに成功しました。

 

 

 

そして本題。
バラした時にふと、もう後戻りもできない、バラバラになったハッピと襟を見て、バラしてまで縫い直すことに何の意味があったのかと考えました。

 

 

そもそも直そうと思った動機は何なのか。

心の根底にあったものは何か。

 

自分の心を省みたとき、それは高慢の心が一番の原因でした。

 

 


24年間布教所に住み込みで勤めてきて、数え切れないほどハッピも着てきて、若い子が間違ったハッピの着方をしていれば教えたことも何度かあり、それが今更になってハッピの着方でご指摘を頂いてしまったのが悔しい。恥ずかしい。

 

ハッピくらいさらっと着こなして流石と言われたい。

 


そんなくだらないプライドが原因で、わざわざ松中さん(仮名)が、襟の縫い付けを快く引き受けてくださったのにも関わらず、それをバラしてしまい、松中さん(仮名)のご厚意を台無しにしてしまっただけでなく、不足の心で返してしまったのだ。

 

 

 

文字がズレていることに何の問題が有るのか。

 

ご指摘を頂いたところで、その度に「すみません」と言って直せばいいだけの話。

たったそれだけの事が嫌で、不足してしまったのだ。

 

 

本人が善意でやったことでも、受け取る側が不足で受け取れば、その人は人を不足させたことになる。
悪意でやったことでも、受け取る側がそれを喜べば、その人は人を喜ばせたことになる。


私が文字のズレを不足したせいで、松中さん(仮名)が人を不足させたことになってしまった。

 

 


前回の記事で書いたように、奥さんより、高慢の心を使わないようにとお言葉を頂いたにも関わらず、早速使ってしまったばかりでなく、人のご厚意を不足で返してしまったという情けない事態に、深く反省をした出来事でした。

 

 

 

 

 

ここまでの話は、仮受け入れ先の詰所で一度だけ夕勤めの後に講話の機会を頂き、その時に同期の8人と詰所の先生に反省話としてお話をさせていただいたことが有りました。

 

しかし、その後で考え直した事が一つありました。

 

悪意でやったことでも、受け取る側がそれを喜べば、その人は人を喜ばせたことになる。

だったら、不足をしてしまった分、それ以上に喜べば良いだけの話ではないのか。

 


人間であればどうしても気付かないうちに埃の心は使ってしまうもの。

 

直した方のハッピはそのままにして、まだ触っていない、松中さん(仮名)に縫って頂いたままのハッピを今後も着続け、文字のズレを見る度に、人からご指摘を頂く度に今回の反省を思い出し、自分の心を省みる機会にできる。

 

指摘を頂く度に「すみません」と言って頭を下げて直していれば、低い心を使う練習もできるのだ。

 

前回の記事で言った「高慢の心を使わないよう、常に自分の心を省みることを心掛けて、三ヶ月を過ごさせていただこうと思った」その矢先に自分の心を省みる機会を、こんなにも身近に見つけることが出来たのでした。

 

そう考えれば、こんなに喜ばしいことはない。

 

これらが全て神様のご守護だとしたら、とても有り難いことだ。

 

 

これからは、度々この事を思い出しては自分の心を省みて、その度に喜びを噛み締め、また一つ神様に感謝させていただけば、きっと不足した以上に喜ぶことが出来るだろう。

 

そう思わせていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

実際に出来ていたかはやはり別のお話。