そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

悲しき素通り

「人生最大のご守護」がまだ後編を残していますが、まだ文章がまとまって居ないのと、今日のネタが出来てしまったので後日に…





今日買い物の帰りに、足を引きずって歩いてる方をお見かけした。


ああ、是非ともあの方ににをいを掛けさせて頂かねば…


しかし、やっぱり勇気が要る。





ある人に聞いた話だ

それは、その人の父親(T氏)が若かりし頃、(多分大正時代かと)現在の「修養科」の前身であった「別科」の最中、板に戸車を付けて、それを手で漕いで神殿の外まで来た人がいた。
その人は足が悪いので、神殿まで連れて行って欲しいと言い、T氏他数人で抱えて階段を登り、神殿まで連れてった。

T氏は庭掃除の最中だったので、そのまま作業を続けていたが、数時間後、ついさっきまで足が悪くて歩けなかった人が、なんと!自分の足で歩いて階段を下りてくるのだ!


驚いたT氏はその人の所まで駆け寄って「足は?」と聞いたところ、嘘のように治ったと言う。

長時間神殿に居て、しかも歩いて帰って来る。
「一体神様に何を問いかけていたのか?」

と、訊ねると、その人の話はこうだった。


「いつものように板を手で漕いで目的地へ向かっていた最中、疲れたので木陰で休んでいたところ、見知らぬ方が話し掛けてくれた。聞けば天理教の人らしい。一生懸命に天理教の教えを話してくれた。何か難しくて話の内容はよく分からなかったが、こんな足が不自由な自分を助けようと必死になってくれる気持ちが何よりも嬉しかった。自分はどうなってもいい!ただこんな自分に親切にしてくれたあの人を、どうか幸せにしてあげて下さい。」

と、数時間神殿に座り込んでただそれだけ神様にお願いしていた。

さて帰ろうと思ったらごく自然に立てて、歩けたと言うのである。




きっと我が身どうなってもと言う想いが神様に通じたのでしょう。





さて、現在目の前に同じような状況が起きている。
この素晴らしい神様のお話を聞いて貰いたい。


しかし、見ず知らずの人に天理教の話を聞いて貰おうと思うと非常に勇気が要る。
馴染みの無い人に宗教の話をすると、とても冷たい眼で見られるのだ。

いや、そんな弱音を吐いていてどうする!



神様のお話を聞いてくれれば、きっとこの方にも素晴らしきご守護があるはずだ



行け、俺! 話掛けるんだ、俺!!

そう自分に言い聞かせながらも、





結局素通りしてしまいました…







情けない…