そして今日も心得違い

反省と勉強の日々。にをいがけと話の勉強を兼ねた天理教ブログ。

おさしづにお伺い

先日ふと気になった事が有ったのでおさしづにお伺いしました。

心を落ち着けて、余分な人間心を出さぬよう、真に神様のお心を求める気持ちで開く
必ず何か教えて下さいます。

 

神殿でお願いをして、手に取ったおさしづの本のページを適当に開く

しかし、全く関係無さそうなおさしづが出ました。


何か真実が足りなかったかも知れない
もう一度心を落ち着けておさしづを開いたところ、まさにそのお伺いにピッタリなおさしづが有り、その件は無事に済みました。

教えて頂いた事をお礼してその場はそれで終わったのですが、どうしても引っかかる事が有った。



それは、最初に開いた全く関係無さそうなおさしづに書いて有ったお言葉
「妬み嫉みが醜い」
というようなお言葉でした
(偶然開いてそのまま閉じてしまったため、何年何月何日のおさしづか覚えてない)
ボクはどっちかと言えば、良くも悪くも(自他共に認める)ドライな性格
嫌なことが有っても大抵の事はすぐにどうでも良くなってしまうし、空気も読むのも下手

妬みだの何だのとはほぼ無縁な性格だと自分では思っているので、全く心当たりの無いおさしづ




何故そんなお言葉が突然出てきたのか

今まで読ませて頂いた中でそのような言葉は滅多に出てくるものでもない


それだけに印象に残り、もしかしたらあれは親神様がボクに何か教えて下さっているのではないか。


あまりにも気になったのでもう一度おさしづにお伺いしてみる。



しかし、これまた全く関係無さそうなおさしづばかりが開かれる。



これは一体どういう事か

そこでふと、自分の心に目を向けてみた

毎週、月水金はボクら入り込みの者が朝づとめの後にお話をする

ボクは神様にお伺いしながらも
「これは上手く行けば今度の俺の話の番でいいネタが出来るのではないか」
「しかも、あわよくば『ほほう!藤太郎がいい話をするじゃないか』ぐらいに思われるのではないか」
こんな汚い感情が入り混じっていました

これでは神様に受け取って頂けない!


よくお詫びをし、もう一度お伺いをする

あれはきっと神様がボクに何かを教えて下さっているのだから、しっかりと受け取らせて頂かねばならない。どうか教えて下さい。



そうお願いをして、ふと、手に持っているおさしづの本(閉じた状態)に目を落とす
すると、ほんの少しだけ隙間の有るページが有った

急いでそこに指を挟んで開いてみる

そこにはこのように書かれていました

さあ/\又々話し掛ける。随分々々綺麗な/\、日々綺麗な事は誰も好く。くどいくどい話せにゃ分からん。何名何人の中、万事に一つの理が欠ける。治まりた心生涯の理治めるなら十分の理、何も言う事は無い。今まではそも/\であって、見難くうて/\どうもならなんだ。年限を待ち兼ねた。秋の大祭や、春の大祭や。待ち兼ねた/\。戻る子供の真実ありゃこそ、何事も無く治まりてある。これ働き有るか無いか、思やんしてみよ。可哀想に/\どういうもので、雨が降る風が吹くと思うやろ。よう思やんしてみよ。中に綺麗なものは誰も好く、神も好く。神も好くような心なら、こりゃ障りやどうやとは無いもの。これだけ早く諭したら、十分諭しあれど、ほんのその場だけ聞いただけでは、どんならん。これが第一どんならん。これより真を定めてくれるなら、何も怖わき危なきは無い。これからよう改めてくれ。何かの事もこれから、何人々々扱い、事務所、詰所、何人頭数あろが、笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。よう聞き分け。

 

今年の年頭の記事(アホアホでいいんじゃない)にも書きましたが、ボクは役立たずです。

そして弟は間に合う人間です。

 

大事な用事等は弟がよく頼まれます

ボクが目の前に居るのに「○○君は?」と聞いてくる
用事を聞くと「~を頼みたい」とか言う

 

そんなもんわざわざ弟を探さずとも、俺がここに居るんだから俺に言えばいいだろ。


そして雑用等はボクが頼まれる

目の前に弟がいたってわざわざボクを探してくる
用事を聞くと「~をやって欲しい」とか言う


何も俺じゃなくても弟がそこに居たんだからそっちに頼めばいいだろ。


毎回とは言わないが大体こんな調子
それがとても嫌だった



しかし、仮に俺が大事な用事を頼まれたところできちんと出来るのか?

何かしら一つ二つ抜けてる事が多い
毎日のやるべき事も出来てない事が有ったり


そりゃ相手にしてみれば不安の残る奴に頼むよりは、きちんとこなし、しかもよく気がつく方に頼みたいだろう
雑用なんかは他の用事で忙しそうな者よりも何だか雑魚っぽい奴の方が頼みやすいだろう

それは当然の心境

でもそれが気に入らなかった




ボクは知らず知らずのうちに妬みの心を使っていたのです

ボクは間に合う人間目指してここに居るんじゃない
神様にお喜び頂けるよう
僅かながらも神様のお役に立てるよう

それが目的のはず(それすら出来ていないのですが)



いつの間にか神様に残念に思われる心遣いをしていた

きっと神様はそれを教えて下さったのでしょう



「笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。」
先日弟がある方とちょっとした言い争いになりました



普段は仲がいいのですが、ちょっとした事から言い争いになり、最後には弟が折れて謝っていました。
その時に父に相談したらしく、父からの言葉は
「皆仲良くが神の望みと教えて頂いている」
とのことでした。

その言葉から反省した弟は、それ以来態度を改めたのですが

確かに兄弟同士で醜い心を使いあっていて、きっと神様はボクらに残念な想いをしておられた事かと思います。


「笑うて暮らせば、何にも妬み恨みは一つもあらせんで。」


皆が笑って陽気に、助け合い、支えあって暮らす事が出来ればきっと神様もお喜び頂けるはず


そんな風に反省しました


▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼


ここで今更本題ですが


父の影響から
ボクは何か分からない事があればこうしておさしづにお伺いしようとする
「さしづ通りにすれば間違う事は無い」

とのお言葉もある通り、どんな事もおさしづにお伺いし、それに従って通ることが大事だと思います。


しかし、周りの人達を見ていると、身上事情を見せて頂くとおさしづを開こうとする人は殆ど居ません。


先生と呼ばれる立場の人達に「お練り合い」をお願いし、「先生」もまたおさしづにお伺いする事を知らず、「勤めを増やせ」「日参しろ」それで結果が出ないと「これだけ勤めているのに何故だろう」と悩んでいます。



神様がどのような想いで理を見せて下さっているか、それを自分の考えだけでものを言っている。
ただ「助かりたい、よくなりたい」で勤めていたって何の解決にもならないのではないか

子供救けたい親神様のご守護を有り難く堪能の心で受け取らせて頂く事が大切なのではないか
そんな風に思うわけです

それは父から沢山の事を教えて頂いているからこそそう思えるのですが…




黒きは黒き赤きは赤きに連れられ







と、おさしづに有ります


人間の理を立て、人間に従う人はそのまま人間に連れられるだけです

しかし、神様の直接のお言葉であるおふでさき、おさしづに従うなら、神様が連れて通って下さいます。
常に神様を心に置いて、おさしづに従って通らせて頂くならどんな時も神様にお連れ通り頂けると教えて貰いました。
 

お守り

今月16日は久しぶりにおぢばへ帰らせて頂きました。
別席者の付き添いです。


一人お守りを頂く若い子が居ましたので、一緒にお話を聞かせて頂いたのですが…

かなり心打たれました。


天理教のお守りは、普通の神社等で買ってくるような軽い物ではなく、教祖が一度お召し下された赤衣の一部を自分の為に頂く、世界にたった一つの尊いお守り。

「ちょっと買ってこようか」 などといった簡単な物ではない。

この道を教えて下さる為に想像を絶する御苦労下さり、ひながたの道をお示し下された教祖から自分の為に頂く大事な大事なお守り。
それを忘れて押し入れの中にしまったままでした。



教祖がお召し下さった大切なお守りを、これからは常に身につけておきたい。



と、改めて考え直す事が出来た日でした。

その日は別席の待ち時間中に回廊ひのきしんをさせて頂いたんだけど…






これからはおぢばに帰る機会が有ったら是非サポーターを持って行かないと膝が痛くて最後まで出来なかった(´;ω;`)




久しぶりの更新でありながら随分グダグダな内容で申し訳無いですm(_ _)m

アホアホでいいんじゃない

ボクは役立たずです




いきなり何だ?
って思うでしょうけど

軽い謙遜だろ?
って思うでしょうけど








本当に役立たずです
   

謙遜なんかでなく、かなり真剣に






男の入り込み者がボクら兄弟を含んで3人いまして

その中で一番古いIさんが行事の段取りなどの中心だったのですが…
そのIさんは次期所長となるべく、上級教会に勤めに行くことが多いので


代わりに中心となったのが、次に古いボク

…ではなく、ボクよりはるか後に入って来た弟でした。





そうしようと決定したわけではなく、ごく自然に








お分かり頂けたでしょうか





そのくせプライドが高く、軽く扱われるのが嫌いです


誰かが弟に何かを頼むと(それくらい俺にも出来るわ)とか…







恥ずかしながらそんな人間です。










ある朝の神殿朝掃除の出来事

信者Mさんは、ほぼ毎日来てくれるけど

何だかやる気あんのか無いのかよく分からん人





そのMさんが参拝所を箒でちょこっと掃いて

まだ皆がやってる最中にも関わらず、箒を片付けてそそくさと座ろうとする。いつもの光景




俺は先生の座布団を設置しようと収納場所へ行く






箒の置いてある場所と近い


箒を片付けようと歩いて来たMさんが俺に向かって言った言葉


「はい、これ片付けて来て」



「はあっ!!?」





「いや、今これをやってますので!」(キッパリ)

更に小さい声で、でもしっかりと聞こえるように


「自分で片付けろや!」







Mさんは苦笑しながら自分で片付けに行きました。




まったく! 今までお道の教えの何を聞いてきたんだ?


Mさんじゃなくて、俺!






低く優しく柔らかく

何度もそう教えて頂きながらなんでそれが出来ない?






確かにMさんのやる気の無さはちょっと酷い

しかし、彼も最近年を重ねて、体を痛めている

それを考えたらああなるのも分からなくも無い








教祖は阿呆は神の望みと教えて下さいました

あほうが望みと仰しゃるのやで。利口のものはつけん。人が小便かけたらならば、ああぬくい雨が降ってきたのやと思って、喜んでいるのやで。人が頭を張れば、あああなたの手は痛いではございませんかと言って、その人の手をなでるのやで。




ボクは役立たずです


まともな仕事で人の役に立てないなら、せめてそれくらいは素直にさせて頂こう



その方面で役に立てればいいじゃないか!





自分の不甲斐なさに落ち込んだ時だって有ったのに、何故ここで人の役に立てるチャンスを足蹴にするんだ?

いいように使われたって構わない

バカになってアホになって自分に出来る事をさせて頂こう!




それが神様が喜んで下さるのなら









・・・・・・なぁんて、ちょっとカッコよさげな事言ってみたけど





・・・簡単には出来ないだろうな~







高慢な心が邪魔をして






とりあえずそれが目標です


て事で、今年の抱負







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デカすぎた`。*:`( ゚д゚*)ガハッ!

まぁいっかw




エキセントリックと心得違い

どっちに書こうか迷ったけど、エキセントリックはどちらかと言えば日記なんでこっちにした

もう暫くの処、神一条の道にして了う。

明治二十二年九月十七日(陰暦八月二十三日)午後九時
刻限御話

さあ/\/\/\一寸一つの話掛け。さあ/\これ/\どういう事を話掛ける。皆皆ようこれを聞いてくれ。もうこれいつ/\の事に思うて居る。もう時節十分。もう十分に詰み切った処に、一つこんな事とは知らなんだと思うやろう。どんな事をして、十分にこれでこそと思う。こうしたらもうどっからどういう事も無いと思うたは、一時の処、神一条の理、一つでもどうもならん。十のものなら十ながらどうもならん。この者に運ぶ/\と言うても、神が定めねばどうも定まらん。いつになっても定めたる神やしき。道無き心は大丈夫とは言えよまい。皆よう聞いて置け。もう暫くの処、神一条の道にして了う。日々取り扱い成程これでこそ神やしき、天の理いつ/\までものこるという。そこでもうこれ一寸前々よりも伝え話、刻限の理が分かり難ない。これからは皆心を繋ぎやい、人間の心で定めた理はどうも続かん。何彼の事頼み置く。もうこれ一寸掛かり掛けたら、皆身の処で障る、障るから尋ねる、尋ねれば諭しよう。神が一つの理を見て定める程に。人間心の定めはどうも定まり難くい。何彼の事も話置くという、何彼の事も頼み置くという。

 

以下、父の解釈です。

さあ/\/\/\一寸一つの話掛けをする。さあ/\これ/\どういう事を話掛ける。皆々ようこれを聞いてくれ。人間というものは今のこの神の話を、「もうこれは過ぎ去った昔の事や、遠い先々の事や。」というように、いついつの事のように思うて居るがそうではない。さしづはあらゆる時を乗り越えて今の今話し掛けるのであり、求める真実の心さえあればその心に入り込んで、神が直接話し掛けるのである。「もう長い年限を乗り越えて時節は十分に治まり、十分な好機を迎えた。もう十分に道は行き着いた。」と皆が思うような今の処にて、「真実の道はこれからであり、これから段々と明らかな理を諭す。しっかりと聞き分けてくれるよう。」と神が諭せば、皆思う事は一つであり、「こんな事とは知らなんだ。」と思うやろう。
人は皆どんな事をして道に尽くしていても、十分に道の為に働いているという自覚があって、これでこそ間違いの無い道であると思う。こうして働いていたら十分であって、もうどっからどういう事も間違いは無いと思ったのはこれまでの道である。それは真実の理の治まるべき時節が来たらない為に、一時の処を神が見許していたからである。これまでの道では十分な神一条の理は治まらなかった。一つでも世界救ける誠の理は積み上げられず、このままではどうもならん。十のものなら十ながらどうもならん事になってしまう。
「これからはこの者を道の親と定めて、この者に運ぶ/\。」と言うても、神が定めねばどうも定まらん。何時になっても曇りの無いのが〈人間心の無い澄み切った神の心で治めるのが〉神やしきであると定めたる神やしきであろう。世界救ける誠の道の無いような心では、とても大丈夫とは言えようまい。
皆よう聞いて置け。もう暫くの処で澄み切った神一条の道にして了うで。日々寄り来る人に神の話を伝えて、「成程、これでこそ真実の神やしきや。」と人が言うなら、天の理としてその理はいつ/\までも残るという。そこで問題となるのは、もうこれ一寸前々よりも伝えてある話であるが、人の心を洗い清める為の刻限の理が人の心には分かり難ないという事であった。 これからは段々と刻限の理を明らかにする。それを聞いて、二度と神の道から離れないようにと心を一つにして、皆で心のつなぎ合いをしてくれるよう。人間の心で定めたような理では、神から離れてしまっているから守り通してやる事は出来ない、どうも続かん。続かんような事では神の道とは言えん、何かの事も頼み置く。
もうこれ真実の神の道を一寸掛かり掛けたら、皆身の処で障るようになる。身に障るからどうでも尋ねるであろう、尋ねれば神の話を諭してやろう。その為の神の道具を、神が一つの理〈道に尽くそうとする真実の心〉を見て定める程に。人間心の定めでは、真実誠の神の道がどうも定まり難くい。何かの事も事前に話して置くと言う、何かの事も頼み置くと言う。





「皆よう聞いて置け。もう暫くの処で澄み切った神一条の道にして了うで。」
本来ならとても頼もしく、有難いお言葉であるはずだとは思うのですが…

自分の好きな事を優先し、神様を心から離してしまっている自分にとって不安でいっぱいです。

以前の記事でもかいたように、何をしていても通れる今、神様の道を忘れてしまい、自分の都合、自分の好きなことを第一に考え、ついでにお道をやっている。その時が来たらその心を末代まで治まってしまうと教えて貰いました。


一刻も早く神様の手となり足となって働かせて頂けるよう、心を定め…


と言ってもボクの弱い人間心は直ぐに神様を離してしまいます。

「人間心の定めでは、真実誠の神の道がどうも定まり難くい。」 しかし、自分の考えでああしようこうしようと考える心は必要ないと父は教えてくれました。
「神様にお喜び頂きたい、神様のお役に立てる人間になりたい」


そうした「神様を実の親と慕い、おすがりする心」が大切だと。




確かに、目の前の事しか分からない、1秒先すらどうなるか分からない人間が、自分の考えでやる事が本当に正しいのか分からない。
良かれと思ってやったことでもそれは本当に神様が受け取って下さる心なのか?
自分だけではその答えは絶対に出てこない。

だったら自分の考えなんか捨てて、「成ってくるのが天の理」のお言葉を信じ、全てを親神様にお任せするべきなんでしょう。


最近(と言うか、今日)リンク集に追加したブログふたつひとつ
実を言うとボクの妹のブログなんですが、「神様におすがりする」姿勢ってこういう事なんだろうなと、恥ずかしながら妹のブログに感服するばかりです。


常におさしづにて神様の思いを求め、神様に全てをお任せして道の為に通る。




このおさしづを読ませて頂き、心が緩んでいた自分に改めて喝を入れられる思いです。






 

むさくろしい者も一時寄せてある

以前、父が書いたおさしづの解釈の一部です




 

さあさあいずれいずれ道を通る。この道には一時の処むさくろしい者(むさ苦しい心の者)も、残念な者も多く寄せて有る。これからは神が表へ表れて、如何なごもく(ゴミや汚れ等と思われます)も掃除するなり。掃除一条、すっきり掃除をしてしまうで、皆片付ける道具も要る。どうでも掃除をして掃き立てる。
隅から隅まで掃除してしまう。どういう事なら心の掃除や。どんな道もすっきり洗い換える。これまでにも段々諭してある。後で後悔無きように、真実の心が無ければどうにも成らんと、幾度も伝えてある。箒を持って掃除、神が箒や、人間の力ではとても敵わん。すっきり掃除が出来たなら、道は益々栄えると諭してある。ごもくさえすっきり片付けてしもうたなら、後に残るは私利私欲の無い、澄んだ者ばかりや。
(中略)
身上に、無くては成らない一つの理がある。をやの心にそむき続けて来た残念の理を払い、速やかに救けてやらねば成らん。救けてやりたくても、大きな残念の理が神の前に立ちふさがり、真実の理を通す事が出来ん。どうしてやる事も出来ん。可愛い我が子を見捨てる訳にはいかん。何としてでも救けてやらねばならん。救ける為には先ず第一に、今も尚、神に背き続ける元になっている、むほんの根を切ってやらねば成らん。根がある限り、をやの心に、真から添う事が出来ん。根を切る為に、一時の処、理を曲げてでも働かにゃなるまい。神の理によってあえてむさくろしい道の中を通さねば成らん。その中を、堪忍、しんぼうをして心を治めなければ成らん。そうやって救けようとする神の真実を、満足たんのうをして受け取ってくれるなら、その心を天に従う誠の心と受け取り、根を断ち切ってやらなければならない。そんなだんだんの道の中に、使う為の道具が要る。むほんの根を切る大切な神の道具として、むさくろしい者を使わんならん。塩を抜くには、塩を用いねば抜けやせん。なれど例え道具であっても、何時までも真実の心が治まらなければ、道の中のごもくと共に、すっきり掃除をして片付けんならん日が来てしまう。どの子も隔て無く可愛い我が子、皆々同じように救けてやりたいが、をやの理である。例え、真実の理が治まらん事を十分に見定めた上で、心通りに一時の道具として使ってやっていたとしても、皆々同じように、成らん中の重き一つの道を、最後まで通させてやりたいのが、をやの心。どんな者でも実の我が子。心通りの守護とは言え、真実の道を通してやれないをやの苦しみを、分かってくれる者は少ない。(中略)をやの真実に心を開き、むさくろしい中を、真実に満足たんのうをして治めてくれるなら、むほんの根は切れてしまうと諭して置く。聞き分けが出来んと言うなら、いずれ、身上の理に替えて果たしてやるより、仕方あるまい。よう思案して貰いたい。

むさくろしい道の中、理を曲げてでも救けようとする神の真実が分からず、人を恐れ、人間の理を先に立ててしまっては成らん。神の理を受け取って、曲がった道でも楽しんで通り抜けようとするなら、天の理に適う。天の理に適うから、曲げかけても決して切れる様な事は無い。何処までも伸びて、綺麗に治まるから何も心配は要らん。神の理が分からず、目先の事ばかり考え、我が身をかばうあまり、人を恐れたり、目の前の人間の理を先に立てて、人間の理に従うなら、それは追従(ついしょう)となって、天の理から大きく外れる。そんな弱々しいほこりの心は、神の邪魔になる。ほこりが立てば、働いてやれんように成ってしまう。追従の理が他に映ればどうもならん。道が大事、これからは月日退くと諭してある。そうならない様に、神を頼り、自ら道を求め、一人だけでも天の理を守り抜こうと言う、精神だけは、日々治めていなければ成らない。心が無ければ、働いてやる事は出来ん。

以下省略






今の天理教組織に不満を持つ方が沢山います。

しかし、その心は知らないうちに神様の親心に反していたのです。

天理教を食い物にし、信者からお供えを強要し、自分は高級車に乗りながらお救けには行かない。

そんな人が今の天理教組織の上層部にどれだけいる事か。

しかし、そんなむさくろしい人達も、世界だすけという大目標の為に、一時置いて下さっていると教えて頂きます。

 

塩抜きするには塩が必要です


いずれ時がくれば神様に掃除される日が来るのでしょう。

ご不満もおありでしょうが、いつまでも喜べず、不足ばかりでは自分もその人達と一緒に掃除されなければならなくなってしまうと、神様は心配して下さいます。

お辛いでしょうが、今は耐えてください。



たんのうとは「十分に味わい、満足する」と言う意味

何も辛い事を無理にでも喜べと言う事では有りません。

辛いものは辛いんです!でもその辛さをよく味わい、そこから神様の温かい親心を受け取る事が出来たなら、それがたんのうではないでしょうか?

 

 




また、人間の考えで大きな事をしようとする必要は有りません。

「神様の思惑に添わせて頂きたい。神様にお喜び頂ける通り方をしたい」

その心を神様が受け取って下さり、手を引いて下さると、父は教えてくれました。

小さな真実を積み重ねる事を神様は大きく受け取って下さいます。

常に神様の思いを求め、神様をめどに通らせて頂く事が、大切では無いかと思います。




天理教被害に苦しめられている方々に読んで頂きたい

以前、「天理教被害」という記事を書きました
それについて沢山のコメントを頂き、被害に苦しむ方々が今も時々コメントを寄せて下さいます。
どなたも今の現状に不満を抱き、なんとかしようとの思いを持っておられるようです。

しかし、成ってくるのが天の理です
おさしづから思案させて頂くと何よりも「たんのう」の心が第一だと思います
多くお寄せ頂いたコメントに対するボクの返事を記事としてここにまとめました

皆さんに読んで頂きたく願っております。

こちらもお読み下さい

(多少文章の変更もあります)
(この記事は現在未完成です)

━━━━━━ ※1 ━━━━━━

おやさまの御教えに背く教会長に対し、信仰心を 親神様、教祖へ向ける教会長だけが 教会長の資格があるとのコメントへの返事 その1  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

「所属教会で幸不幸が決まる。」
確かにそうかも知れません。しかし、何故そんな教会長の元へ行く事になったのでしょうか。それは、人が決めたのではなく、全て神様が決めて下さった事だと思います。
自分も両親は岐阜の生まれなのに、ちょっとしたきっかけで愛知県に引っ越して、現在の布教所に来ています。
神様が引き寄せて下さったとしか思えません。

その人の因縁に合った教会。

失礼な言い方かも知れませんが、それは悪い事ではなく、素晴らしい事ではないでしょうか。
人間はつい目先の幸せばかり考えてしまいがちですが、今の幸せに何の意味も有りません。

「にち/\にをやのしやんというものは たすけるもようばかりおもてる」
(日々に親の思案と言うものは、たすけるもようばかり思うてる)

神様は人間を真から救けたいと思し召し下さると教えて頂きます。
人間にはご存知の通り、前生からの因縁があります。その因縁を切るために通り返しの道を通らせて頂かねばなりません。
「ああして通らせて頂こう、こうもさせて頂こう」
それも結構ですが、所詮は人間が考えた事。そうでは無く、全て神様に凭れ、全てを神様にお任せして、自分は成ってきた事をたんのうの心で受け取らせて頂く事が大切では無いかと思います。
下のコメントにも書きましたが、一番辛いのは、何も知らない子供に苦労させなければならない神様だと、父が教えてくれました。
本来なら、今すぐ子供を幸せにしたい。しかし、それでは通れないほど人間には魂の徳が無いと聞かせて頂きます。
その為に神様は心を鬼にして苦労の道を与えて下さるのだと教えて頂きました。
辛いものは辛い。
でもその辛さを十分に味わい、これも神様のご守護だと、満足の心で受け取らせて頂く「たんのう」の心が大切だと思います。
それが、教祖ひながたの道を通らせて頂ける事になるのではないでしょうか。
偉そうに語ってしまい、申し訳ありません。
陰ながら応援しています。

━━━━━━ ※2 ━━━━━━

おやさまの御教えに背く教会長に対し、信仰心を 親神様、教祖へ向ける教会長だけが 教会長の資格があるとのコメントへの返事その2   コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

神殿の上に部屋を造るとは酷い話ですね。仰られる通り、普段の信仰態度もきっと神様を平気で踏みつけるような信仰をしておられるのでしょう。

実を言うとうちの布教所もよく似た事をやっています。
神殿普請の時に、神床の下にヘドロが埋めてあると聞きました。
元々田んぼを埋め立てて建設された神殿なので、神床の下には少々高額でもきちんとした土を埋めなければいけないのに、安く手に入るヘドロを埋めたのです。
周りの意見など決して聴かない所長でした。
「儂の言う事を聞けばいいんだ!」
そんな所長でした。

晩年は特に酷かったです
ボクは医者に掛かっているのですが、自分は少し怪我をすると(絆創膏でも貼ってれば治りそうな擦り傷です)入り込みの者に運転させて病院へ飛んで行くのに、ボクが病院へ定期検査へ行かせて頂きたいとでも言おうものなら2,30分は愚痴を聞かされました。
理由を聞かれたから答えたのに「言い訳するな」の一言
決して「お仕込み」とは言えない愚痴ばかりです。

何故病院へ行くのをそんなに嫌がるかと言うと、お金が掛かるからです
自分の事で金が掛かるのは平気でも、他人の為に金がかかるのは許せない。貰った手当でやっているにも関わらずです。

何故そのような人が所長でいられるのか?
下のコメントにも書きましたが)そのような人も用木を育てる為に神様が目をつぶって置いて下さっているとうちの親父に教えて貰いました。
考えてみればたかが病院へ行くのに愚痴を聞かされた。
たったそれだけの事でどれくらい因縁を切って頂けたのか分かりません。
その中を神様だけをみつめて歩んで来た事がどれだけ自分にプラスとなったのか測り知れません!
なんて有難い事なのか!

これがもしも逆に、本当にいい人で、こっちの為に親身になってくれる信仰上にも頼りになるひとだったとしたら?

神様よりも所長をめどにして、決して自分から神様の思いを求めようとかしていないでしょう。困った事があればなんでも所長に相談し、それを全て信じて解決していました。
自分の心を磨いてくれる人も見当たらず、所長の優しさに甘んじて、恩ばかりが積み重なっていた事でしょう。

あの所長であったからこそ、困った時は自ら神様の思いを求め、辛い中も喜びの心を持つことができたのです。

今はまだ夜明け前の仮の道と教えて頂きます。
本道が始まればきっとそんな人達には通るに通れない苦しみの日々が訪れる事でしょう。
それまでは大変な事も多々おありでしょうが、成ってくるのが天の理です。全て神様を信じてお通り願いたく思っております

偉そうに長々と語ってしまい、失礼しました

━━━━━━ ※3 ━━━━━━

おやさまの御教えに背く教会長に対し、信仰心を 親神様、教祖へ向ける教会長だけが 教会長の資格があるとのコメントへの返事 その3  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

お気持ちは大変分かります。
しかし、それは違うように思います。

「7分3分の理」(しちぶさんぶの理)というお言葉をご存知でしょうか?

自分も随分前に勉強した言葉ですので、上手く説明出来るか分かりませんが…

例えば!
大きな木を庭に植えるのに、十分な根が無いのでそのまま植えては枯れてしまいます。枯れないようにする為には余分な枝を切り落としてしまわなければなりません。

おさしづで

「どうしたらよい、こうしてらよいと、人間の心で出来る事は一つもあらせんで。人間の心で出けた事は一つも無いで。」

と、神様は仰られます

人間の考えで「お道のためにああするべきだ」とか「こうさせて頂こう」と考える気持ちはご立派だと思います。
しかし、所詮我々は目の前の、目に映ったものしか見えない人間です。
明日どころか、一分後、一秒後すらも分からない人間です。

そんな人間に、今からやろうとする行動が、果たして神様の思惑に本当に沿えているのかなどと、判断出来ません。
どこにどんな神様の思惑があるのか分からないのが人間です。
そんな人間の考えで何か大きな事をしようとしても、それは余分な枝として切り落とさなければなりません。

そこで「7分3分の理」です。
人間の考えで7分の事をすれば、理の働きにより、余分な枝は切り落とされ3分に変わってしまいます。

枯らさない為には切り落とさねばなりません。

それは、簡単に言えば、頑張って7歩歩いても、神様に受け取って頂く理は3歩だけだという事です。

この神様は「苦しめよう、困らせようとの神様では無い」と聞かせて頂きます。「日々に親の思案というものは 救けるもようばかり思てる」とも聞かせて頂きます。
「成ってくるのが天の理」です。
全ての出来事は神様による、世界一列を救けるための出来事です。
それを人間の考えで邪魔しようとする事は許されません

「成ってくるのが天の理」と心に治め、神様にもたれ、全てお任せし、どんな辛い事も、納得出来ない事も、神様の思惑として「たんのう」の心で通させて頂く事が大切ではないでしょうか?

人間の考えで大きな事をする必要は有りません。どんな小さなものでもひたすら積み上げた小さな真実を大きく受け取って下さいます。
その3分の真実を7分の理に受け取って下さいます。
一歩ずつしっかりと進んだ3歩は7歩として受け取って下さるのです。

それが「7分3分の理」と父から教えて頂きました。

自分達でどうにかなるものではありません。
神様の大きな思惑が有ります。

「日々に親の思案というものは 救けるもようばかり思てる」
という事は、この世は全て、どんな些細な事も、どんな大事でも、世界一列を救ける為に、寸分の狂いもなく神様が動かして下さっているのだとは思いませんか?

納得行かない気持ちも分かりますが、それは人間の考えであり、偉大なる神様の思惑の前では何の意味も持てません。

麻原彰晃だって神様の思惑だとボクは思います。
逆に麻原が出て来たのが神様の想定外でしょうか?
そんな神様では不安です!今すぐ信仰をやめます!

こうしてひまわりさんを始め、色んな方がこの記事にコメントを下さいますが、それも神様がボクの成人の為に引き寄せて下さったのだと思います。
簡単に気を抜いてしまうボクに「しっかりしろ」「気を引き締めろ」と喝を入れて下さっているのだと思います。

全て神様にお任せし、どんな事も「結構、結構」と言って通らせて頂きたいです。

ひまわりさんのお言葉
> 所属教会長は自分自身を磨いてくれる鏡だと思えと言う言葉はおやさまの御教えに努力しない教会長達の言い訳

これについても神様の思惑をおさしづから思案させて頂く事が有ります。これも後日、記事として書かせて頂きますので読んで頂けると幸いです。

神様をめどに、お互い頑張りましょう

※このコメントを書いた後に読み返したところ、書いてる途中で段々話がずれてしまっていた事に気がつきました。
本当に言いたかった事はこの話ではなく、こちらの記事をお読み下さい
むさくろしい者も一時寄せてある

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現在の天理教身分制度は酷すぎるとのコメントへの返事  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

>前世の行いがいいから楽して通れる?井の中の蛙もいいところ。

確かにそうですね。

上の立場で有りながら好き勝手やってる人の話を良く聞きます
そういう人を見ると人はよく「余程徳があるんだね」と言いますが、反対だと思います。
徳が無いからどんな事をしても神様から教えて頂けない。
何か有る度に神様から教えて頂ける人はそれだけ神様から大切にされているからではないでしょうか。

生き神様とまで言われた上級教会の初代会長は「僕はちょっとも気が抜けない」と仰られたそうです。
少しでも気を抜いて自分の好きな事をすればすぐに出直してしまうだろうと仰られたと聞かせて頂きます。
それが真実でしょう。
徳が有るから背負っているものが違います。
徳が無いから何をやっても教えて頂けない。

うちの所長の息子さんもそういう人でした。
生まれた時から次の所長になる事が決まっていた人です。
所長も所長で、信者が息子に注意でもしようものなら「俺の息子だぞ!」と怒鳴っていたそうです。
酷い時はそれが原因で出入り禁止にされた人もいるそうです。
そうやって身分に甘やかされて育っているので所長以上に手に負えない人でした。
それでも自分は立派な布教師のつもりでいます。
最後には信仰が耐えられず、姿を消しました。

娘さんは信者の影で(バレバレですが)父親である所長に暴力を振っていました。

余談ですが、何故分かっていて止めないかと言うと、所長は体裁を良くしたい人で、家庭内暴力を必死で隠しているのでこっちも何も出来ませんでした。下手に手を出して余計悪化する恐れもあった為。

話は戻ります…
所長亡き後、40を過ぎていたのですが、縁談が決まりました
相手は社会でもお道でもちょっとした位の有る家庭です。
結局そういう因縁なのでしょう。

一つ下のコメントにも書きましたが、用木が立派に育つ為の「肥料」のような因縁。
うちの所長は上級教会の初代会長より「お前の家は東海並木の肥やしの因縁だ」と教えて下さったとお聞きします。
「並木」では無く、並木を育てる為の「肥やし」です
本人らはなんの事か分かっていませんが、確かにボクらを育てる為の「肥やし」となってくれました。(僕自身はまだまだですが)

教祖は「大社高山あとまわし」「谷底せり上げの道」と教えて下さいました。

現在の身分制度に甘やかされ、何も苦労を知らず育った人達は、全てでは有りませんが、まさにそういう人達なのでしょう。
後回しにされる「大社、高山」の人達です。
それよりも「大社、高山」の言いなりにさせられている「谷底」を救けるための今の仮の道ではないでしょうか?
谷底を救けると言っても今の状態が良くなるだけで本当に救かったとは言えません。
長く積み重ねた神様への残念や悪因縁を取り除かなければなりません。
その為の「肥やし」となってくれる人達ではないかと思います。

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教会に多くのご不満を抱き、教会の人々に辛く当たられるとのコメントへの返事  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

なるほど、信者にお供えしろと言う教会は要するに生活費が足りないからというのもあるのですね。
まか確かに生活するのにお金も必要ではありますからね…

それにしても、ですよねぇ。
教祖は赤貧のどん底に落ち切られやっと手にした米も、何の惜しげもなく人に施されたと、
その中を勇んでお通り下さったと、誰もが聞かせて頂いた話なのに…

父は人間を立てる信仰ではなく、神様を立てる信仰だと教えてくれました。
教祖も「神さんめどやで」と教えて下さいます。

貴方の仰る通り、神様と自分の一対一の信仰心が大切なのでしょう。

本文にも書いた通り、長年所長に苦しめられたボクらは、ついつい神様を見失っていました。所長に気をとらわれず、神様だけを目標として進むように父に励まされました。
そして去年出直しました。

今現在、上級教会より、留守番先生としてある先生が一ヶ月に十日間来て下さいます。
本当に立派な方で、こんな布教所にこんな素晴らしい先生が居ていいのか?というくらいです。
ただ、立派な先生でも逆に神様を見失ってしまうものなんですよね。
「その先生について行けば」と、先生をめどにしてしまいそうで…

いつでも神様をめどに頑張っていきたいと思います。

リエポンさんも随分苦しんでいるご様子
どうか負けないで頑張って下さい
陰ながら応援します。

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新しい教会長夫妻に対する限界から天理教を辞められた方のコメントへの返事 その1  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

今は時間があまり無いので全文読んではいませんが、時間のある時にじっくりと読ませて頂きます。
また、折角コメント頂いたのに返事が遅れてしまった事、お詫び致します。

軽く流し読みさせて頂きましたが、お気持ち凄く分かります。本文にも書いた通り、うちの布教所も長く君臨し続けた所長に、我ら入り込み者はかなり苦しめられて来ました。

ネットを見ているとそう言う人種は多いようですね。
天理教の指導者でありながら、人を苦しめている人達。
人間である事も疑わしいような人達。

ボクはその手の人間を「プレシャス」と呼んでいます。
プレシャスとは「貴重な」と言う意味。
何故そんな人が貴重なのか…

うちの所長はおもてヅラは良いので、参拝に来る信者さん方は所長を信じている方もいますが、毎日のように来て下さるコアな信者方々は内情をよく知っています。

「入り込み者の皆はよく耐えられるね。出て行こうとは思わないの?」と聞かれた事もあります。

確かに正直言うと出て行きたいですよ。

他所の布教所に変わりたいですよ。

所長は「お前らが居なくても布教所は困らないぞ、出て行きたければすぐに出ていけ」とか言ってますが、実際に皆が出て行って一番困るのは彼なんですよね。

そんな簡単な事を考える事も出来ない所長に思い知らせてやりたいですよ。(まぁ、彼の場合はそんな事を言ってもボクらに出て行く気が無い事を知ってて言ってるんですけどね)

所長から離れたい気持ちは皆ありますよ。

でもボクらが信じているのは所長ではなく、神様です。
苦しめよう、困らせようと言う神様ではないと聞かせて頂きます。

「にんけんもこ共かわいであろをがな
  それをふもをてしやんしてくれ 」
「にち/\にをやのしやんというものは たすけるもようばかりおもてる」
(人間も子供可愛いであろうがな、それを思うて思案してくれ)
(日々に親の思案と言うものは、たすけるもようばかり思うてる)

と聞かせて頂きます。
苦しめようと言う神様なら「やってられっか!!」と、所長を2.3回殴って今すぐ荷物をまとめますが、親神様は我ら人間をわが子として、たすけたいばかりだ、と教えて下さる。それならそこは考え直します。

苦しめる神様ではないのであれば、今の現状はなんなのか、こんなに苦しんでいるのは何故なのか?
ただの偶然では有りません。

成って来るのが天の理ですから、きっと一列をたすけたいと思し召し下さる神様に考えがあっての事。

言わば、神様からの試練です。
ボクらも辛いです。
でも一番辛いのは何も分らない可愛い子供にそんな道を与えなければならない神様だと、父親は教えて下さいました。

少し話が逸れるようですが、ボクには可愛い甥っ子と姪っ子がいます。

もうすぐクリスマスなので甥っ子達が喜ぶようなプレゼントを買ってあげたいばかりですが、信仰するものはやはり小さい頃から恵まれてはいけないと言う考えから、いつも買ってあげるのは500円程度のお菓子です。

先日妹とその話をしておりまして、やはり妹も同じ気持ちでした。

本当はすんごい物を買ってあげたい。
でも、子供の将来の為を思うと買ってあげないのが子供の為だとは思う。
でも他人の玩具を見て羨ましがる姿を見るのは辛いのだとか。
で、どうしても買ってあげてしまうらしいです。

うちの両親はボクら兄弟にお菓子や玩具はあまり買ってくれませんでした。
子供に買ってあげるのを我慢して、毎月十万お供えしていた(お供えを強要されたのでも無く)そうです。

家族の生活レベルを下げ、子供達に買ってあげたい気持ちを抑えてのお供えです。頭が下がる思いです。
ボクにそれをやれと言われても無理でしょう。

僕らの徳分を考えるとそれぐらいでなければ通れなかったと思います。

話を戻しますが、神様も同じだと思います。
子供を今すぐ幸せにしてやりたい。

そう考えるのが親と言うもの。
それでは通れない因縁を持つ子供のために、心を鬼にしてこう言う道を与えて下さるのではないでしょうか。

それを考えると本当に有り難く、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。

折角辛い思いをして与えて下さっている道を、人間の方から拒否してしまってはいけません。

神様はたんのうの心が大切だと教えて頂きます。

辛いものは辛い!苦しいものは苦しい!
でもその苦しみを十分に味わい、神様の御守護と受取るのがたんのうだと、父は教えてくれました。

ボクがプレシャスと呼んでいる人種は、(本文にも書きましたが)神様が一時的に置いているのだと教えて頂きます。

人間は隔てなく神様の子です。プレシャスも例外ではありません。因縁の心に負けて汚い心を使っている子供を今すぐ出直させてやり直させて上げたい所を、世界一列をたすけると言う、大目標の為に目をつぶって置いてあるのだそうです。

それを考えると、自分の心を、因縁を磨いてくれる人達です。
神様が心を砕いて置いて下さっている人達ですから、本当は有難く、貴重な存在なのですね。

どうか今の現状を神様の御守護と理解し、辛い中も神様に感謝して、神様だけを目標に心を倒さずお通り頂きたく願っております。

長々とえらそうに語ってしまいました。
お許し下さい。

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新しい教会長夫妻に対する限界から天理教を辞められた方のコメントへの返事 その2  コメントを見る

▽▼▽▼▽▼返事▽▼▽▼▽▼

なるほど、かなり辛い思いをされたようですね。
そのように法外な額のお供えを強要する教会がきっとまだ幾つも存在するのでしょう。考えられませんね。

しかし…
一千万で助けてやるとは恐れ入りますねぇ…
たすけてくれるのは人間ではなく神様ですよね。
もう完全に心に神様が無い証拠ですよね。神様よりも自分を信じてしまっている。

ただ、貴方は天理教を辞めたと仰いましたが、ボクはまだまだ貴方が天理教を辞めたようには思えません。

確かに教会には行かなくなり、形としては「天理教を辞めた」
のかも知れません
しかし、「天理教を信仰」するのは辞めてはいないのではないでしょうか?

天理教とは教会に参拝したりお供えする事が天理教ではないかと思います。
逆にいくら教会に参拝し、お供えをしていても信仰しているとは言えない人もいます。

貴方は前のコメントに「おやさまが大好き」「困っている人がいたら助けたい」と仰っていました。
神様を信じ、教祖の教えを尊び、助け合いの心を忘れない。それは十分「天理教を信仰している」と言えるのではないでしょうか?

「純粋に、おやさまが大好き」
「困っている人を助けたい。」
ボクには貴方が素晴らしい信仰者であるように見えます。

頑張って下さい。

 

おさしづの解釈

うちの親父が毎日おさしづの研究をしています。

その親父がおさしづの解釈を日々書いておりまして、色んな人に配っております。




参考記事

神様の思いを求めて

ちょっとだけ再開 おさしづにお伺い




それを読みたいとのコメントをこのブログで頂きましたので、それを掲載しているブログを紹介します。




天理教ブログ お道の歩み ~おさしづから親神様の思いを求めて~






親父は人から「ちょっと気が狂ってる」とか「頭おかしい」とか言われた時期も有ったけど、それでも人の顔色など見向きもせず、真っ直ぐに神様を見つめ、おさしづの研究を続けて来てくれました。

そして今では親父の書いたおさしづの解釈した文章を求めて読んでくれる人がいます



ある人は…



両親を亡くし、自殺まで考えていたが、それを読んだら本当に心が楽になり、地獄から天国に来たように今は幸せな気持ちでいられると言います。




またある人は…



読んでいたら神様の有難い親心に涙が止まらなかったと言います。




かつて親父の事を「気が狂っている」と言っていた人も今ではそれを真剣に読んでいます。



それを多くの人に知って貰いたいと、うちの弟が始めたブログです。

最初は解りづらいかと思いますが、なれてくれば段々分かってくるのでは無いかと思います。


何より、分からない中を必死で神様の思いを求める気持ちが大切であり、そこに神様が働いて下さるのだと思います。


十柱のご守護(とはしらのご守護)

この世は親神様のご守護により万物は成り立っています。




・くにとこたちのみこと

  人間身の内の眼うるおい(体内の水分)

  世界では水の守護の理。

・をもたりのみこと

  人間身の内のぬくみ(体温等)

  世界では火の守護の理。

・くにさづちのみこと

  人間身の内の女一の道具、皮つなぎ

  世界では万つなぎの守護の理。

・月よみのみこと

  人間身の内の男一の道具、骨つっぱり

  世界では万つっぱりの守護の理。

・くもよみのみこと

  人間身の内の飲み食い出入り

  世界では水気上げ下げの守護の理。

・かしこねのみこと

  人間身の内の息吹き分け

  世界では風の守護の理。

たいしよく天のみこと

  出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引きとる世話

  世界では切ること一切の守護の理。

をふとのべのみこと

  出産の時、親の胎内から子を引き出す世話

  世界では引き出し一切の守護の理。

いざなぎのみこと

  男雛型・種の理。

いざなみのみこと

  女雛型・苗代の理。






 

十全のご守護、十柱の神様等の呼び名が有りますが、その守護の理を分かりやすく神名を配して教えて下さっています。


それぞれのご守護を聞かせて頂く事により我々人間は親神様のご守護に対して一つ一つに深く偉大なご守護である事を分からせて頂く事が出来、それをよく思案させて頂く時、感謝の心が溢れて参ります。

そうして日々生かせて頂いている事に御恩報じの心を持たせて頂く事が大切ではないかと思います。

教祖の教えて下さいました、我々人間の体は親神様からのかりものである事もこの十全のご守護により心に治める事が出来るのではないでしょうか。










にんげんハみなみな神のかしものや なんとをもふてつこているやら

にんげんハみなみな神のかしものや 神のぢうよふこれをしらんか

(人間は皆々神のかしものや 何と思って使っているやら)

(人間は皆々神のかしものや 神のじゅうようこれを知らんか)

<じゅうよう=自由と書く。自由自在の鮮やかなご守護>




河原町大教会初代会長 深谷源次郎先生

『結構源さん』と言えば天理教信者なら知らない人などほとんど居ない。

 

 

どんな出来事があっても「結構、結構」と通られた方だ

 

 

決して楽な事ばかりでなく、時には言葉に出来ない苦悩を抱えられた時期も有ったそうです

 

 

そんな時でも『結構、結構』との姿勢を決して崩さなかった

 

 

 

 

 

 

深谷先生は後に「斯道会」を結成

 

 

この斯道会、結成までには色々な困難が有ったそうですが、教祖から「清らかな所」と光栄なお言葉を頂いたとの事。

 

 

 

そして晩年には河原町大教会初代会長となられ、多くの信者から慕われた。

 

 

(間違ってたらすみません)

 

 

 

 

 

以前ちょっとした理由で手相の見方なるものを覚えた事が有る

今はもう覚えてない

 

 

本の最後に

 

「手相は変わるもの、例え不幸な手相であったとしても、常に前向きにポジティブに明るい心でいれば必ずや運気は上がり、良い手相になる」

と有った。

 

 

 

天理教の教え通りだ

 

 

 

 神様は人間を真からたすける為に一時的な苦労を与えて下さり、どんな苦労や困難も喜んで通らせて頂く事が後に結構なご守護が頂ける心使いであると教えて頂きます。

 

 

 

 

結構源さんの異名を持つ深谷先生はまさにそれを体現されたお方です。

 

 

 

 

そういえば一時期俺はこんな事を言っていた

 

 

 

「『結構源さん』に習って、俺はどんな時も『素晴らしい、素晴らしいご守護だ』で通って、『素晴らしい藤太郎さん』と呼ばれるような人間になる!」

 

 

 

 

とかね。

 

 

よく言うよ…

 

 

 

 

もう今ではそんな事すっかり忘れてしまっていた

 

 

しかし、それでも最近は極力グチを言わないよう、人を悪く思わないよう、どんな事も喜びに代えられるように気を付けてはいる。

やりきれてはいないが…

 

 

と言うか…

ボクにとってお道の上で唯一努力を続けられそうな事ってこれしか無い!

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一度『素晴らしい藤太郎さん』を目指してみよう!

 

 

 

 

なんて事を言ってたら

 

 

 

 

 

 

 

知人Nが

「じゃあ俺は『ありがたいNさん』になる!」

 

 

 

 

 

 

 

そしたら今度は知人Yが

「んじゃ俺は『いいねYさん』になる!」

 

 

 

 

とか言い出した…

 

 

 

 

 

 

パクリかよ。

 

 

 

 

よかろう、全員で目指そうじゃないか!

 

 

 

 

 

 

時には心から『素晴らしい』とは言えない時もあろう。

 

 

Cocolog_oekaki_2012_04_14_19_19

 

 

 



 

 

 

 

 

例え「嘘」でもいい

口先だけでもいい

 

 そう教えて貰った事がある

 

 

 

 

 

 

 

 

身上不足ありてどうもたんのうは出け難くい/\。(中略)今日もよい/\と言えば、たんのう出ける。悪い中にたんのう治められん。道理と言う。成らん中たんのう、治められん処から治めるは、真実誠と言う。前生いんねんのさんげとも言う。

 

不自由の処たんのうするはたんのう、徳をつむという、うけとるという、これ一つきゝわけにゃならん

 

 

 

と、おさしづで教えて頂いております。

 

 

たんのうとは「十分に味わう」

 

 

 

 

辛いものは辛い

その辛さを、苦しみを十分に味わい、これも神様のご守護と受け取らせて頂く心を神様は受け取って下さいます

 

 

 

 

 

 

心から『素晴らしい』とは言えない時でも、笑って『素晴らしい』と言えるように

 

 

 

 

 

 

 

不平不満の心は自分を更に不幸にする

 

 

 

天理教では不平不満の心を「不足」と言います。

 

 

 

 

不足とはその言葉通り『足りない足りない』と言っているようなもの

 

 

 

 

足りない足りないと言っていれば本当に『足りない』ようになってくる。

 

 

 

 

 

 

 

愚痴をこぼすのは簡単

弱音を吐くのはとても楽だ

 

 

 

 

しかし、そこをグっとこらえて『素晴らしい』と言えたらどんなに幸せなことか

 

 

 

 

 

 

 

 

意外に口先だけでも『素晴らしい』と言ってると本当に有難いと思えて来る。

 

 

 

教祖のお言葉に

 

                   

いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで。

 

と、有りますように、例えばどこかへ行こうと思った時に雨が降れば誰でも気分は良くないもの。

 

 

しかし、言うまでも無く雨が無ければ人間は生きていけない。

 

雨が降るのも親神様の結構なご守護である

 

 

 

また、農家の方は雨が降らなければ作物が育たない。

自分が雨で気分が悪くとも、中には今日雨が降って良かったと思ってる人もいるかも知れない。

 

 

 

それを考えて「雨か…いや、これもご守護、それにこの雨を喜んでいる人も居るんだ。素晴らしい雨が頂けたんだ」 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう自分に言い聞かせているうちに、本当に素晴らしいと思えてくる。

 

 

何となく嬉しくなり、神様に感謝出来る心になれる。

 

 

 

 

そんな心でずっと居られたらどんなに神様がお喜び下さることか

 

 

それが後にどれだけ結構なご守護を頂ける元となることか

 

 

 

 

 

 

頑張って続けてみようと思います。

 

 

 

 

 

青年会例会の話

今月の青年会例会で、終席なんて立派なものじゃ有りませんが、一番最後に話を努めさせて頂きました。

少し抵抗有りますが、その話を全文アップします。

 


毎月発行させて頂いている「○○」(名前は隠してます)で用語研究のコーナーをやらせて頂いています。一番最初に「徳」という言葉を研究したものを載せて、そのときはまだよかったんですが、二回目では「にをいがけ」で記事を書きまして、見てもらったところ不評でした。父にも見てもらったんですが、今回は載せるのは辞めた方がいいと言われ、休載する事になりました。

お道のお話を書くのに自分の考えではまともな記事など書けません。神様のお働きがあり、神様が書かせて下さるから文章が書けます。その後父から電話が有り「休み時間にもお道の勉強した方がいい」と言われました。父が言うには休憩時間は自分の時間であり、その自分の時間を自分の為ではなく、お道の御用に使わせて頂くからこそ神様が働いて下さり、お話がよく分かるのだと教えてもらいました。

最初の「徳」の用語を記事にしていたときは、まだいくらかよかったのですが、最近はすっかりお道の心が抜けてしまって、お道の勉強をさせて頂こうという気が全く起きず、因縁の心にドップリと浸かってしまい、そこから抜け出せない毎日を送っていたので、この機会にもう少しお道の勉強をさせて頂かなければと、反省しました。
お道の勉強をさせて頂くのにはやはり「おさしづ」「おふでさき」「みかぐらうた」の三つの原典が一番大切だと思います。神様の直接のお言葉です。教祖は人の口を通した分だけずれていくと教えて下さいました。しかし、おさしづを読ませて頂いても、本当に難しく、読んでてさっぱりです。

父が毎日おさしづの研究をしているそうです。実際休みの日に家に帰っても本当にパソコンの前に向かっておさしづの勉強ばかりしています。自分の事をやってる姿をあまり見ません。ボクが子供の頃、父はテレビが好きだったように思いますが、今は殆ど見てないし、酒もたばこもきっぱり辞めてしまい、毎日お道の勉強に没頭しています。
その父が言うには、おさしづの中で分からない言葉はおさしづで調べるそうです。

例えばおさしづに『神一条』と言うお言葉が出て来ます。人間的に知恵だけで考えれば意味だけは理解出来るかも知れませんが、神様のお心にある『神一条』とはどんな意味を示すのかは分かりません。

そこで『神一条』と言う言葉が出て来るおさしづを一つに纏めて読ませて頂く。すると父曰く、『神一条』の意味が解ってくるそうです。

それを聞いて自分もある程度纏めて読ませて頂いたんですが、それでもさっぱり分かりません。

でもボクの場合、分らないと思って投げ出すからダメなんですね。同じく正人がおさしづの中に出て来る『誠』というお言葉の意味を調べていて、朧げながらにも分かって来た事を教えてくれました。「ああ、なるほどな」と納得しました。ボクは読んでも分からなかったので、「俺はそういう理解力が無いからダメだな」と言いましたら、正人が言うには、自分も読んでいてさっぱり分からなかったそうです。

以前に正人は「自由自在」というお言葉を調べていまして、あの時は確かに「ダメだ、わからん」と言っていました。でも、分からないながらも読み終わった時、ふと「あ、こういう事なのか?」と自然に頭に浮かんできたそうです。確かに考えてみれば頭の良い悪いで出来る道ではないように思います。

木は水を求めて下へ下へと根っこを伸ばします。それと同じだと父から教えてもらいました。水と神とは同じ事と教えて頂きますように、低い低い心で分からないながらも神様のお心を求める事が大事だと教えてくれました。

それを実感する体験があります。いつも分からない事や迷う事が有ると、おさしづにお伺いします。おさしづの本を手にして神様にお願いをし、ぱっと開いたページを見るとそれにピッタリと合ったおさしづがあるんです。

以前はそうやって「これは神様がこう教えて下さっている」と思える事がよく有ったのですが、最近は全く関係なさそうなおさしづが開かれる事が多く、何かしっくり来ない事が続いていました。それだけ自分の心が歪んでいたのでしょうか。

父はいつもおさしづを研究して、おさしづを解釈したものを皆に配っています。それを読んでくれる人が沢山います。ボクもそれを貰うんですが、その中で特に心に残ったおさしづの一部分に

さしづのついでに尋ねに出る。ついでゝは、心胆さしづ出来ぬ。

と、あります。父の解釈によると、

【面々尋ね出る処に置いて、先ず第一に「変わった事・困った事が出来た、何を教えて下さるのか」と尋ねる。目の前の自分の都合が先ず第一であり、ついでに神の話を聞こうとする。ついででは、心を込めてさしづをしてやる事が出来ん。】

と解釈がしてあります。

困った出来事に対し、自分が助かりたいという目的を最優先にお伺いし、ついでに神様のお言葉を聞くような気持ちで尋ねる心を指しているのでは無いかと思わせて頂きます

おさしづを開いても何がなんだか分からないまま終わってしまった事が続いたと先ほど言いましたが、お伺いする時、その心はというと神様の思いを求めたいよりも、「今のこの状況を何とかしたい」とか、「自分が助かりたい」とか、そういう「自分」を優先する心が先に立ってしまっていたのではないかと思います。本当に情けない心だと思います。

おさしづの続きに


十分話、静か/\伺い尋ね、何遍尋ね。ちゃんと話し一人済んで了う。



この部分を

【真実の理が治まる為の十分の話をするなら、人間心を捨てて心を鎮め、神のさしづに伺い尋ね、納得の行くまで何遍も尋ねるなら、ちゃんとした神の話が一人で治まってしまう】

と解釈がしてあります。

今日のこの土曜集会でお話させて頂く内容を先月末あたりから考えていまして、なかなか思い付かずにいて、26日、ご本部の団参へ行かせて頂きまして、緩みきった心を引き締めてもう一度やり直させて頂きたいと教祖の前に来ましたが何も言えず、ただただ教祖の前で頭を下げていた時ふと、「あまりカッコ悪い話はしたくない」という気持ちが有った事に気付かせて頂き、そんな気持ちは捨てて神様にお喜び頂けるように努力したいと、心定めをした数日後何度も心が緩みそうになる度に神殿で神様に向かって座っていました。

その時ふと神様が何か教えて下さるような気がしておさしづを開きましたら、久しぶりに心に響くおさしづを頂きました。ちょうど今の自分の間違いを教えて下さるかのようなおさしづでした。

自分にしては珍しく、本当に真剣だった心を受け取って下さったのかも知れません。

なので皆さんもですね、何か迷っている事や、友達等に困ってる人がいる、助けてあげたい等があればおさしづにお伺いさせて頂くといいと思います。自分の為ではなく、お道の御用の為、人の為に心からお伺いすれば、その時は分からなくとも、きっといつか神様がお答えを見せて下さると思います。

自分はと言うとそんな心をずっと続けられればいいのですが、すぐに自分を庇う心、自分の都合を優先させる心ばかり使ってしまう、情けない人間心が多いです。お道の勉強をさせて頂く上で本当に邪魔な心ばかり使ってしまいます。

お道は「自分の幸せ」とか「家族の幸せ」とか、そんな信仰では無いと思います。

世界一列をたすける為に天下った

とお聞かせ下さいます。世界だすけの信仰とお聞かせ下さいます。

お道を聞かせて頂きながら、幸せになる為に信仰していらっしゃる方が数多く見られますが、神様の世界だすけの為にどれだけお役に立たせて頂けるか。それが一番の目的だと思います。

自分の埃の心を自分の力では変えることなど出来ません。また、自分でお道の為にこうさせて頂こう、ああもさせて頂こうというのは自分の考えです。そうではなく、「神様にお喜び頂きたい、神様のお役に立たせて頂きたい。」そんな少しの真実の心を神様が受け取って下さり、大きな力で支えて下さる、世界だすけに役立たせて下さる道だと教えて頂きます。常に神様を心に置いて、分からないながらも神様の思いを日々に求めさせて頂き、お役に立たせて頂けるよう努力させて頂きたいと思います。